へー「愛国心」ね。「国を愛する心」か? よう分からんなぁ。
ところで「愛する」ってどういうことかな。キリスト教の得意とする「愛」
っていうのは、この世の悪や欺瞞を覆い隠す便利な道具のようにみえて胡散臭
いけど。サッチャーは言う「愛とは何の見返りもなく与えること」。またアウ
ン・サン・スー・チーも同じように言う。「わたしにとって愛とは惜しみなく
与えることです。人々の苦悩をやわらげ、彼らを幸せにすること。そのために
持てる全てを与える。それは自己犠牲などではなく喜びなのです」。
そうすると「愛国」ってのは「国に対して惜しみなく、何の見返りもなく与
えること。国を幸せにすること」で、「愛国心」というのは「愛国のために自
分の持てる全てを(国に)与えるという心で、それは”喜びの心”なのだ」と
いうことになる。まてよ。ならば以下の引用文はどう理解すればいいのかな。
それにしても、名誉の出征に、名誉の戦死。聖戦という言葉も使われまし
た。聖戦は鬼畜米英にホリーウォーと訳されて噂されましたが、アラヒトガ
ミだとか、いざというときには大昔の蒙古襲来のときのように神風が吹く、
なぜならわが国は神国だから、だとか。よくもまあ国の指導者があれほど次
から次に、阿呆を阿呆と思わずに言い、国民もまた、その阿呆にあきれてい
た者まで、とにかく、権力者たちに追従したのです。
あれは、全体主義国家の国民としては、やむを得ない生き方であり、世界
に冠たる大和民族の性癖でもあるのでしょう。世界に冠たる大和民族は、天
皇を担ぐ権力者たちに押し付けられた言葉や考え方を否でも応でも、とにか
く受け入れ、追従する者も、便乗して旗を振っている者も、みんな家畜にな
りました。(古山高麗雄『人生、しょせん運不運』草思社、p.144)
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戦時下重要産業へ全国民を動員するとか。全国民のこの苦悩、人格の無視、
ヒューマニティの軽視の中に甘い汁を吸っている奴がいる。尊い意志を踏み
にじって利を貪る不埒な奴がいるの だ。何が愛国だ? 何が祖国だ? 掴み所
のない抽象概念のために幾百万の生命を害い、幾千万、何億の人間の自由を
奪うことを肯んずるのか。抽象概念のかげに惷動する醜きものの姿を抉り出
さねばならぬ。徒らに現状に理由づけをして諦めることはやめよう。(1941.
9.14:佐々木八郎、1945年特攻にて戦死、享年22歳)(大貫美恵子氏著
『学徒兵の精神誌』岩波書店、p.83)
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日本人ほど安価な感傷主義者の多い国はないだろう。それはまた、為政者
にとって好都合でもあるが。愛国故に自己を犠牲にしても惜しまぬという愚
衆の考え方は、一種の自己陶酔のマニアとしか思われない。
国家は私の理論では個人の下に立つ二次的存在である筈なのに、現実では
最も極端に個人はその存在価値を低められている。即ち国家は個人の上位に
在り絶対的に君臨する。(宅島徳光、1945年4月9日戦死、享年24歳)(大貫
美恵子氏著『学徒兵の精神誌』岩波書店、p.174)
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権力者は共産主義者であれ、自由主義者であれ、国家社会主義者であれ、
天皇愛国主義者であれ、口先ではみな立派なことを言う。自由だの、豊かさ
だの、平和だの、平等だの、民族の誇りだの、愛国だのと言うのである。
そして、それを脅かす敵を国内や国外に作り出し、庶民をけしかける。
「革命の敵」「自由の敵」「民族の敵」というレッテルを張って、国内外に
敵を作り出し、流血を引き起こすのだ。これにより自分たちの特権を守り、
そこから利益を得る。これが権力者のずるさである。(中山治氏著『誇りを
持って戦争から逃げろ!』ちくま新書、p.22)
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……最善でも、国家はひとつの災い。……私はこれ以上的確な国家論を知
らない。思えば、国家とは、われわれにろくなことをしたためしがないのだ。
民主的共和制だろうが、国民国家だろうが、そのお慈悲は、戦争や他民族の
抑圧など巨大な災厄に比べれば、ほとんどなきに等しいものではないか。エ
ンゲルスはこの序文でさらに、プロレタリアートが国家の災いの最悪の部分
を切り取り、「ついには新しい自由な社会状態のもとで成長した世代が、国
家のがらくたをごみために投げすててしまうときがくるだろう」と、国家の
死滅を予測したのだが、いうまでもなく、そんな時代は一度としてやってこ
なかったのであり、国家はごみために投げ捨てられるどころか、逆に、われ
われのほうが、国家によって、がらくたとしてごみために投棄されそうな雲
行きである。国家は、つまり、依然、もっともよい場合でもひとつの災厄で
ありつづけているのであり、今後とも、とことわにそうなのではないかと私
には思われる。日本という国もまた、その例外ではありえない。(辺見庸氏
著『抵抗論』毎日新聞社、p.58-59)
ところで、この国の兵隊年齢をとうに越した偉い権力者が『美しい国へ』と
いう本を出して、”国家への忠誠”などという気色の悪いまがまがしい言葉を
巧みに隠しつつ「大義に殉じる」とか「それ(命)をなげうっても守るべき価
値が存在するのだ」などと書いているらしい。
はっきり言う。「無意味な美辞を書き連ねて、よく言うよ!! こんな気分に
はお前だけが浸ってろ!! お願いだから自分勝手な思い込みを国民に押しつけ
ないでちょうだいね」。
筆者は最近姜尚中氏の書かれた『愛国の作法』(朝日新書)を読んだ。国に
は愛し方があるという。”真の愛国心”と”偽の愛国心”があるというのだ。
<「偽の愛国心」(竹越与三郎『人民読本』(明治34年)>
若し過ちて、何事にても我国民の為したることは是なりとするが如きこ
とあらば、是れ真正の愛国心にあらずして、虚偽の愛国心なるを忘るるこ
と勿れ。我国民の為したることも、是なることもあれば、非なることもあ
り。其非なることも、我国民の為したることなりとて、強ひて之を是なり
とすることあらば、是れ他国に対して、我国民の信用と威望を損するもの
にして、決して愛国の所業にはあらず。……虚偽の愛国心は、却って其国
の信用と威望を失ふものなり。
<「真の愛国心」(竹越与三郎『人民読本』(大正3年)>
故に国家を外にして個人の存立し能はざるが如く、個人の生存と進歩と
を外にして、国家の目的あることなし。故に国家の政治にして、此の目的
に外るることあらば、是れ国家の過失なるが故に、愛国心あるものは、起
つて国家の過失を鳴らして、之を匡正せざるべからず。此の時に方りては、
国家の過失を鳴らすことは、即ち愛国の所業なりとす。
姜尚中氏は上記竹越の言を巧みに引用しつつ、「国家が誤りを犯すならば、
これを正し、『匡正』することこそ『愛国心』であるという竹越の『愛国のす
すめ』は、ただ日本の美しい伝統や国土、その文化や情趣をナルシシズム的に
吹聴する『愛国』とは大きくかけ離れています」と述べている。
2007年初頭の日本は滅びへの道を突っ走りはじめている。権力は”偽の愛国
心”を国民にしきりに植えつけようとしている。「平和は不断の努力で維持し
続けるべき動的状態だ」ということを忘れ、平和ボケしたノーテンキな国民は、
深慮なく国家の情緒的プロパガンダに愚弄されている。立花隆氏も著書『天皇
と東大<下>』(文藝春秋)で「一つの国が滅びの道を突っ走りはじめるとき
というのは、恐らくこうなのだ」と警告し、「たとえようもなくひどい知力の
衰弱が社会をおおっているため、ほとんどの人が、ちょっと考えればすぐにわ
かりそうなはずのものがわからず、ちょっと目をこらせばみえるはずのものが
見えない」と現状の日本を的確に俯瞰している。
今後日本では”戦争ができる国家”を指向して、手始めに教育基本法改悪を
行い、”偽の愛国心”を煽り、さらに国民投票法案を無理矢理押し通し、その
あと返す刀で憲法改悪に邁進し第9条を骨抜きにしようとしている。
国家の理想は”正義と平和”にあると訴え、戦争に終始反対していた日本の
良識の最高峰であった東大教授・矢内原忠雄氏は、度重なる言論弾圧により昭
和12年12月2日、最終講義を終えて大学を去った。氏の思想の一端を紹介しつつ
この国に今後も”真の愛国心”を持ち言論弾圧に決して屈しない多くの人材が
輩出することを願っている。
国家の理想は正義と平和にあるということ、戦争という方法によって弱
者をしいたげることではないということです。国内においても国際的にも強
者が弱者をしいたげるために用いる手段が暴力で、それが戦争政策になる。
国家の理想というか、いかなる国が立派になり、栄えるかということは、理
想にしたがって歩むかどうかということだ。理想にしたがって歩まないと国
は栄えない、一時栄えるように見えても滅びるものだ。(矢内原忠雄氏著
『私の歩んできた道』日本図書センター、p.54) |
平成19年2月14日 鳥越恵治郎 |
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