第13話 【私物国家日本概観】
<21世紀初頭の日本社会>
「死」と「暴力」のリアリティを失認した人間どもがうごめいている。テレビゲーム、携帯メール、インターネットへののめり込みなど様々な生活様式や遊び方の変化とともに人間関係は希薄になり陰湿ないじめを生み出している。若者のひきこもりは100万人を越えようとしている。フェミニズム(男女同権主義)の嵐は男女共同参画型社会を叫び、保育と介護の社会化を強要して家族崩壊・家庭崩壊の元凶となっている。 ヒューマニズム(人権尊重主義、博愛主義、人道主義)は一方的な人権尊重の傾向を持っており、学校や社会の病理(いじめ・盗み・暴力・殺人など)を助長している。学校崩壊・学級崩壊はその一例である。自由放任のもと我がまま放題に育ち勤勉・努力・辛抱・我慢を忘れた父母が平気で子どもを虐待し殺す。保険金目当ての殺人など金のためならどんなこともいとわない。被害者の心情など全く思いやることができない。これら人外のばけものの爆発的な増加も過度のヒューマニズムの弊害だろう。そして心地よくひびくいやしき社会主義、結果平等主義は競争力を失わせて活気のない社会をつくりだしている。
<一億総無責任国家>
現代のお粗末な民主政治の下では、政治家は選挙に有利になるように予算を奪いあっている。官僚は出世を考え権限を拡大している。人々は他人の負担でより多くの利益を得ようとばかり考えている。そして財政はばらまきになり肥大化し行政組織は無限に自己増殖している。その結果700兆円を越える負債にあえぐデフレ経済は銀行の不良債券処理を加速し、貸ししぶり・貸しはがしを招き、自殺者をあふれさせ、その数は毎年3万人を優に越えている。各種優良、巨大企業のうそやごまかしに満ちた体質が次々と明らかになった。監督官庁のなれ合い手抜き監査もあらわになった。それぞれの最高責任者の誰も責任を取っていない。恐ろしく歪みきった体質のようだ。
さらには使途不明が当然というばかりに画策された内閣官房機密費、外務省機密費も暴かれた。機密費名目の出鱈目予算は全省庁にあることだろう。嗚呼、国民の血税が無責任とデタラメで闇から闇へ消滅してゆく。警察のやらせ操作、遊興・接待の裏金つくりも、とうとう暴露された。平成14年4月にはあろうことか検察庁までが裏金作りに奔走していたことが露呈した。これら裏金(税金)の全てが幹部の遊興費に消えたと言う。しかも検察庁は、この良心と正義の勇士を、組織をあげて口封じのために、罪をデッチあげて逮捕したのだ。おまけに謀略者たちは責任をとらないばかりか全て昇進を果たしているという。国家の正義を守るべき検察がこの為体(ていたらく)、言語道断だ。
かくのごとくに、今日の一億総無責任国家の根源が日本の(一体化して区別がつかなくなってしまっている)政治と行政の腐敗・堕落にあることは間違いない。
<日本というシステム(国家体制)の本質>
権力階級としての政官財の強い結びつきは資本主義と社会主義を極めて巧妙に組み合わせ、しかも情報統制(非公開、隠匿、操作)をもって国民を飼いならしている。いまや日本は政治献金の総もとじめの圧力経済団体と、発想が貧困でわいろに弱く強権的で政治と行政を私物化した独裁官僚と、官僚のこまづかいに成り下がった自民党族議員が拝金主義をもって暗躍する虚業ギャンブル国家となってしまっている。そのうえに表面上の豊かさに惑わされた人々は危ういあなたまかせの平和(平和は国民の不断の努力で懸命に維持するものなのだ)のなかで怠慢になり、より深くより広く考えることをやめてしまっている。既得権益にしがみつく寄生虫のごとき独裁官僚と金集めに狂った政治家の絶妙なコンビは地方交付税、補助金、各種措置制度、助成金、公共事業などをエサにして地方自治を強力に制御している。彼らに強力なコネを持った悪がしこく目ざとい財界がいち早くこれらにタカる。彼らはまた特殊法人・公益法人とそれにぶら下がる多くの天下り法人を従えている。これにより民間会社の参入は強力にブロックされ、民間活力の活性化を完全に抑制している。これが日本独特の中央集権型・巨大ピラミッド型の「一億総『潜在能力』搾取・没収システム」なのだ。この日本のかなしくおぞましいシステムは、各種法律の制定・改定をもって増殖し徐々にすき間なく全国民の間に張りめぐらされ続けてきた。そして今では人々の将来の夢と希望を完全に奪い去ってしまっている。2003年3月21日戦争をもってしか国家を支えることができない野蛮な国アメリカはついにイラクとの戦争を始めた。憲法上戦略軍隊を持てない日本は日米安保条約(日米軍事同盟)のもと属国として、あるいは自主判断の許されない飼い犬”ポチ”としてアメリカの言いなりでしか動けない。戦費などの無駄ゼニは、おそらく3兆円以上の巨額をぶんどられることであろう。何という為体(ていたらく)だ。作家の村上龍氏はその著書『希望の国のエクソダス』のなかで、「この国には何でもあります。だが希望だけがない」と書いた。だが私にはそれ以上に「リアリティも夢も希望もない」としか思えない。
<誠実な国、新しい日本の誕生への大いなる期待>
昭和43年私が井原高校を卒業する時、既に幻想でしかなかったかもしれないが、日本には形を成した家庭があり学校があった。ヒューマニズムもフェミニズムも適度だった。いじめはあったがかわいいものだった。みんなに機会平等を保障してくれた寛容で優しい社会があり国家があった。世界に誇る工業技術があった。貧しくて不自由ではあったが実在し躍動する生命感も夢も希望もふんだんにあった。
行政官はnoblesse oblige(高い身分に伴う道徳上の義務)を気高くもっており清廉だった。検察は汚職に薄汚れた政治家の圧力に屈することなく容赦なく巨悪に迫った。
2003年(平成15年)に井原高校は創立100周年を迎えるという。私はこの拙稿で、ある一面的な見方でしかないだろうが、限られた文字数の中に現在の日本の有様について、できるだけ多くのことを簡潔に詰め込んで記述してみたかった。そのことは同時に私にとっての35年のへだたりを「現実・夢・希望」をキーワードに書くことにもなった。書き終えて私の心は憂うつになってしまった。私はこの心のくもりが晴れ上がる日を身をこがすような想いで心待ちにしている。井原高校の卒業生の皆様に、そしてこれから卒業しようとする若ものたちに、新しい日本の礎となって欲しいと切実に願っている。
平成15年5月16日 鳥越恵治郎