第22話:【昭和日本のおバカなテロと戦争(昭和元年から敗戦まで)】
【昭和日本のおバカなテロと戦争(昭和元年から敗戦まで)】
    <人間によっぽど欠陥があったんだ>(古山高麗雄)
  軍人はバカだからです。勉強はできますよ。紙の上の戦争は研究
  していますよ。だけど人間によっぽど欠陥があったんですよ。
   (保阪正康氏著『昭和の空白を読み解く』講談社文庫、p.93)

  権力は思う、「国民は戦争の『人的資源』だ」と。冗談ではない。戦争気違
 いどものおもちゃや使い捨てにされてたまるか。平成17年8月1日の”自民党改
 憲案”では”公益”とか”公の秩序”などとナショナリズム喚起・高揚を促し
 、軍隊保有については「自衛軍」保有を明確に定め、国際平和のために「国際
 的に協調して行われる活動」ならば海外派兵を認めている。さらに「自衛軍」
 が公共の秩序の維持に使われることも謳われた。これは治安出動という「軍隊
 の国民への暴力」も辞さないということだ。小熊英二氏は言う(朝日新聞、
 平成17.8.2 朝刊 p.31)。「私は自民党の改憲論議が報道されるたびに、彼ら
 は憲法というものを、国家の最高法規というよりも手前勝手な道徳論や文化論
 をぶちまけて国民に説教を垂れる場と勘違いしているのでは、と感じてきた」。
  筆者も同感である。戦争を知らない、知ろうとしない世代ばかりになった今、
 改めて私たちは戦争の真実を知らなくてはならない。権力の欺瞞や無責任と徹
 底的に対峙しなければならない。
  (以下、◎:年代、★:背景、●:必須項目、※:注釈などで区切る)。
 
  <おバカの象徴:軍人勅諭(明治15年、山県有朋)より>
   「世論に惑わず政治に拘らず、只々一途に己
   が本文の忠節を守り、義は山獄よりも重く、死
   は鴻毛より軽しと覚悟せよ」。

  ************【帝国陸軍の実態(ほんの一部を紹介)】**********
             <ひっ殺してゆけと言った>
  私の連隊である戦車第一連隊は戦争の末期、満州から連隊ごと帰
  ってきて、北関東にいた。東京湾や相模湾に敵が上陸すれば出撃す
  る任務をもたされていたが、もし敵が上陸したとして、「われわれ
  が急ぎ南下する、そこへ東京都民が大八車に家財を積んで北へ逃げ
  てくる。途中交通が混雑する。この場合はどうすればよろしいので
  ありますか」と質問すると、大本営からきた少佐参謀が、「軍の作
  戦が先行する。国家のためである。ひっ殺してゆけ」といった。
      (司馬遼太郎氏著『歴史の中の日本』他より引用)

  「大正末年、昭和元年ぐらいから敗戦まで、魔法使いが杖をポン
  とたたいたのではないでしょうか。その森全体を魔法の森にしてし
  まった。発想された政策、戦略、あるいは国内の締めつけ、これら
  は全部変な、いびつなものでした。
  この魔法はどこからきたのでしょうか。魔法の森からノモンハン
  が現れ、中国侵略も現れ、太平洋戦争も現れた。世界中の国々を相
  手に戦争をするということになりました。・・・
  国というものを博打場の賭けの対象にするひとびとがいました。
  そういう滑稽な意味での勇ましい人間ほど、愛国者を気取っていた。
  そういうことがパターンになっていたのではないか。魔法の森の、
  魔法使いに魔法をかけられてしまったひとびとの心理だったのでは
  ないか。・・・あんなばかな戦争をやった人間が不思議でならない
  のです」(司馬遼太郎『雑談「昭和」への道』より)

  「参謀」という、得体の知れぬ権能を持った者たちが、愛国的に
  自己肥大し、謀略を企んでは国家に追認させてきたのが、昭和前期
  国家の大きな特徴だったといっていい。(司馬遼太郎『この国のか
  たち<一>』より)

  日本の軍隊の伝統には独特な要素があった。例えば、ドイツ軍で
  は「敵を殺せ」とまず命じられたが、日本軍は殺すこと以上に死ぬ
  ことの大切さを説いた。この日本軍の自分たちの兵士に対する残虐
  性は、19世紀後半の近代化の初期段階においてすでに顕著に現れて
  いる。1872年に発令された海陸軍刑律は、戦闘において降伏、逃亡
  する者を死刑に処すると定めた。もちろん良心的兵役拒否などは問
  題外であった。軍規律や上官の命令に背くものは、その場で射殺す
  ることが許されていた。さらに、江戸時代の「罪五代におよび罰五
  族にわる(ママ)」という、罪人と血縁・婚姻関係にある者すべて
  を処罰する原則と同様に、一兵士の軍規違反は、その兵士のみなら
  ず、彼の家族や親類にまで影響をおよぼすと恐れられていた。個人
  の責任を血族全体に科し、兵士個人に社会的な圧力をかけることで、
  結果的に規律を厳守させていたのである。この制度によって、兵士
  の親の反対を押さえつけ、兵士による逸脱行為はもちろんのこと、
  いかなる規律違反も未然に防止できたのである。さらに、警察国家
  化が急激に進むにつれて、1940年代までに、国家の政策に批判的な
  著名な知識人や指導者が次々と検挙・投獄され、国家に反する意見
  を公にすることは極めて困難になった。(大貫美恵子氏著『学徒兵
  の精神誌』岩波書店、pp.7-8)

  自発性を持たない兵士を、近代的な散開戦術の中で戦闘に駆り立
  てるためには、命令にたいする絶対服従を強制する以外にはなかっ
  た。世界各国の軍隊に比べても、とくにきびしい規律と教育によっ
  て、絶対服従が習性になるまで訓練し、強制的に前線に向かわせよ
  うとしたのである。そのためには、平時から兵営内で、厳しい規律
  と苛酷な懲罰によって兵士に絶対服従を強制した。それは兵士に自
  分の頭で考える余裕を与えず、命令に機械的に服従する習慣をつけ
  させるまで行なわれた。兵営内の内務班生活での非合理な習慣や私
  的制裁もそのためであった。「真空地帯」と呼ばれるような軍隊内
  での兵士の地位も、こうした絶対服従の強制のあらわれであった。
  このような兵士の人格の完全な無視が、日本軍隊の特色の一つであ
  る。すなわち厳しい規律と苛酷な懲罰によって、どんな命令にたい
  しても絶対に服従することを強制したのである。(藤原彰『天皇の
  軍隊と日中戦争』大月書店、pp.4-5)

   兵士の生命を尊重せず、生命を守る配慮に極端に欠けていたのが
  日本軍隊の特徴であった。圧倒的勝利に終った日清戦争をみてみる
  と、日本陸軍の戦死、戦傷死者はわずか1417名に過ぎないのに、病
  死者はその10倍近くの11894名に達している。・・・これは軍陣衛生
  にたいする配慮が不足し、兵士に苛酷劣悪な衛生状態を強いた結果
  である。
   日清戦争では悪疫疾病に兵士を乾したが、日露戦争の場合は兵士
  を肉弾として戦い、膨大な犠牲を出した。火力装備の劣る日本軍は、
  白兵突撃に頼るばかりで、ロシア軍の砲弾の集中と、機関銃の斉射
  になぎ倒された。・・・旅順だけでなく、遼陽や奉天の会戦でも、
  日本軍は肉弾突撃をくりかえし、莫大な犠牲を払ってようやく勝利
  を得ている。・・・
   日露戦争後の日本軍は、科学技術の進歩、兵器の発達による殺傷
  威力の増大にもかかわらず、白兵突撃万能主義を堅持し、精神力こ
  そ勝利の最大要素だと主張しつづけた。その点では第一次世界大戦
  の教訓も学ばなかった。兵士の生命の軽視を土台にした白兵突撃と
  精神主義の強調が、アジア太平洋戦争における大きな犠牲につなが
  るのである。
   兵士の生命の軽視がもっとも極端に現れたのが、補給の無視であ
  った。兵士の健康と生命を維持するために欠かせないのが、兵粘線
  の確保であり、補給、輸送の維持である。ところが精神主義を強調
  する日本軍には、補給、輸送についての配慮が乏しかった。「武士
  は食わねど高楊子」とか、「糧を敵に借る」という言葉が常用され
  たが、それは補給、輸送を無視して作戦を強行することになるので
  ある。(藤原彰氏著『天皇の軍隊と日中戦争』大月書店、pp.10-11)

  (敗戦直前の昭和20年8月13日、最高戦争指導会議でのできごとを
  東郷茂徳が日記に残しており、以下のように記述している)。
   会談中に大西軍令部次長が入室し、甚だ緊張した態度で雨総長に
  対し、米国の回答が満足であるとか不満足であるとか云ふのは事の
  末であつて根本は大元帥陛下が軍に対し信任を有せられないのであ
  る、それで陛下に対し斯く斯くの方法で勝利を得ると云ふ案を上奏
  した上にて御再考を仰ぐ必要がありますと述べ、更に今後二千万の
  日本人を殺す覚悟でこれを特攻として用ふれば決して負けはせぬと
  述べたが、流石に両総長も之れには一語を発しないので、次長は自
  分に対し外務大臣はどう考へられますと開いて来たので、自分は勝
  つことさえ確かなら何人も「ポツダム」宣言の如きものを受諾しよ
  うとは思はぬ筈だ、唯勝ち得るかどうかが問題だと云つて皆を残し
  て外務省に赴いた。そこに集つて居た各公館からの電報及放送記録
  など見て益々切迫して来た状勢に目を通した上帰宅したが、途中車
  中で二千万の日本人を殺した所が総て機械や砲火の餉食とするに過
  ぎない、頑張り甲斐があるなら何んな苦難も忍ぶに差支へないが竹
  槍や拿弓では仕方がない、軍人が近代戦の特質を了解せぬのは余り
  烈しい、最早一日も遷延を許さぬ所迄来たから明日は首相の考案通
  り決定に導くことがどうしても必要だと感じた。(上記引用は保阪
  正康氏著『<敗戦>と日本人』ちくま文庫、p.242-243より)

            <権力は弱みをついて脅すのだ>
   天皇のために戦争に征ったという人もいるが、それは言葉のはず
  みであって関係ないですね。それより、戦争を忌避したり、もし不
  始末でもしでかしたら、戸籍簿に赤線が引かれると教えられたので、
  そのほうが心配でしたね。自分の責任で、家族の者が非国民と呼ば
  れ、いわゆる村八分にあってはいけんと、まず家族のことを考えま
  した。(戦艦『大和』の乗員表専之助氏の述懐:辺見じゅん氏著
  『男たちの大和<下>』ハルキ文庫、p.276)

       <戦争は権力のオモチャ(退屈しのぎ)だ>
   国家権力は国民に対する暴力装置であり、その性格は佞奸邪知。
  その行動原則は国民をして強制的、徹底的に情報・言論・行動・経
  済の国家統制の完遂を目論むことである。従って異論や権力に不都
  合な論評や様々な活動は抹殺、粛清される。畢竟、国家権力とは、
  国民を蹂躙・愚弄・篭絡する「嘘と虚飾の体系」にほかならないと
  いうことになる。
   さらに言えば「戦争」は権力に群がる化物どものオモチャ(退屈
  しのぎ)である。犠牲者は全てその対極に位置するおとなしい清廉
  で無辜の民。私たちは決して戦争に加担してはならないことを永遠
  に肝に銘じておかなければならない。(筆者) 

             <戦争は起きる>
   誰しも戦争には反対のはずである。だが、戦争は起きる。現に、
  今も世界のあちこちで起こっている。日本もまた戦争という魔物に
  呑みこまれないともかぎらない。そのときは必ず、戦争を合理化す
  る人間がまず現れる。それが大きな渦となったとき、もはや抗す術
  はなくなってしまう。(辺見じゅん氏著『戦場から届いた遺書』文
  春文庫、p.13)

        ********** ********** **********

  昭和初年、陸軍の参謀本部が秘かに編んだ『統帥綱領』『統帥参
  考』にあっては、その条項をてこに統帥権を三権に優越させ、"統
  帥国家"を考えた。つまり別国をつくろうとし、げんにやりとげた。
  <以下、陸軍参謀本部刊行『統帥参考』より>
  ○「統帥権」: ・・・之ヲ以テ、統帥権ノ本質ハ力ニシテ、
    其作用ハ超法規的ナリ。従テ、統帥権ノ行使及
    其結果ニ関シテハ、議会ニ於テ責任ヲ負ハズ。
    議会ハ軍ノ統帥・指揮並之ガ結果ニ関シ、質問
    ヲ提起シ、弁明ヲ求メ、又ハ之ヲ批評シ、論難
    スルノ権利ヲ有セズ。
  ○「非常大権」: 兵権ヲ行使スル機関ハ、軍事上必要ナル限度
   ニ於テ、直接ニ国民ヲ統治スルコトヲ得ルハ憲
   法第三十一條ノ認ムル所ナリ。   
    ********** **********  **********
  英文学者の中野好夫は、特攻を命令した長官が、若いパイロット
  たちに与えた訓辞を引用して、1952年にこう述べている。
 
   「日本はまさに危機である。しかもこの危機を救い得るもの
  は、大臣でも大将でも軍令部総長でもない。勿論自分のような
  長官でもない。それは諸子の如き純真にして気力に満ちた若い
  人々のみである。(下略)」
   この一節、大臣、大将、軍令部総長等々は、首相、外相、政
  党、総裁、代議士、指導者−その他なんと置き換えてもよいで
  あろう。
   問題は、あの太平洋戦争へと導いた日本の運命の過程におい
  て、これら「若い人々」は、なんの発言も許されなかった。軍
  部、政治家、指導者たちの声は一せいに、「君らはまだ思想未
  熟、万事は俺たちにまかせておけ」として、その便々たる腹を
  たたいたものであった。しかもその彼等が導いた祖国の危機に
  際しては、驚くべきことに、みずからその完全な無力さを告白
  しているのだ。
   扇動の欺瞞でなければ、おそるべき無責任である。
   (小熊英二氏著『<民主>と<愛国>』新曜社、pp61-62)
 
 
◎1927年(昭和2年)から1939年(昭和14年、第二次世界大戦勃発)まで
 <孤高の政治家、斎藤隆夫氏の発言より(昭和3年)>
 さなきだに近時国民思想の流れ行く有様を見ると、一方には
 極端なる左傾思想があると共に、他の一方には極端なる右傾思
 想があり、而して是等思想は悉く其向う所は違っているけれど
 も、何れも政党政治とは相容れない思想であって、彼らは大な
 る眼光を張って、政党内閣の行動を眺めて居る。
 若し一朝、政党内閣が国民の期待を裏切り、国民の攻撃に遭
 うて挫折するが如き事があるならば、其時こそ彼等は決河の勢
 (決潰した堤防を河水が流れ出す勢い)を以て我政治界に侵入
 して政治界を撹乱し、彼等の理想を一部でも行おうと待設けて
 居るのである。故に、今日は政党内閣の試験時代であると共に、
 政治界に取っては最も大切なる時である。
 ・・・ 
 我々が政党政治の運用を誤れる現内閣を糾弾せんとするのは、
 決して微々たる一内閣の存廃を争うが如き小問題ではなくて、
 実に将来に於ける政党内閣の運命延いて憲法政治の運命に関す
  る大問題である事を記憶せられたいのであります。
  (松本健一氏著『評伝 斎藤隆夫』、東洋経済、p234-235より)
 
  ●金融恐慌:莫大な不良債権の顕在化。 銀行は続々と破綻。 
   鈴木商店、川崎造船所の経営難の表面化。台湾銀行破綻。
  大阪の近江銀行の支払い停止と閉鎖。
  4月21日にモラトリアムの緊急勅令(--->5月10日)。
  ●初めての「普通選挙法」による総選挙(昭和3年2月20日)
   革新、無産政党が躍進。ただしこの動きは満州事変に向
  かう軍事的な動きが後戻りできないまでに始まっており、
  田中義一内閣は労農党関係の団体に解散命令をだしたり、
  共産党への大弾圧を行い、昭和3年7月には「特高」までも
  設置した。
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         <蒋緯国の追憶(1990.5)>
    本来なら、あのころの中国と日本は友好的であるべきで
   した。それなのに日本は、中国の領土を日本のものとし、
   そこを前面の歩哨に押したてて日本自体の国防の安全地帯
   にしようとしたのです。ロシアの南下をくい止めるために
   共に連合して助けあって対抗しなければならなかったのに
   ですよ。なぜこうならなかったかを見ていけば、あのころ
   のお国の田中義一内閣がもっとも大きな誤ちを犯したとい
   うことになる。彼の内閣のときから中国を侵略し、共産中
   国をつくる元となる役割を果たしたといっていいでしょう。
   私は田中首相が中国を攻めてきたという言い方はしません
   が、彼の戦略が間違っていたとの断定はしてもいいでしょ
   う。お国の誤りは第二段階(蒋緯国:いつ誰と協力し、い
   つ拡張するのか、つまり生存を賭けた戦いを行うのか、ど
   のように拡張したら効果があがるのかを考えること)の失
   敗だったということです。(保阪正康氏著『昭和の空白を
   読み解く』講談社文庫、p.71)
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  ●張作霖爆殺事件(関東軍参謀河本代作大佐ら、
      昭和3年6月4日)
   昭和陸軍の体質があからさまに発揮された重大な事件で
  あった。つまり昭和の日本は早くも権力の空隙をあらわに
  していた。どこに権力があり、だれが責任をとるのかとい
  う指導力の核心が分裂してしまっているがために、当事者
  能力を欠いていた。(福田和也氏著『地ひらく』文藝春秋)
   この事件は政治家と陸軍の総意でもみ消され、首相田中
  義一は孤立してしまっていた(--->天皇激怒-->田中義一
  辞職-->田中急死)。
   この張作霖爆殺事件処理のゴタゴタは「沈黙の天皇」
  (半藤一利氏著『昭和史 1926->1945』平凡社、p46)をつ
  くりあげ、陸軍が横暴を極めるようになってしまった。
   これにより張作霖の息子、張学良は反日政策をとるよう
  になった。張学良軍20万、関東軍14000の対峙。
   (石原莞爾、板垣征四郎、河本大作、花谷正らの身勝手
  な満蒙政策の具現化。--->柳条湖事件(昭和6年9月18日)
  --->満州事変へ)
 
  ●世界大恐慌(1929年〜、昭和4年10月24日)
  :ニューヨーク株価の大暴落。「暗黒の木曜日」
  ●このころ浜口雄幸内閣の金解禁政策(昭和5年1月11日)が
  裏目に出て、日本は経済不況のどん底にあった(--->満州
  開発が切望されていた)。
   ○為替相場の乱高下--->その操作と悪用。
   円レートが実勢より高く設定されており輸出不振
   ○緊縮財政に伴うデフレ経済の推進(円レート維持)
   ○求人数激減(資本家と労働者の対立、労働争議)
 
  ※ 昭和5年は昭和恐慌の年だ。翌年の6年にはGNPは、昭和
  4年に比べて18%のマイナス、個人消費は17%のマイナスと
   いう目を被うような惨憺たる不況だ。雇用者数は18%も減
   り、農産物価格は、20%以上も下がった。町には失業者が
   あふれ、失業率は20%を越した。
   農村の小作農は、4割ぐらいに達する小作料を負担して
   いた上に、農産物価格が暴落したので、生活に困り、欠食
   児童と娘の身売りが激増した。こうした農村の貧しさに怒
   り狂った青年将校は、テロに走って、政府要人を暗殺した。
   若いインテリは、小作農争議、労働争議を指導し、社会主
   義運動にのめり込んでいった。(竹内宏氏著『父が子に語
   る昭和経済史』より)
  ※ 金本位制度(金輸出を認める(=金解禁)制度)について
   金本位制は、その国の紙幣通貨を金との互換性によって
   保証するものである。それゆえに通貨の信用度はきわめて
   高いが、同時に通貨発行量が、国家の保有する金の量によ
   って決められてしまう。金本位制をとる国家間の貿易では、
   輸出競争力のない国の金が、強い国へと流入していくこと
   になり、結果として国内の通貨供給量がどんどん収縮して
   ゆく。金本位制は、経済的な体力を必要とする厳しい経済
   体制である。
  ※ 昭和5年1月11日の金輸出解禁後、半年もたたないうちに
  2億円余りの金が流出した。この額は、解禁のために英米
   と結んだ借款の額にほぼ等しいものであった。生糸、綿糸
   といった主要輸出品の価格が1/3まで暴落した。デフレは
   緊縮を上回って加速し、労働者の解雇、賃下げが一般化し、
   労働争議が頻発した。失業者は300万人に及び、率にして
   およそ20%を遥かに越えた。 
  ※ 経済の大混乱、政治の混迷は軍部を活気付かせてしまっ
   た。農村の困窮、米価や繭価の下落、婦女子の身売り、欠
   食児童増加(全国20万人)などが社会問題化し、不満が堆
   積していた。
 
  ●青年将校運動の原点となった「桜会」結成(昭和5年秋)
   橋本欣五郎中佐:「国家改造を以て終局の目的とし之がた
      め要すれば武力を行使するも辞せず」。
             <桜会趣意書>
    塾々(つらつら)帝国の現状を見るに・・・高級
   為政者の悖徳(はいとく)行為、政党の腐敗、大衆
   に無理解なる資本家・華族、国家の将来を思わず国
   民思想の頽廃を誘導する言論機関、農村の荒廃、失
   業、不景気、各種思想団体の進出、縻爛(びらん)
   文化の躍進的台頭、学生の愛国心の欠如、官公吏の
   自己保存主義等々邦家のため寔(まこと)に寒心に
   堪へざる事象の堆積なり。然るにこれを正道に導く
   べき事責を負ふ政権に何等之を解決すべき政策の見
   るべきものなく・・(秦郁彦氏著『昭和史の謎を追
   う<上>』より)
 
  ●ロンドン軍縮条約締結(1930年、昭和5年4月22日)
    (首相:浜口雄幸、外相:幣原喜重郎)
   軍閥と結託した政友会(犬養毅、鳩山一郎ら)は、この軍
  縮条約締結を「統帥権干犯」だと非難し、民政党内閣を葬ろ
  うとした。・・・それは結論的にいえば政党政治を自己否定
  し、その責任内閣制から独立した聖域に軍部=統帥権をおく
  ものだった。
   さらにロンドン軍縮条約締結前後のゴタゴタで海軍の良識
  派だった山梨勝之進や掘悌吉らがいなくなり、強硬派のアホ
  ども(加藤寛治、末次信正ら)が主流となり、対米強行路線
  へと動き出した。
 
   <「統帥権干犯」="魔法の杖"(司馬遼太郎)>
   軍の問題はすべて統帥権に関する問題であり、首相
   であろうと誰であろうと他の者は一切口だし出来ない、
   口だしすれば干犯になる(半藤一利氏著『昭和史 1926
   ->1945』平凡社、p46)
 
  ※ 鳩山一郎の大ボケ演説(昭和5年4月25日、衆議院演説)
   政府が軍令部長の意見を無視し、否軍令部長の意見に友
   して国防計画を決定したという其政治上の責任に付て疑を
   質したいと思うのであります。
   軍令部長の意見を無視したと言いますのは、回訓案を決
   定する閣議開催の前に当って、軍令部長を呼んで之に同意
   を求めたと云う其事実から云うのであリます。・・・陸海
   軍統帥の大権は天皇の惟幄に依って行われて、それには(
   海軍の)軍令部長或は(陸軍の)参謀総長が参画をして、
   国家の統治の大権は天皇の政務に依って行われて、而して
   それには内閣が輔弼の責任に任ずる。即ち一般の政務之に
   対する統治の大権に付ては内閣が責任を持ちますけれども、
   軍の統制に閑しての輔弼機関は内閣ではなくて軍令部長又
   は参謀総長が直接の輔弼の機関であると云うことは、今日
   では異論がない。……然らば、政府が軍令部長の意見に反
   し、或は之を無視して国防計画に変更を加えたということ
   は、洵に大胆な措置と言わなくてはならない。国防計画を
   立てると云うことは、軍令部長又は参謀総長と云う直接の
   輔弼の機関が茲にあるのである。其統帥権の作用に付て直
   接の機関が茲にあるに拘らず、其意見を蹂躙して輔弼の責
   任の無いーー輔弼の機関でないものが飛び出して来て、之
   を変更したと云うことは、全く乱暴であると言わなくては
   ならぬ。(松本健一氏著『評伝 斎藤隆夫』、p238より)
 
  ●満州への定住者19万人(昭和5年発行、馬郡健太郎著『大支
  那案内』)
  ●台湾、霧社事件(1930年、昭和5年10月)
   高砂族の抗日暴動。日本軍が抗日派の約500人を大量虐殺した。
 
  ★政党は、外からは、「経済失政への不満」と「国家改造運動」に包囲
  され、内からも「腐敗と堕落」により墓穴を掘っていった。(政界財
  界腐敗への痛烈な反応と軍部の台頭)
  (首相:斎藤実(S7〜9)-->岡田啓介(S9〜11)-->広田弘毅(S11〜12)-->
  林銑十郎(S12)-->近衛文麿(S12〜14)-->平沼麒一郎(S14)-->阿部信
  行(S14〜15)-->米内光政(S15)-->近衛文麿(S15〜16)-->東条英機
  (S16〜19)-->小磯国昭(S19〜20)-->鈴木貫太郎(S20)-->東久邇宮稔
  彦(S20)-->幣原喜重郎(S20〜21))
  
   ※ 昭和7年(1932)から11年(1936)にかけて、非政党エリート
   の力は、信用を失った政党の政権復帰を阻むことができるほど
   強大になっていた。政党は相対立するエリートの主張や彼らの
   野心の調整機関として機能できなくなり、権力は官僚と軍部の
   手に急速に移っていったのである。
    しかし、その結果、今度は調整者不在下で生じる軍部や官僚
   の内部での不和や分裂そのものが、内閣の一貫した政策の立案
   やその履行上の重大な妨げとなってきた。
   (ゴードン・M・バーガー著『大政翼賛会』、坂野閏治訳、
              山川出版社)

    ----------◇当時の資本主義日本の状況◇----------
   在野の経済評論家高橋亀吉は、『資本主義日本の現在の流れと
   その帰趨』(昭和4年1月号、「中央公論」に掲載)で当時の資本
   主義日本の腐敗堕落を分析して、その流れの行く先を鋭く指摘し
   た。以下一部を抜粋するが、当時の政界財界の大デタラメの様子
   がよくわかる。しかも70年経た現在(1990年頃)と酷似している
   ことに注目。

    さて、いまわが資本主義の現状をみるに、大略、次の四点を
   結目として、その生産力は多かれ少なかれ萎縮し、あるいは退
   歩しつつあることを発見する。
   (1)営利行為の反生産化
   (2)資本権力の反生産化
   (3)資本家階級による資本の食い潰し
   (4)資本家階級の腐敗堕落
   いったい、資本主義制度の原動力たる営利行為は、はじめ、
  生産力の増進というベルトを通じてつねに働らいていたもので
  あった。・・・しかるに、わが資本主義のようやく成熟するや、
  資本家は、生産力増進というがごとき努力を要するベルトによ
  る代わりに、あるいは資本力による独占、あるいは政治的諸特
  権等、楽に金儲けのできる他のベルトを利用して、その営利行
  為を逞うするにいたった。・・・しからば、いうところの政治
  的特権に出る営利行為の追求とは、そもそもいかなる方法によ
  る営利行為であるか。試みに、その重なる手段を例示せばじつ
  に左(注:原文は縦書き)のごときものがある。
   (イ)保護関税の引き上げによる利得。
   (ロ)「国家事業」その他の名によって補助金を得ることに
    よる利得。
   (ハ)「財界救済」ないしは「国家事業」救済等の名による
    利得。
   (ニ)鉄道、鉱山、水力電気、電気供給路線、ガス等の特許、
    国有土地および林野の払い下げ、国営事業の請負、用地
    買上げ、等々による「利権」ないし「特権」による利得。
   (ホ)国産品奨励その他の名により、高価にて政府買上げの特
    約による利得。
   (ヘ)低金利資金貸下げの名による利得。
   (ト)預金部資金貸付けの名による同資金食荒らしによる利得。
   (チ)特種銀行の貸出という名による資金の濫用による利得。
   (リ)米価調節その他による利得。
   (ヌ)税金免除、脱税看過、課税軽減、その他による利得。
   その他、細かな点をあげれば際限もない。右の中、多くは説
  明なくともその意味を理解していただくに難くないと思うが、
  ・・・(ハ)についてはたんに最近のことのみをあげるも、震災
  手形関係二億七百万円、台湾銀行および日銀特融関係七億円、
  という巨額を国民の負担で貸し付け(事実においてはその過半
  をくれてやったわけ)、なお、この外にも預金部の金数千万円
  が同様に濫費せられ、・・・(ホ)の代表的のものとしては、わ
  が兵器、造艦、その他の軍需品、国有鉄道の車両、機関車等の
  注文のごときである。 (ヘ)および(ト)にいたっては政界の
  「伏魔殿」として有名であって、・・・(チ)に至っては、台湾、
  朝鮮両銀行の大不始末が何よりも雄弁であるが、このほか、多
  少の程度の差はあるが、他の特種銀行も同じく食い荒らされて
  いる。たとえば坪十銭くらいで買った荒地数百町歩が、坪一円
  くらいの担保で某々銀行より貸し出され、それが選挙費になれ
  りというがごとき、・・・また、地方農工銀行がつねに政争の
  具に供せられているごとき、いずれもその片鱗である。・・・
   以上のごとく、資本主義そのものは、その営利行程その他に
  おいて、その生産力の抑圧、減耗、退化をもたらしつつある。
  その結果はいうまでもなく資本主義的発展の行き詰まりであり、
  その衰弱であり、大衆の生活難加重であり、資本主義に対する
  積極的否定運動の勃興である。・・・

  ------◇政界財界腐敗への痛烈な反応と軍部の台頭◇------
  ●浜口雄幸首相が凶弾に倒れる。(1930年、昭和5年11月14日
  -->昭和6年死亡)
   浜口雄幸首相は軍縮について海軍の統帥部の強硬な反対を
  押しきり、昭和5年4月、ロンドン海軍軍縮条約に調印し右翼
  や野党(政友会)に「統帥権干犯」として糾弾されていた。
  以後昭和史は滅亡に向かう。(北一輝の扇動、佐郷屋留雄の
  凶行)
  ※ 北一輝『日本改造法案大綱』(大正8年刊)より
   「国民は生活不安に襲われており、西欧諸国の破壊の実
   例に学ぼうとしている。財政・政治・軍事権力を握ってい
   る者は、皇権にかくれてその不正な利益を維持しようと努
   力している。われわれは全国民の大同団結を実現して、天
   皇にその大権の発動を求め、天皇を奉じて国家改造の根底
   を完成しなければならぬ」。
  ●民間右翼は、政党政治打倒をかかげ、軍部独裁政権こそが日
  本の舵取りにふさわしいと主張するようになった。
 
  ●満州事変(1931年、昭和6年9月18日〜昭和8年5月塘沽(タン
   クー)停戦協定)
   <"毎日新聞後援・関東軍主催・満州戦争">
   日本の新聞は一度だって戦争を未然に防いだことは
  なかった。事実上戦争の推進役でしかなかったわけで、
  いまも本質的には変わっていない。それはなぜなのか
  と自問したほうがいい。報道企業を単に主観的な社会
  運動的側面から見るだけでなく、市場原理のなかでの
  狡猾な営利企業という実相からも見ていかないと。前
  者はもともと幻想だったのですが、きょうびはその幻
  想や矜持も薄れて、営利性がとてもつよくなっていま
  す。そうした営利指向も権力ヘの批判カを削ぎ、戦争
  めく風景に鈍感になることとつながっている。(辺見
  庸氏著『抵抗論』毎日新聞社、2004年、p.157)
 
  ※ 柳条湖事件:午後10時20分
   奉天郊外の柳条湖で関東軍の指揮下にある独立守備隊の将
   校が満鉄線を爆破。これを中国軍(張学良)の攻撃と詐称し、
   板垣は独断で独立守備隊第二大隊と第二十九連隊(川島正大
   尉、河本末守中尉)に、北大営の中国軍と奉天城を攻撃する
   ように命じた。
  ※ 満州国独立承認、日満議定書締結。
  ※ この満州事変は日本の破滅への途における画期的転機だった。
   首謀者:関東軍高級参謀板垣征四郎大佐、次級参謀石原
    莞爾中佐(陸軍参謀本部作戦部長建川美次は黙
    認した)。
  ※ 錦州爆撃:石原莞爾の独断による錦州張学良軍爆撃--->国
      際連盟に対する挑戦。(昭和6年10月8日)
  ※ この事件頃より軍部にファシズムが台頭。
   中央の命令を無視した関東軍の動きと、それに呼応した
   朝鮮軍(司令官林銑十郎中将)の動きに対して、時の首相、
   若槻礼次郎やその他の閣僚はただただ驚くばかりであった。
   しかも所要の戦費の追認までしたのであった(責任者たち
   の厳罰はなかった)。満州事変は政党政治にも とづく責任
   内閣制も幣原の国際協調政策も一気に吹き飛ばしてしまった。
  ※ 民間右翼と陸軍の将校たちが一気に結びついた。
 
  ●軍部によるクー・デタ計画(昭和6年(1931年)、三月事件、十月事件)
   とくに十月事件は、民間右翼(大川周明、北一輝、井上日召
  ら)と陸海軍青年将校・中堅将校が図った大掛かりなクー・デタ
  (未遂)事件。
   これらの首謀者(「桜会」=橋本欽五郎ら)は軽い判決で、事
  件そのものは闇に葬り去られた。
         ***********************
    「三月事件は、小磯(国昭・陸軍省軍務局長)、建川(美次・参謀
   本部第二部長)、二宮(治重・参謀次長)、橋本(欣五郎・中佐)、
   重藤(千秋・中佐)など陸軍の一部が、字垣(一成)陸相を担いで政
   権を奪取するために企てた陰謀でした」。また同事件に民間から呼応
   した人物として右翼の大川周明の役割も強調した。(東京裁判にむけ
   てのサケットによる木戸幸一への尋問より)(粟屋憲太郎氏著『東京
   裁判への道<上>』講談社、p.123)

  ★若槻内閣総辞職(昭和6年(1931年)12月11日)
  若槻内閣総辞職は、浜口雄幸ー幣原喜重郎的政策、つまりは国際連盟・
  ワシントン条約的国際秩序に対する協調政策が、完全に歴史の舞台から姿
  を消したことを意味した。--->挙国一致的連立内閣構想--->大政翼賛へ。
     (福田和也氏著『地ひらく』文藝春秋)
 
  ★犬養毅内閣(昭和6年12月)は発足と同時に金輸出再禁止(大蔵大臣高橋
  是清)を行った。浜口雄幸と井上準之助の二年半にわたる苦労は水の泡と
  消えた。そしてこれ以後の日本経済は果てしないインフレへと転げ込んで
  いった。
  犬養毅内閣はまた、戦前最後の政党内閣となってしまった。「憲政の
  神様」が幕引役とは、まことに歴史の皮肉としかいいようがない。
 
  ●第一次上海事変(昭和7年1月28日)
   日本軍の謀略で田中隆吉中佐と愛人川島芳子が組んで仕掛け
  た事変。(半藤一利氏著『昭和史 1926->1945』平凡社、p92)
   この軍事衝突は日中関係において必然だった。中国側の抗日
  意識・ナショナリズムは、遅かれ早かれ、日本と対決せざるを
  えないものだったし、日本側もまた、大陸から手を引く意思が
  ない以上、それをさけることができなかったのである。投入戦
  力約5万人、戦死者3000人余りに達したが、日本側が得たものは
  何もなかった。英国は徐々に中国支援へと傾いていった。
    (福田和也氏著『地ひらく』文藝春秋)
  ※ 『肉弾三勇士』(昭和7年2月22日)
   江下武二、北川丞、作江伊之助はの3名の一等兵は、爆薬
   を詰めた長さ3mの竹製の破壊筒を持って上海近郊の中国防護
   線の鉄条網に突っ込み、このため陸軍の進軍が可能となった。
   (大貫恵美子『ねじ曲げられた桜』岩波書店)これは後に
   「散華」とか「軍神」という歪められた実質のないまやかし
   の美辞麗句と共に、日本人全員が見習うべき国への犠牲の最
   高の模範という美談・武勇談として軍に大いに利用され、日
   本人の心に刻み込まれた。(ただし、彼らの命は導火線の長
   さをわざと短くしたことで、意図的に犠牲にされていた)。

    注釈:「散華」(さんげ)とは四箇法要という複雑な仏教
      法義の一部として、仏を賞賛する意味で華をまき散
      らす事を指す。軍はこの語の意味を本来の意味とは
      全く懸け離れたものに変え、戦死を「(桜の)花の
      ように散る」ことであると美化するために利用した
      のである。
    (大貫恵美子氏著『ねじ曲げられた桜』岩波書店)

  ●「血盟団事件」(首謀者:国家主義者(民間右翼)、井上日召)
   1. 井上準之助蔵相の暗殺(1932年、昭和7年2月9日)  
  浜口、井上は民生党内閣において通貨価値守護の義務
  感を捨てず、不評だった緊縮財政を敢えて推進していた。
   これはまた肥大する軍事予算を圧縮する意図もあった。
   2. 団琢磨(三井合名理事長)を狙撃(1932年、昭和7年3月5日)
  金融恐慌時代には必ず自国通貨を守ろうという運動がある。
  しかしその裏で秘かに自国通貨を売りまくって、為替差益
  を稼ごうとする卑しい人間が存在する。それは概ね裕福な財
  閥、大富豪、上流階級の人間だろう。団琢磨の暗殺の背景に
  三井物産の「円売りドル買い」があった。
  ※ 四元義隆(当時東大生、三幸建設工業社長)の話
   「あのころの政党は、財閥からカネをもらって癒着し、
  ご都合主義の政治を行っていた。この国をどうするのか。
  そんな大事なことに知恵が回らず、日本を駄目にした。
  これではいかん、(と決起した)ということだった」。
 
  ★浜口雄幸、井上準之助の死後、軍部の横暴と圧力(テロの恐怖)によって
  政党が実権を失い、日本は転落の一途を辿った。
 
  ●「満州国建国宣言」(東三省=吉林省・黒龍江省・遼寧省)
   日本政府と関東軍(土肥原賢二ら)によりごり押し独立
   (昭和7年3月1日)。中華民国からの独立、五族協和・王
   道楽土(なんのこっちゃ?)を謳う。東京では(二葉会-->)
   一夕会系の中堅幕僚らの支持。昭和9年愛新覚羅溥儀は皇帝
   になり、帝政に改組された。(->「満州は日本の生命線」)
 
  ※ 満州国建国は昭和陸軍の軍人たちに軍事力が人造国家を
   つくりあげることが可能だという錯覚を与えた。その錯覚
   を「理想」と考えていたわけである。これが明治期の軍人
   たちとは根本から異なる心理を生んだ。つまり軍事は国家
   の威信と安寧のために存在するのではなく、他国を植民地
   支配する有力な武器と信じたのである。その対象に一貫し
   て中国を選んだのである。
  (保阪正康氏著『昭和陸軍の研究<上>』より) 
  ※ 因に日満と中国国民党の間では、昭和8年5月の塘沽(タ
   ンクー)停戦協定から昭和12年7月の盧溝橋事件までの4年
  2か月の間、一切の戦闘行為はなかった。
  ※ たしかに当時の満州国は発展しつつあった。だがその手
   法は、満州協和会といった民間日本人や、満州人、中国人、
   在満朝鮮人らを徹底して排除した、陸軍統制派と新官僚と
   によってなされたものだった。
   つまり、<二キ三スケ>という無知無能連中(東条英機、
   満州国総務長官星野直樹、南満州鉄道総裁松岡洋右、日本
   産業鮎川義介、産業部長岸信介)に牛耳られていた。残念
   ながらこの盤石になりつつあった満州は、石原莞爾の目指
   したものではなかった。(福田和也氏著『地ひらく』文藝
   春秋より)
 
  ●オタワ会議(昭和7年7月):自由貿易帝国主義からの撤退
    イギリス帝国がその自治領や植民地を特恵待遇にして経
    済を守るという、植民地ブロック経済(スターリング・
    ブロック)を採用。(次いでフランス、アメリカも同様の
    措置をとった)
  ●リットン調査団の満州踏査(昭和7年2月〜8月、10月に報告)
   ○柳条湖事件は日本の戦闘行為を正当化しない。
   ○満州国は現地民の自発的建国運動によって樹立されたも
   のではない。
             <解決策提示>
   1. 日中双方の利益と両立すること
   2. シビエトの利益に対する考慮が払われていること
   3. 現存の、諸外国との条約との一致
   4. 満州における日本の利益の承認
   5. 日中両国間における新条約関係の成立
   6. 将来における紛争解決への有効な規定
   7. 満州の自治
   8. 内治および防衛のための保障
   9. 日中両国間の経済提携の促進
  10. 中国の近代化のための国際的協力
  (子細にみれば、日本に不利なものでは、けっしてない)
   (福田和也氏著『地ひらく』文藝春秋より)
 
  ●五・一五事件(昭和7年5月15日):犬養首相(政友会)射殺
   海軍士官と陸軍士官学校候補生、それに橘孝三郎の農本
   主義団体が加わっての凶行。彼等のスローガンは政党政治
   打倒、満州国の承認、軍部独裁国家樹立といった点にあっ
   たが、この事件は図らずも国民の同情を集めた。これによ
   り政党政治(内閣)の終焉が明らかとなった。
   統帥権の干犯をたてに民政党内閣を攻撃し、それによっ
   て政党政治の自滅へと道を開いた犬養は、みずから軍人の
   独走の前に身をさらさなければならなくなってしまった。
  橘孝三郎を除く全ての犯人は昭和15年末までに釈放された。
  <ヒュー・バイアス『昭和帝国の暗殺政治』内山秀夫
    ・増田修代訳、刀水書房、pp.59-60)>
  第一次大戦によって西洋文明の崩壊がはっきりした、
  と橘は語った。
  「われわれはナショナリズムに回帰し、完璧な国家
  社会を要望する国家社会主義的計画経済原理に立って、
  日本を再編成しなければならないのだ」、と彼は説い
  た。「マルクス主義が救済策を提供することはあり得
  ない。マルクスが考察したのは工業化ずみの国家であ
  るのに反して、日本は小独立農民の国家である。農民
  を犠牲にして工業によって豊かになったイギリスを模
  倣するという誤ちを近代日本はおかしてしまったが、
  日本は農民の国なのであって、金本位制で利潤を都市
  に流出する資本主義は、その農民の国を破壊しつつあ
  るのだ」。
  その当時の事態をこと細かく説明するのはむずかし
  くないが、救済策ということになると、このトルスト
  イの旧使徒は理想に燃えて幻影を追ったのであった。
  「日本はその個人主義的な産業文明を一掃して、ふた
  たび独立自営農民の国にならなければならない」と彼
  は語った。
  「対外進出と国内革新は同時に進められねばならな
  い。満州の馬賊は大した問題ではない。日本が打倒し
  なければならないのは、アメリカと国際連盟なのだ。
  ・・・国民は金権政治家の道具と化した腐敗した 議
  会から解放されなければならない。・・・「われわれ
  が求めているのは、自治農村共同体社会にもとづいた
  代議組織である」
 
          <首謀者古賀中尉>
  「五・一五事件は、犬養首相と一人の警官の死のほ
  かに、いったい何をもたらしたのだろうか。まず、国
  家改造運動の真意が、公判を通じて国民の前に明らか
  になった。血盟団の評価も変った。国賊と呼ばれた小
  沼正義や菱沼五郎らも、国士と呼ばれるに至った。
  この逆転の流れがなければ、二・二六事件は起らな
  かったのではないか、と私は思っている。私たちの抱
  いた信念はたしかに歴史の流れに転機をもたらした」
  (立花隆氏「日本中を右傾化させた五・一五事件と神
  兵隊事件」文藝春秋 2002;9月特別号:433ページ)
 
  ※ 青年将校運動は浅薄であると同時に狂暴であり、その浅
   薄さがその持つよこしまな力をつつみ隠していたのである。
   街頭演説に訴える精神とは違った色に染められてはいるが、
   質的には変わるところのない、未熟で偏狭な精神の持ち主
   である青年将校は、陸海空軍を通じて蔓延していた精神構
   造の典型であった。(ヒュー・バイアス『昭和帝国の暗殺
   政治』内山秀夫・増田修代訳、刀水書房、pp.45-46)
 
  ★五・一五事件事件前後の”日本の変調のはじまり”について
  「五・一五事件」では、海軍士官と陸軍士官候補生、農民有
  志らにより首相の犬養毅が惨殺された。にも拘らず、当時の一
  般世論は加害者に同情的な声を多く寄せていた。
  年若い彼らが、法廷で「自分たちは犠牲となるのも覚悟の上、
  農民を貧しさから解放し、日本を天皇親政の国家にしたいがた
  めに立ち上がった」と涙ながらに訴えると、多くの国民から減
  刑嘆願運動さえ起こつた。マスコミもそれを煽り立て、「動機
  が正しければ、道理に反することも仕方ない」というような論
  調が出来上がっていった。日本国中に一種異様な空気が生まれ
  ていったのである。
  どうしてそんな異様な空気が生まれていったのか、当時の世
  相を顧みてみると、その理由の一端が窺える。
  第一次世界大戦の戦後恐慌で株価が暴落、取り付け騒ぎが起
  き、支払いを停止する銀行も現れていた。追い討ちをかけるよ
  うに、大正12年には関東大震災が襲う。国民生活の疲弊は深刻
  化していたのだ。昭和に入ると、世界恐慌の波を受けて経済基
  盤の弱い日本は、たちまち混乱状態になった。
  「五・一五事件」の前年には満州事変が起きていた。関東軍
  は何の承認もないまま勝手に満蒙地域に兵を進め、満州国を建
  国した。中国の提訴により、リットン調査団がやって来て、満
  州国からの撤退などを要求するも、日本はこれを拒否。昭和8年
  には国際連盟を脱退してしまう……。
   だが、これら軍の暴走、国際ルールを無視した傍若無人ぶり
  にも、国民は快哉を叫んでいたのである。
  戦後政治の立役者となった吉田茂は、この頃の日本を称して
  「変調をきたしていった時代」と評していた。確かに、後世の
  我々から見れば、日本全体が常軌を逸していた時代と見えよう。
  またちょうどこの頃、象徴的な社会問題が世間を騒がせてい
  た。憲法学者、美濃部達書による「天皇機関説」問題だ。天皇
  を国家の機関と見る美濃部の学説を、貴族院で菊池武夫議員が
  「不敬」に当ると指摘したのである。
  しかし、天皇機関説は言ってみれば、学問上では当たり前の
  認識として捉えられていた。天皇自身が、側近に「美濃部の理
  論でいいではないか」と洩らしていたほどであった。しかし、
  それが通じないほどヒステリックな社会状況になっていたので
  ある。
  天皇機関説は、貴族院に引き続き衆議院でも「国体に反する」
  と決議された。文部省は、以後、この説を採る学者たちを教壇
  から一掃してしまう。続いて文部省は、それに代わって「国体
  明徽論」を徹底して指導するよう各学校に通達したのであった。
  「天皇は国家の一機関」なのではなく、「天皇があって国家が
  ある」とする説である。
  (さらに「国体明徽論」は、「天皇神権説」へとエスカレート
  していった)。
  ・・・この時代、狂信的に「天皇親政」を信奉する軍人、右
  翼が多く台頭してきたのであった。
  「天皇親政」信奉者の彼らは、軍の統帥部と内閣に付託して
  いる二つの「大権」を、本来持つべき天皇に還すべきである、と
  主張した。天皇自身が直接、軍事、政治を指導し、自ら大命降下
  してくれる「親政」を望んだのである。「二・二六事件」を起こ
  した青年将校たちも、そうした論の忠実な一派であった。(保阪
  正康氏著『あの戦争は何だったのか』新潮新書、pp.57-60)
 
  ★民政党の経済政策の破綻。政友会の大陸積極策とその帰結としての満州
  事変。政党政治の帰趨はもとより、内外の情勢の逼迫が政党政治の存続
  を困難にしていた。
 
 ●海軍大将斉藤実の「挙国一致内閣」(昭和7年5月22日〜昭和
   9年7月)の成立。政党政治の終焉の象徴(議会政治の機能不全)
  ※ 1932年(昭和7年)以降の数年間は、国策の遂行に必要な
   専門知識を保持すると自負する官僚と軍部エリートの優越
   性が、大幅に認められるに至った点で特徴的である。この
   結果軍部の政治支配の増大をもたらし、ひいては日本軍国
   主義の確立をもたらした。
   <大衆の政治参加の問題:官僚の画策>
    1. 鎮圧による支配(内務省警保局)
    2. 既存の選挙過程の「浄化」
   地方の名望家と政党の連携を弱体化させるよ
   うな施策(「選挙粛清運動」、後藤文夫、丸山
   鶴吉ら)
    3. 政治的異端分子を「粛清」選挙運動に吸収
   敵対する側の一方(社会大衆党)を支持吸収
   して既成政党の弱体化を図った。
 
  ※ 軍部も政党も1930年代には共通のジレンマに直面した。
   日本の安全保障に不可欠と判断される軍事的、経済的政策を
   実行するためには、全国の資源を軍事と重工業に集中しなけ
   ればならなかった。そのためには、陸軍が非常に関心をもっ
   ていた貧困化した農民の利益や、政党が多くの場合その利害
   の代表であった地方の農業・商工業団体の利益を犠牲にしな
   ければならなかった。結局のところ陸軍も政党もその政策決
   定においては、国民の生活水準よりも国防の方を重視した。
   この選択は1945年の不幸な結果をもたらしただけでなく、
   戦時中の国民生活に大きな影響を与えた。それにもかかわら
   ず、政党は支配集団の一員としての使命感から、一貫して軍
   事的膨脹主義を支持した。政党のこのような政策は誤ちであ
   り不賢明なものであったことは後に明らかになった。
   (ゴードン・M・バーガー著『大政翼賛会』、坂野閏治訳、
        山川出版社)
 
 ★軍部におけるファシズムの顕在化とその台頭
  ※ファシストが何よりも非であるのは、一部少数のものが暴力
    を行使して、国民多数の意思を蹂躙することにある。
  ※ファシズムとは社会学的な発想に基づく政治体制である。
        (福田和也氏)
   ファシズムは社会を「束ねる」事を目指したことにおいて、
   ほぼデュケルムの問題意識と重なると云うことができるだろ
   う。ファシズムの様々な政策や運動行為、つまり国家意識の
   強調、人種的排他差別、指導者のカリスマ性の演出にはじま
   り、大きな儀式的なイベント、徹底した福祉政策、官僚制を
   はじめとする硬直した統治機構に対する攻撃、国民的なレジ
   ャー、レクレーションの推進などのすべてが、戦争やナショ
   ナリズムの高揚という目的のために編成されたのではなく、
   むしろ拡散され、形骸化してしまった社会の求心性を高める
   ために構成されていると見るべきだろう。
   ファシズムが成功したのは、第一次大戦において敗れたド
   イツや、王政が瓦解したスペイン、王政と議会とバチカンに
   政治権力が分散し、その分裂が大戦後昂進するばかりだった
   イタリアといった社会の枠組み崩壊したり、激しい亀裂に見
   舞われた社会においてばかりであった。(福田和也氏著『地
   ひらく』文藝春秋)

  ※日本政治研究会(時局新聞社)の見解
    日本ファシズムは、国家機関のファショ化の過程として進
    展しつつある。政党形態をとってゐるファシズム運動は、こ
    の国家機関のファショ化を側面から刺激するために動員され
    てゐるだけである。同じく官僚機構内部に地位を占めながら、
    かかるファショ化を急速に実現せんとする強硬派と、漸進的
    にスローモーションで実現してゆく漸進派とのヘゲモニー争
    奪は、満州事変以後の政局をながれる主要潮流をなしてゐる。
    そして後者が国家機関における主要支配勢力として政権を握
    り続けてゐる。(保阪正康氏著『昭和史の教訓』朝日新書、
   p.16)
   ----------------------------------------------------------
  ※労働運動と左翼および彼らの活動の源泉である民主主義の行
    き過ぎを弾圧するファシスト流の極端なナショナリズムは、
    米英両政府と産業界及び多くのエリートの見解ではファシズ
    ムは、一般には、むしろ好意的に見られていた。
     ファシズムへの支持は直ちに表明された。イタリアでフ
    ァシスト政権が誕生し、それによって議会制度が速やかに
    崩壊させられ、労働運動及び野党が暴力的に弾圧されると、
    ヘンリー・フレッチャー大使はその政権誕生を称える見解
    を表明し、以後はそれがイタリアを始めとする地域に対す
    るアメリカの政策を導く前提となった。イタリアは明白な
    選択を迫られている、と彼は国務省宛に書いた。
     「ムッソリーニとファシズム」か、「ジオリッティと社
    会主義」か。ジオリッティはイタリアのリベラリズムの指
    導的人物だった。10年後の1937年にも、国務省はまだファ
    シズムを中道勢力と見なし続け、彼らが「成功しなければ、
    今度は幻滅した中流階級に後押しされて、大衆が再び左翼
    に目を向けるだろう」と考えていたのだ。同年、イタリア
    駐在の米大使ウイリアム・フィリップスは「大衆の置かれ
    た状況を改善しようとするムッソリーニの努力にいたく感
    動し」、ファシストの見解に賛成すべき「多くの証拠」を
    見出し、「国民の福利がその主たる目的である限り、彼ら
    は真の民主主義を体現している」と述べた。フィリップス
    は、ムッソリーニの実績は「驚異的で、常に人を驚かし続
    ける」と考え、「人間としての偉大な資質」を称えた。国
    務省はそれに強く賛同し、やはりムッソリーニがエチオピ
    アで成し遂げた「偉大な」功績を称え、ファシズムが「混
    乱状態に秩序を取り戻し、放埓さに規律を与え、破綻に解
    決策を見出した」と賞賛した。1939年にも、ローズヴェル
    トはイタリアのファシズムを「まだ実験的な段階にあるが、
    世界にとってきわめて重要」と見ていた。
     1938年に、ローズヴェルトとその側近サムナー・ウェル
    ズは、チェコスロヴアキアを解体したヒトラーのミュンヘ
    ン協定を承認した。前述したように、ウェルズはこの協定
    が「正義と法に基づいた新たな世界秩序を、諸国が打ち立
    てる機会を提供した」と感じていた。ナチの中道派が主導
    的な役割を演じる世界である。1941年4月、ジョージ・ケ
    ナンはベルリンの大使館からこう書き送った。ドイツの指
    導者たちは「自国の支配下で他民族が苦しむのを見ること」
    を望んではいず、「新たな臣民が彼らの保護下で満足して
    いるかどうかを気遣」って「重大な妥協」を図り、好まし
    い結果を生み出している、と。
     産業界も、ヨーロッパのファシズに関しては非常な熱意
    を示した。ファシスト政権下のイタリアは投資で沸きかえ
    り、「イタリア人は自ら脱イタリア化している」と、フォ
    ーチュン誌は1934年に断言した。ヒトラ−が頭角を現した
    後、ドイツでも似たような理由から投資ブームが起こった。
    企業活動に相応しい安定した情勢が生まれ、「大衆」の脅
    威は封じ込められた。1939年に戦争が勃発するまで、イギ
    リスはそれに輪をかけてヒトラ−を支持していた、とスコ
    ット・ニュ−トンは書いている。それはイギリスとドイツ
    の工業と商業及び金融の提携関係に深く根ざした理由から
    であり、力を増す民衆の民主主義的な圧力を前にして、
    「イギリスの支配者層がとった自衛策」だった。(ノーム
    ・チョムスキー『覇権か、生存か』鈴木主税訳、集英社新
    書、pp.98-99)

  ★官僚化した軍部の暴走の時代、国家が命を翻弄する時代の再来
   <軍部の独善主義とその暴走>
  ところで、ついに今日の事態を招いた日本軍部の独善主義はそも
  そも何故によって招来されたかということを深く掘り下げると、幼
  年学校教育という神秘的な深淵が底のほうに横たわっていることを、
  我々は発見せざるを得ません。これまで陸軍の枢要ポストのほとん
  ど全部は幼年校の出身者によって占有されており、したがって日本
  の政治というものはある意味で、幼年校に支配されていたと言って
  いいくらいですが、この幼年校教育というものは、精神的にも身体
  的にも全く白紙な少年時代から、極端な天皇中心の神国選民主義、
  軍国主義、独善的画一主義を強制され注入されるのです。こうした
  幼年校出身者の支配する軍部の動向が世間知らずで独善的かつ排他
  的な気風を持つのは、むしろ必然といえましょう。
  (注釈)幼年学校→陸軍幼年学校
   陸軍将校を目指す少年に軍事教育を施すエリ−卜教育
   機関。満13歳から15歳までの三年教育。年齢的には中学
   に相当。前身は1870年(明治3年)、大阪兵学寮内に設置
   された幼年校舎。1872年(明治5年)、陸軍 幼年学校に
   改称。東京、大阪、名古屋、仙台、広島、熊本の六校が
   あり、卒業後は陸軍士官学校予科に進んだ。幼年学校、
   士官学校、陸軍大学校と進むのが陸軍のエリートコース
   といわれた。(昭和20年、永野護氏『敗戦真相記』、
       バジリコ、p.22)
 
  ★人間の屑と国賊の時代
  人間の屑とは、命といっしょに個人の自由を言われるままに国家
  に差し出してしまう輩である。国賊とは、勝ち目のない戦いに国と
  民を駆り立てる壮士風の愚者にほかならない。(丸山健二氏著『虹
  よ、冒涜の虹よ<下>』新潮文庫、p46)
  昭和10年代は人間の屑と国賊が日本にはびこった時代だったとい
  っても言い過ぎにはならないだろう。
  (歴代首相:斎藤実(S7〜9)-->岡田啓介(S9〜11)-->広田弘毅(S11
  〜12)-->林銑十郎(S12)-->近衛文麿(S12〜14)-->平沼麒一郎(S14)
  -->阿部信行(S14〜15)-->米内光政(S15)-->近衛文麿(S15〜16)
 
  ●「滝川事件」(1933年、昭和8年):京大刑法学教授、滝川
  幸辰氏を追放。「国権による自由封じ」の象徴。(黒沢明映画
  『わが青春に悔いなし』)
  ●挙国一致内閣(海軍大将、斉藤実)の横暴
   「非常時」を叫び、ファッショ的な風潮と言論・思想統制が
  強まるなか、共産党の弾圧が強まった。(河上肇の検挙、小林
  多喜二の獄中虐殺など)
   なお挙国一致とはファシズムにほかならない。
  ●「満州国」否認される。日本、国際連盟を脱退(昭和8年2月24
  日)。日本は国際的な孤立を深めていった。
   昭和8年頃までに満州での軍事行動は一段落した。関係者は
  満州国の育成に努力したが、日本の政府や陸軍の配慮は十分で
  なかった。日本のためだけの利益を追求するのにやっきになっ
  ており(満蒙開拓団)、古くからの住民の生活が不当に圧迫さ
  れた。このことは日本人が他の民族と共存共栄する器量に乏し
  いことを証明した。
  ●「ゴーストップ事件」:大阪府警と陸軍の喧嘩
   国民が軍にたてつくことができた最後の事件
   (半藤一利氏著『昭和史 1926->1945』平凡社、p119)
  ● 出版法・新聞紙法改悪(1933年、昭和8年9月5日)
   当局による新聞、ラジオの統制強化
  ●救国埼玉青年挺身隊事件(昭和8年11月13日、猪又明正氏著
  『幻のクーデター』参照)

  -----------------------------------------------------------
   ● ヒトラーの台頭(1933年1月〜):ナチ党の一党独裁体制確立
            (1933年6月14日)
   ※(シモーヌ・ヴェイユの言葉によると)ヒトラーの台頭当時、
     ナチスは「必要とあらば労働者の組織的な破壊をもためら
     わぬ大資本の手中に」、社会民主党は「支配階級の国家機
     関と癒着した官僚制の手中に」、肝腎の共産党は「外国
     (ソ連)の国家官僚組織の手中に」あって労働者たちは孤
     立無援だった。(シモーヌ・ヴェイユ『自由と社会的抑圧』
     の解説(富原眞弓)より、岩波文庫、p.177)
   1933年
   1月30日:軍部クーデタの恐れのため、ブロンベルク将軍を
      国防相に任命して鎮圧を図るが、ヒンデンブルク
      大統領は不本意ながらヒトラーを首相に任命し、
      右翼連立政権が成立する。
   2月 1日:ヒトラー首相の強要で、大統領は国会を解散する。
     広範囲な全権委任獲得を求め、多数を得るために
     総選挙を選択。
   2月 4日:出版と言論の自由を制限する取締法の通過。
   2月24日:ナチス突撃隊が共産党本部を襲撃して占拠。
   2月27日:国会議事堂の炎上(オランダ人共産党貞のルッペ
     を逮捕するとともに、これを機会に共産党議員の
     逮捕)。
   2月28日:事実上の戒厳令を閣議で決定する。
   3月 5日:ナチス党が選挙で第一党になる。
   3月23日:帝国議会で全権委任法が成立し翌日に発効。
   4月 1日:ユダヤ人排斥連動の実施。
   5月10日:ナチス政府が社会民主党の資産没収。ゲッベルス
     は非ドイツ的な書籍の焚書を扇動。
   7月14日:政党新設禁止法によりナチス党の独裁樹立。また、
     国民投票に関しての法律の実施。
  10月14日:国際連盟とジュネーブ軍縮から脱退の声明。
  11月12日:国際連盟脱退の国民投票。95%が政権支持。
  12月 7日:労働組合の解散命令。
  12月28日:学校での挨拶は「ハイル・ヒトラー」と規定。
   1934年
   6月30日:「長いナイフの夜」、SA突撃隊貝の虐殺と粛清。
   8月 2日:ヒンデンブルク大統領の死去。「国家元首法」の
     発効でヒトラー首相は大統領を兼任して、合法的
     に総統に就任して独裁の完成。
   8月19日:新国家元首への信任の国民投票で89%の賛成。
   (以上の年表は、藤原肇氏著『小泉純一郎と日本の病理』
          光文社、pp.156-157より)
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  ★昭和十年代の大日本帝国のそこは(東京、三宅坂上、日本陸軍参謀本部)
  、建物こそ古びていたが、まさしく国策決定の中枢であった。・・・国
  政の府が直接に天皇と結びつかないように、監視するか妨害するかのご
  とく、参謀本部は聳立していたことになる。書くまでもないことである
  が、参謀本部とは大元帥(天皇)のもつ統帥大権を補佐する官衙である。
  ・・・しかし1937年(昭和12)7月の日中戦争の勃発以来、11月には宮中
  に大本営も設置され、日本は戦時国家となった。参謀本部の主要任務は、
  大本営陸軍部として海軍部(軍令部)と協力し、統帥権独立の名のもと
  に、あらゆる手をつくしてまず中国大陸での戦争に勝つことにある。次
  には来たるべき対ソ戦に備えることである。そのために、議会の承認を
  へずに湯水のごとく国税を臨時軍事費として使うことが許されている。
  大本営報道部の指導のもとになされる新聞紙上での戦局発表は、順調そ
  のもので、・・・日本軍は中国大陸の奥へ奥へと進撃していった。三宅
  坂上の参謀本部は・・・民衆からは常に頼もしく、微動だにしない戦略
  戦術の総本山として眺められている。・・・
  特に日本陸軍には秀才信仰というのがあった。日露戦争という「国難」
  での陸の戦いを、なんとか勝利をもってしのげたのは、陸軍大学校出の
  俊秀たちのおかげであったと、陸軍は組織をあげて信じた。とくに参謀
  本部第一部(作戦)の第二課(作戦課)には、エリート中のエリートだ
  けが終結した。・・・そこが参謀本部の中心であり、日本陸軍の聖域な
  のである。・・・そこでたてられる作戦計画は外にはいっさい洩らされ
  ず、またその策定については外からの干渉は完璧なまでに排除された。
  ・・・このため、ややもすれば唯我独尊的であると批判された。・・・
  彼らは常に参謀本部作戦課という名の集団で動く、・・・はてしなき論
  議のはてに、いったん課長がこれでいこうと決定したことには口を封じ
  ただ服従あるのみである。・・・参謀本部創設いらいの長い伝統と矜持
  とが、一丸となった集団意志を至高と認めているのである。そのために
  作戦課育ちあるいは作戦畑という閉鎖集団がいつか形成され、外からの
  批判をあびた。しかし、それらをすべて無視した。かれらにとっては、
  そのなかでの人間と人間のつきあい自体が最高に価値あるものであった。
  こうして外側のものを、純粋性を乱すからと徹底して排除した。外から
  の情報、問題提起、アイディアが作戦課につながることはまずなかった。
  つまり組織はつねに進化しそのために学ばねばならない、という近代主
  義とは無縁のところなのである。作戦課はつねにわが決定を唯一の正道
  としてわが道を邁進した。(半藤一利氏著『ノモンハンの夏』より若干
  改変して引用)
 
  <軍人どもの内閣諸機関への介入>
  ●陸軍が対満事務局の設置に成功(1934年)
   これにより外務省と拓務省の発言権が奪われ、満州問題は
  全面的に陸軍将校の統制下におかれることになった。
  ●内閣審議会および直属下部機関の内閣調査局を新設(1935年、
  岡田内閣)
   とくに内閣調査局は軍人どもが文官行政に関与する新しい
  経路になった。しかも内閣調査局は内閣企画庁へと発展的に
  改組され、政府のもとに行政各省の重要政策を統合する要、
  総動員計画の中心となっていった。
  ●現役将官制の復活(1936年、広田内閣)
   陸軍大臣は陸軍によって、海軍大臣は海軍によってのみ統
  制されることとなり、陸海軍いずれかが現役将官から大臣候
  補者を推薦することを拒否すれば、気に入らない内閣の組閣
  を妨害したり、内閣の存続を妨げることが可能になった。
  ●「不穏文書取締法」(広田内閣)
   これにより、少しでも反政府的・反軍部的なものはすべて、
  即、取り締まられることとなった。
 
  ★明治〜大正〜昭和と日本は富国強兵・殖産興業への道を官僚主導のもと
  で強制的に歩んでいった。しかし資本蓄積、統一規格品大量生産(メー
  トル法採用)、教育改革(統一規格化した人材育成)は国民や議会の大
  反対を招き、日本の官僚は「議会が権威を持っているかぎり、近代工業
  国家にならない」と思うようになった。官僚は次々と汚職事件、疑獄事
  件をデッチあげ議会(政治家)の権威を失墜させようと目論んだ。「帝
  人事件」はその頂点であった。
  ●「帝人事件」(1934年、昭和9年)
   官僚が帝国議会の権威失墜を目論んでデッチ上げた大疑獄
  事件。
   昭和12年「本件無罪は証拠不十分に非ず。事実無根による
  無罪である」という判決で被告の名誉は守られたが、民主主
  義は守られなかった。この間に「二・二六事件」が起こって
  法律が改正されたので、帝人事件以後議会内閣は終戦までで
  きなかった。(行革700人委員会『民と官』より)
  ●永田鉄山(総動員国家推進者、陸軍統制派)暗殺される(陸
  軍派閥抗争)(昭和10年8月12日)-->二・二六事件(昭和11
  年2月26日)へ
   陸軍皇道派の相沢三郎中佐は、永田鉄山が社会主義者、実
  業界の大物、狡猾な官僚らと気脈を通じたことを理由として
  永田鉄山を斬殺した。東条英機は、このあと永田鉄山に代わ
  り、統制派のエース格となっていった。
  ※ 相沢三郎中佐:「この国は嘆かわしい状態にある。農民
     は貧困に陥り、役人はスキャンダルにま
     みれ、外交は弱体化し、統帥権は海軍軍
     縮条約によって干犯された。これらを思
     うと、私は兵士練成の教育に慢然と時を
     すごすことはできなかった。それが国家
     改造に関心を抱いた私の動機である」
   (ヒュー・バイアス『昭和帝国の暗殺政治』内山秀夫・
     増田修代訳、刀水書房、p.91)
 
  ※ 永田鉄山殺害は、軍を内閣の管理下におこうとした政府
   の企画への陸軍の反革命だった。
 
   詳細に語らなかったけれど、弁護人の鵜沢ははっき
   りと理解していたように、弁護側が主張したのは、陸
   軍とは、そのメンバーを合意なしには代えてはならな
   いとする、三長官(筆者注:陸軍統制の三長官は参謀
   総長、陸軍大臣、教育総監だった)の恒久的寡頭制に
   よって管理される自主的な自治団体だ、と見なすこと
   であった。この自治団体は「天皇の軍隊」であり、そ
   れを内閣の管理下におこうとするいかなる企図も、
   「軍を私的軍隊に変えること」なのである。したがっ
   て、相沢のような人物の、たとえ言葉になってはいな
   いにしても、頭のなかでは、天皇は帝位に装われたお
   神輿にすぎないことになる。1000年の歴史が、これこ
   そまさしく日本の天皇概念であることを立証している。
   天皇は神人、つまり、国家の永遠性の象徴である。天
   皇は、その職にある人間が行なう進言には異議をさし
   はさむことなく裁可する自動人形(オートマトン)で
   ある。1868年の明治維新は、天皇にそうした地位を創
   りだしたのだと言えよう。永田殺害は、陸軍の反革命
   の一部だったのである。
  (ヒュー・バイアス『昭和帝国の暗殺政治』内山秀夫・
     増田修代訳、刀水書房、p.101)
 
  ●"統帥権"による謀略的な冀東政権が華北に誕生(昭和10年)
  日本からの商品が満州国にはいる場合無関税だったが、
  これにより華北にも無関税ではいるようになった。このた
  め上海あたりに萌芽していた中国の民族資本は総だおれに
  なり、反日の大合唱に資本家も参加するようになった。
  ●参謀本部によるいわゆる「天皇機関説」(美濃部達吉博士)
  への攻撃
   ともかくも昭和十年以降の統帥機関によって、明治人が
  苦労してつくった近代国家は扼殺されたといっていい。こ
  のときに死んだといっていい。(司馬遼太郎)

   「天皇機関説」
    国家を法人とみなしたときに、その最高機関を天皇と
    考えること。法人企業の最高機関を社長と考えることと
    同じ。こののち、昭和10年3月国会で「国体明徴決議」
    なるものが通り、天皇絶対主権説が日本の本当の国体と
    され、天皇機関説は公式に国家異端の学説として排除さ
    れた。

    ※天皇機関説は高度に抽象的な法学概念がかかわる問題
    で、あまり一般人の関心をよぶ問題ではなかったのに、
    浜口内閣時代、ロンドン軍縮条約が結ばれたとき、政
    府が軍部の反対を押しきってそのような条約を結ぶ権
    利があるかどうか(そういう権利は天皇大権=統帥権
    に属するから、政府が勝手に軍備にかかわる条約を結
    ぶと統帥権干犯になるのかどうか)の議論がおきたと
    き、美濃部が天皇機関説をもとに政府の行動を支持し
    たところから、天皇機関説はにわかに政治的な意味を
    帯び、ロンドン条約に反対する軍部や国家主義者たち
    から激しく攻撃されるようになった。(立花隆氏「日
    本中を右傾化させた五・一五事件と神兵隊事件」文藝
    春秋 2002;9月特別号:439ページより引用)
     *************************************
   <陸軍内部の派閥抗争(昭和7年頃より激化)>
   ○統制派:天皇機関説を奉じ、合法的に軍部が権力を
    手に入れ、そして国家総動員体制(高度国
    防体制)をつくってゆこうと主張するグル
    ープで陸軍上層部に多かった。
    エリート中心の近代化された国防国家を
    目指し、官僚的だった。
    (渡辺錠太郎教育総監(S11.2暗殺)、永田
    鉄山陸軍省軍務局長(S10.8に暗殺)、林銑
    十郎ら)
   ○皇道派:国体明徴運動(今の腐敗した国家は日本の
    天皇の意に沿う国家ではないから、理想的
    な国家をつくろう)に熱心で非合法によっ
    てでも権力を握ろうとし、そして天皇親政
    による国家を目指すグループで青年将校に
    多かった。農民・労働者の窮状に深い同情
    をもっていた。
    (小畑敏四郎、荒木貞夫、真崎甚三郎ら)
     *************************************

  ★農民は「富国強兵」の犠牲者だった。
   農民は明治政府の重要政策であった「富国強兵」の犠牲者であった。
  後進国が自らの原始的蓄積によってその資本主義を発展させる「富国」
  のために農民は犠牲を求められた(地主金納、小作物納の租税体系と
  地租の国税に占める割合をみても判る)。同時に「インド以下」とい
  われた農民は「強兵」のためにはあたかもグルカ兵のように、馬車馬
  的兵士として使われた。「富国」と「強兵」とは農民にとって本来結
  合しない政策であった。この農民の二重苦にもかかわらず、隊附将校
  は「富国」のために強兵を訓練し、「強兵」と生死をともにする立場
  に立たされていた。そして幕僚は「富国」への体制に専念した。この
  「富国強兵」策のもつ矛盾は、大正九年の経済恐慌、昭和二年の金融
  恐慌、昭和五年の農業恐慌によって激化された。このことは、「武窓
  に育って」社会ときりはなされていた青年将校に、軍の危機イコール
  国の危機であるという彼ら特有の信念を、いよいよ自明のものとして
  うけとらせるのに十分であった。(高橋正衛氏著『二・二六事件』中
  公新書、p.148)

  ●二・二六事件(昭和11年2月26日):岡田内閣終焉
      -->テロの恐怖
   陸軍内部で国家改造運動をすすめていた皇道派青年将校
  (栗原安秀、村中孝次、磯部浅市ら)たち約1500名が起こ
  したクー・デタ未遂事件。
   緊縮財政を推進し、軍事支出をできる限り押さえようと
  した岡田内閣が軍部の標的にされ、高橋是清蔵相、内大臣
  斉藤実、渡辺錠太郎教育総監らが暗殺された。
    歩兵第一・三連隊、近衛兵第三連隊の20人余りの将校と
   部下約1500名が参加し、約1時間ほどの間に日本の中枢を
   手中に治めてしまった。皇道派の首魁は真崎甚三郎、決起
   隊の中心人物は野中四郎(のち自決)だった。(歩兵第三
   連隊安藤輝三大尉の決意と兵を想う気持ちを覚えておこう。
   また真崎甚三郎の卑怯、狡猾さは忘れてはならない)。
    ○あてにもならぬ人の口を信じ、どうにもならぬ世の
     中で飛び出して見たのは愚かであった。(竹島継夫
     の遺書より)
    ○国民よ軍部を信頼するな。(渋川善助)
    昭和史に造詣の深い高橋正衛氏によれば「二・二六事件
   は真崎甚三郎の野心とかさなりあった青年将校の維新運動」
   (『二・二六事件』、中公新書、p.175)と結論づけられる
   が、真崎の卑しさとでたらめは粟屋憲太郎氏著『東京裁判
   への道<下>』(講談社、pp.129-136)にも簡潔にまとめ
   てある。日本ではいつもこういう卑怯で臆病なものどもが
   はびこるのである。
   ++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++
            <蹶起趣意書>
   謹んで惟るに我神洲たる所以は、万世一神たる天皇
   陛下御統帥の下に、挙国一体生々化育を遂げ、終に八
   紘一宇を完ふするの国体に存す。此の国体の尊厳秀絶
   は天祖肇国神武建国より明治維新を経て益々体制を整
   へ、今や方に万方に向って開顕進展を遂ぐべきの秋なり
   然るに頃来遂に不逞凶悪の徒簇出して私心我欲を恣
   にし、至尊絶体の尊厳を藐視し僭上之れ働き、万民の
   生に化育を阻碍して塗炭の痛苦に呷吟せしめ、随って
   外侮外患日を逐ふて激化す
   所謂元老重臣軍閥官僚政党等は此の国体破壊の元凶
   なり。倫敦海軍条約並に教育総監更迭に於ける統帥権
   干犯、至尊兵馬大権の僭窃を図りたる三月事件或は学
   匪共匪大逆教団等利害相結で陰謀至らざるなき等は最
   も著しき事例にして、其の滔天の罪悪は流血憤怒真に
   譬へ難き所なり。中岡、佐郷屋、血盟団の先駆捨身、
   五・一五事件の噴騰、相沢中佐の閃発となる、寔に故
   なきに非ず
   而も幾度か頸血を濺ぎ来って今尚些も懺悔反省なく、
   然も依然として私権自欲に居って苟且偸安を事とせり。
   露支英米との間一触即発して祖宗遺垂の此の神洲を一
   擲破滅に堕らしむるは火を睹るよりも明かなり
   内外真に重大至急、今にして国体破壊の不義不臣を
   誅戮して稜威を遮り御維新を阻止し来れる奸賊を芟除
   するに非ずんば皇謨を一空せん。恰も第一師団出動の
   大命煥発せられ、年来御維新翼賛を誓ひ殉国捨身の奉
   公を期し来りし帝都衛戌の我等同志は、将に万里征途
   に上らんとして而も顧みて内の世状に憂心転々禁ずる
   能はず。君側の奸臣軍賊を斬除して、彼の中枢を粉砕
   するは我等の任として能く為すべし。臣子たり股肱た
   るの絶対道を今にして尽さざれば、破滅沈淪を翻へす
   に由なし
   茲に同憂同志機を一にして蹶起し、奸賊を誅滅して
   大義を正し、国体の擁護開顕に肝脳を竭し、以て神洲
   赤子の微衷を献ぜんとす
   皇祖皇宗の神霊冀くば照覧冥助を垂れ給はんことを
    昭和十一年二月二十六日
      陸軍歩兵大尉 野中四郎
      他同志一同
   ++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++
   ※ 陸軍内部の派閥抗争(権力闘争)の極致
   陸軍士官学校や陸軍大学校から軍の高級官僚が供給さ
   れるようになって以来、彼等の人事権が確立し、外部の
   干渉を排して自らの組織を編成するという、官僚機構独
   特の行動が目立ちはじめた。ここに陸軍省と参謀本部の
   内部で、陸軍の主導権をめぐって皇道派と統制派の対立
   が生まれた。二・二六事件は権力闘争に敗れた皇道派の
   青年将校のやぶれかぶれの行動であった。いつの時代も
   官僚は白蟻のごとく国家に寄生しつつ権力闘争に明け暮
   れている。結局依拠する基盤もろともに壊滅し、時には
   国家の存亡を殆うくする。日本は21世紀に入っても相も
   変わらず、全く懲りることなく同じ状況を呈している。
  ※ 軍人その本務を逸脱して余事に奔走すること、すでに
   好ましくないが、さらに憂うべきことは、軍人が政治を
   左右する結果は、もし一度戦争の危機に立った時、国民
   の中には、戦争がはたして必至の運命によるか、あるい
   は何らかのためにする結果かという疑惑を生ずるであろ
   う。(河合栄治郎「二・二六事件について」、帝国大学
   新聞(S11.3.9)より) 
  ※ 私の見るところ、昭和初年代、十年代の初めに公然と
    軍部に抵抗した言論人はこの桐生を含めて福岡日日新聞
    の菊竹淳ではないかと思う。それだけにこのような言論
    人は歴史上に名を刻んでおかなければならないと思うし、
    またその言論から学ばなければならない。
    その桐生(筆者注:桐生悠々)だが、二・二六事件か
    ら十日ほど後の発行(三月五日の『他山の石』で「皇軍
    を私兵化して国民の同情を失った軍部」という見出しの
    もと、次のような批判を行った。
    「だから言ったではないか。国体明徽よりも軍勅瀾徽
    が先きであると。だから言ったではないか、五・一五事
    件の犯人に対して一部国民が余りに盲目的、雷同的の讃
    辞を呈すれば、これが模倣を防ぎ能わないと。だから、
    言ったではないか。疾くに軍部の盲動を誡めなければ、
    その害の及ぶところ実に測り知るべからざるものがある
    と。だから、軍部と政府とに苦言を呈して、幾たびとな
    く発禁の厄に遭ったではないか。国民はここに至って、
    漸く目さめた。目さめたけれどももう遅い」。(保阪正
    康氏著『昭和史の教訓』朝日新書、p.43)
  ※ 二・二六事件の本質は二つある、第一は一部少数のも
    のが暴力の行使により政権を左右せんとしたことに於て、
    それがファシズムの運動だということであり、第二はそ
    の暴力行使した一部少数のものが、一般市民に非ずして 
    軍隊だということである。
    二・二六事件は軍ファシズムによる「自ら善なりと確
    信する変革を行うに何の悸る所があろうか」という根本
    的な社会変革への誤りから出発した事件である。(河合
    栄治郎、『中央公論』巻頭論文)  (高橋正衛氏著
    『二・二六事件』中公新書、p.23)
  ※ 石原莞爾:石原が中心になってこの事件を終息させた
       といえる。
     「この石原を殺したかったら、臆病なまねをするな。
    直接自分の手で殺せ。兵隊の手を借りて殺すなど卑怯
    千万である」(石原莞爾は統制派の指導者武藤章とと
    もに、鎮圧に向いて動き始めていた)
     「貴様らは、何だ、この様は。陛下の軍を私兵化し
    おって。即座に解散し、原隊に復帰せよ。云う事をき
    かないと、軍旗を奉じて、討伐するぞ!」
     (事件後の陸軍を牽引したのは石原莞爾、梅津美治
     郎、武藤章だったが、後二者は官僚色、統制色の強
     い輩であり、精神的に皇道派的な石原莞爾は彼等
     (幕僚派、東条英機も)との軋轢をもつことしばし
     ばであった。結局このことが石原の軍人としての経
     歴に終止符をうつことになった)。
  ※ 昭和天皇:
   「朕ガ股肱ノ老臣ヲ殺戮ス、此ノ如キ凶暴ノ将校等、
   其精神ニ於テモ何ノ恕スベキモノアリヤ」
   「朕ガ最モ信頼セル老臣ヲ悉ク倒スハ真綿ニテ朕ガ
   首ヲ締ムルニ等シキ行為ナリ」
  ※ 斎藤隆夫氏の粛軍演説(『粛軍に関する質問演説』)
    については松本健一氏著『評伝 斎藤隆夫』、東洋経済、
    pp。254-284を参照のこと。
   ただし斎藤隆夫氏のこの憲政史上に残る名演説も、当
    時の広田弘毅首相、寺内寿一陸相をして、軍部に対して
    大した措置をとらせるには至らなかった。結局は皇道派
    の首脳を退陣させただけで、残った統制派が、我が世の
    春を謳歌することになっただけだった。
  ※ この重大な情勢下で日本には政治の指導者がいない。
   すでに多年来、政府は内蔵する力も、また決意も持た
   ない。軍部と官僚と財界と政党の諸勢力のまぜものに
   すぎない。以前は強力であった政党も汚職と内部派閥
   の闘争のため、政治的には全く退化し、国民の大多数
   から軽蔑されている。(リヒアルト・ゾルゲ『日本の
    軍部』より)
 
  ●日独防共協定(昭和11年11月)成立
   大島浩中将とナチス・リッベントロップの交渉にはじ
  まる。陸軍武官が大使館の外交ルートに侵食してきたケ
  ースの典型例(--->昭和12年11月にはイタリアも参加)
 
  ★1937年(昭和12年)から1945年(昭和20年)までの短期間に、突然、
  論理的に整合性があり、極めて効率的で、戦時中のみならず戦後日本
  の奇跡の経済成長の礎石となった戦時経済システムができあがった。
   ------------------------------------------------------ーー
   ※国家の理想は”正義と平和”にあるという日本の良識の最高峰
   であった東大教授・矢内原忠雄氏は、度重なる言論弾圧により
   昭和12年12月2日、最終講義を終えて大学を去った。以下学ぶ事
   の多い終講の辞より。 
    植民地領有の問題をとって考えてみても、種々の方面から
    事をわけて考えねばならない。研究者は一定の目的を以て行
    われている現実の政策をも学問的に見て、それが正しいかあ
    るいは利益があるかを決すべきであり、実行者がやっている
    の故を以てそれを当然に正しいとか利益があるとかいうこと
    は出来ない。
    ・・・大学令第一条には大学の使命を規定して、学術の蘊
    奥並びにその応用を研究し且つ教授すること、人格を陶冶す
    ること、国家思想を涵養すること、の三を挙げている。その
    中最も直接に大学の本質たるものは学問である。もちろん学
    問の研究は実行家の実行を問題とし、殊に社会科学はそれ以
    外の対象をもたない。また学問研究の結果を実行家の利用に
    供すること、個々の問題について参考意見を述べること等も
    もとより妨げない。しかしながら学問本来の使命は実行家の
    実行に対する批判であり、常に現実政策に追随してチンドン
    屋を勤めることではない。現在は具体的政策達成のためにあ
    らゆる手段を動員している時世であるが、いやしくも学問の
    権威、真理の権威がある限りは、実用と学問的の真実さは厳
    重に区別されなければならない。ここに大学なるものの本質
    があり、大学教授の任務があると確信する。大学令に「国家
    思想を涵養し」云々とある如く、国家を軽視することが帝国
    大学の趣旨にかなわぬことはもちろんである。しかしながら
    実行者の現実の政策が本来の国家の理想に適うか否か、見分
    け得ぬような人間は大学教授ではない。大学において国家思
    想を涵養するというのは、学術的に涵養することである。浅
    薄な俗流的な国家思想を排除して、学問的な国家思想を養成
    することにある。時流によって動揺する如きものでなく、真
    に学問の基礎の上に国家思想をよりねりかためて、把握しな
    ければならない。学問的真実さ、真理に忠実にして真理のた
    めには何者をも怖れぬ人格、しかして学術的鍛錬を経た深い
    意味の国家思想、そのような頭の持主を教育するのが大学で
    あると思う。国家が巨額の経費をかけて諸君を教育するのは、
    通俗的な思想の水準を越えたところのかかる人間を養成する
    趣旨であることを記憶せよ。学問の立場から考えれば戦争そ
    のものも研究の対象となり、如何なる理由で、また如何なる
    意味をそれが有つかが我々の問題となる。戦争論が何が故に
    国家思想の涵養に反するか。戎る人々は言う、私の思想が学
    生に影響を及ぼすが故によくないと。しかし私はあらゆる意
    味において政治家ではない。私は不充分ながらとにかく学問
    を愛し、学生を愛し、出来るだけ講義も休まず努力して来た
    だけで、それ以外には学生に対して殆んど何もしなかった。
    学生諸君の先頭に立つようなことは嫌いだった。しかし私が
    こうして研究室と教室とに精勤したということがよくないと
    いうなら、それは私の不徳の致すところだから仕方がない。
    私は不充分ながら自分が大学教授としての職責をおろそか
    にしたとは思わない。しかし私の考えている大学の本質、使
    命、任務、国家思想の涵養などの認識について、同僚中の数
    氏と意見が合わないことを今回明白に発見したのである。も
    っとも、意見の異る人々の間にあってやって行けないわけで
    はない。いろいろの人々、いろいろの傾向が一つの組織の中
    に統一せられることは、大学として結構であり、学生に対し
    ても善いのである。考えや思想が一色であることは、かえつ
    て大学に取って致命的である。故に私は他の人々と意見が異
    うからという理由で潔癖に出てゆくわけではない。私は何人
    をも憎みまた恐れるわけではない。地位を惜しむものでもな
    く、後足で砂をかけ唾を吐いて出てゆくのでもない。私は大
    学とその学生とを愛する。私はゴルフをやるでなし芝居を見
    るでなし、教室に来て諸君に講義し諸君と議論することが唯
    一の楽しみであった。それも今日限りで、諸君と、また諸
    君の次々に来る学生等と、相対することも出来なくなるのだ。
    しかし私の思想が悪いというので大学に御迷惑になるとすれ
    ば、私は進んで止める外はないのである。
     私の望むところは、私が去った後で大学がファッショ化す
    ることを極力恐れる。大学が外部の情勢に刺戟されて動くこ
    とはあり得ることであり、また或る程度必要でもあろうが、
    流れのまにまに外部の動く通りに動くことを、私は大学殊に
    経済学部のために衷心恐れる。もしそういうことであるなら、
    学問は当然滅びるであろう。・・・現象の表面、言葉の表面
    を越えたところの学問的真実さ、人格的真実さ、かかる真実
    さを有つ学生を養成するのが大学の使命である。これが私の
    信念である。諸君はこれを終生失うことなくして、進んで行
    かれることを望む。私は大学と研究室と仲間と学生とに別れ
    て、外へ出る。しかし私自身はこのことを何とも思っていな
    い。私は身体を滅して魂を滅すことのできない者を恐れない。
    私は誰をも恐れもしなければ、憎みも恨みもしない。ただし
    身体ばかり太って魂の痩せた人間を軽蔑する。諸君はそのよ
    うな人間にならないように……。(矢内原忠雄氏著『私の歩
    んできた道』日本図書センター、pp.106-110)

  ★ここまで発展してきた医師会も日中戦争から、大東亜戦争へと続く戦
  時体制の中で、戦争遂行のための国家総動員体制の中に組み込まれた。
  ※ 広田弘毅内閣への軍部の数々の嫌がらせや組閣僚人
   への妨害工作
    <寺内(お坊ちゃん)大将の横やり>
  「これには(閣僚予定者)、民政・政友の両党
  から二名ずつ大臣が入っている。これでは政党政
  治に他ならない。政党出身者は各党一名に限ると、
  軍からかねがね希望していたはずであり、一名ず
  つに減らさぬ限り、軍は承知できない。陸軍大臣
  を辞退する」
  ※ 平民宰相広田弘毅の苦悩(軍部大臣現役武官制の復帰<--最悪!!) 
   広田弘毅は二・二六事件に対して粛軍を断行した。
   しかしこれは軍部内部の派閥争い(統制派による皇
   道派締め出し)に利用され、軍部が全面的に反省の
   意を示したことにはならなかった。そればかりか、
   陸軍より「粛軍の一環として、軍部現役大臣(軍部
   大臣現役武官制)への復帰」という提案が出され 、
   広田弘毅は「現役将官のなかから総理が自由に選任
   できる」ことを条件にそれを認めた。
   しかし、たとえ条件つきでも軍部大臣現役武官制
   のもとでは、どんなときにも陸軍主導の内閣を作る
   ことができるようになってしまった。
   (広田弘毅は、このことを軍部暴走の追随として
   後の東京裁判で弾劾されることになった。さらに彼
   は当時の悪名高い愛国主義団体”黒龍会(首領:頭
   山満)”の親睦団体である”玄洋社”で、青年時に
   教育されていた。この事実も彼の判決に不利に作用 した)。
  ※ 浜田国松による軍部政策批判(昭和12年1月21日)
     政友会、浜田国松は第70議会(広田内閣、寺内陸
    相)において、軍部の改革案と政策決定への軍の関
    与に対して激しく批判した。
     「独裁強化の政治的イデオロギーは、常に滔々
     として軍の底を流れ、時に文武烙循の堤防を破壊
     せんとする危険あることは国民の均しく顰蹙する
     ところである」。(--->広田内閣は致命的な分裂へ)

   --------------------------------------------------------------
  ☆ 余談1
  <昭和12年、三木清『学生の知能低下について』(文藝春秋5月号)>
   昔の高等学校の生徒は青年らしい好奇心と、懐疑心と、そして
  理想主義的熱情をもち、そのためにあらゆる書物を貪り読んだ。
  ・・・しかるに今日の高等学校の生徒においては、彼等の自然の、
  生年らしい好奇心も、理想主義的感情も、彼等の前に控えている
  大学の入学試験に対する配慮によって抑制されてゐるのみでなく、
  一層根本的には学校の教育方針そのものによって圧殺されてゐる。
  ・・・或る大学生の話によると、事変後の高等学校生は殆ど何等
  の社会的関心ものたずにただ学校を卒業しさへすれば好いといふ
  やうな気持ちで大学へ入ってくる。それでも従来は、大学にはま
  だ事変前の学生が残ってゐて、彼等によって新入生は教育され、
  多少とも社会的関心をもつやうになり、学問や社会に就いて批判
  的な見方をするやうになることができた。
   しかるに事変前の学生が次第にすくなくなるにつれて、学生の
  社会的関心も次第に乏しくなり、かやうにして所謂「キング学生」
   、即ち学校の過程以外には「キング」程度のものしか読まない学
  生の数は次第に増加しつつあると云はれる。(文藝春秋 2002年2
  月号、坪内祐三『風呂敷雑誌』より)

  ☆ 余談2 
  <「少国民世代」>
   「少国民世代」などとも呼ばれるこの世代は、敗戦時に10歳前
  後から10代前半であった。敗戦時に31歳だった丸山(筆者注:丸山
  眞男)など「戦前派」(この呼称は丸山らの世代が自称したもの
  ではなかったが)はもちろん、敗戦時に25歳だった吉本など「戦
  中派」よりも、いっそう戦争と皇国教育に塗りつぶされて育った
  のが、この「少国民世代」だった。
   1943年の『東京府中等学校入学案内』には、当時の中学校の面
  接試験で出された口頭試問の事例として、以下のようなものが掲
  載されている。
   「いま日本軍はどの辺で戦っていますか。その中で一番寒い
   所はどこですか。君はそこで戦っている兵隊さん方に対してど
   んな感じがしますか。では、どうしなければなりませんか」。
   「米英に勝つにはどうすればよいですか」。「君はどういう
   ふうに節約をしていますか」。「日本の兵隊は何と言って戦死
   しますか。何故ですか。いま貴方が恩を受けている人を言って
   ごらんなさい。どうすれば恩を返す事ができますか」。
   こうした質問は、児童一人ひとりに、君はどうするのかという
  倫理的な問いを突きつけ、告白を迫るものだった。
   (小熊英二氏著氏著『<民主>と<愛国>』新曜社、p.657)
   --------------------------------------------------------------

  ★この後広田内閣が倒れて、首相選びと組閣は混迷を極めた。軍人(幕
  僚派)の横暴、横やり、いやがらせが続き、結局大命は林銑十郎に下
  った。林銑十郎の組閣も陸軍、海軍、官僚が幕僚派、満州派(石原莞
  爾、十河信二、板垣征四郎、池田成彬、津田信吾)に分かれて次々と
  容喙し、「林銑十郎内閣は支那と戦争しないための内閣だ(石原莞爾)
 」という言葉にこめられた対中融和政策が永遠に葬られた。
 (昭和12年1〜2月)

  ●文部省より『国体の本義』という精神教育本を発行(昭和12年
   4月)
   橋川文三はその著(『昭和ナショナリズムの諸相』)のなか
   で興味深い指摘をしている。次のようにである。 
    「(ファシズムの)推進力となった団体といいますか、主
   体ということと同時に、その主体のさまざまなアピールに応
   える共鳴盤といいますか、そういったものを合わせて考えな
   いと、推進力という問題はでてこないのではないかと思いま
   す。ここで共鳴盤として考えたいのは、具体的に申しますと、
   農村青年とか、一般知識人とか、学生という階層にあたるわ
   けです。はじめから右翼的な団体があって、それがそのまま
   ファシズムを作りあげたのではなく、それに共鳴する大衆の
   側、あるいは中間層、その層にいろいろ問題があったわけで
   す。だからこそファシズムという一つの統合形態を生みだし
   えたと考えるほうが妥当ではないかということです」。
   共鳴盤という言い方が示しているのだが、それは権力を動か
   すグループと「臣民」化した国民がともに声を発し、それが山
   彦のようにこだまして反応しあうその状態といっていいのでは
   ないか。(保阪正康氏著『昭和史の教訓』朝日新書、
   pp.126-127)
    **********   **********    **********
   「久しく個人主義の下にその社会・国家を発達せしめた欧米
   が、今日の行詰りを如何に打開するかの問題は暫く措き、我が
   国に関する限り、眞に我が国独自の立場に還り、萬古不易の国
   体を闡明し、一切の追随を排して、よく本来の姿を現前せしめ、
   而も固陋を棄てて益々欧米攝収醇化に努め、本を立てて末を生
   かし、聡明にして宏量なる新日本を建設すベきである」
   この訴えが、『国体の本義』(全百五十六頁)の全頁にあふ
   れている。現在、この冊子を手にとって読んでもあまりにも抽
   象的、精神的な表現に驚かされるのだが、なによりも天皇神格
   化を軸にして、臣民は私を捨てて忠誠心を以て皇運を扶翼し奉
   ることがひたすら要求されている。昭和十二年四月には、この
   冊子は全国の尋常小学校、中学校、高校、専門学校、大学など
   のほか、各地の図書館や官庁にも配布されたというのである。
   この『国体の本義』は、前述の庶民の例の代表的な皇国史
   『皇国二千六百年史』を誘いだす上部構造からの国益を前面に
   打ちだしてのナショナリズム滴養の書であった。橋川文三がそ
   の書(『昭和ナショナリズムの諸相』)で説いたように、まさ
   に共鳴盤の役割を果たしていたといっていい。
    (保阪正康氏著『昭和史の教訓』朝日新書、pp.128-129)
    **********   **********    **********
   「明き清き心は、主我的・利己的な心を去って、本源に生き、
   道に生きる心である。即ち君民一体の肇国以来の道に生きる心
   である。こゝにすべての私心の穢(けがれ)は去って、明き正
   しき心持が生ずる。私を没して本源に生きる精神は、やがて義
   勇奉公の心となって現れ、身を捨てて国に報ずる心となって現
   れる。これに反して、己に執し、己がためにのみ計る心は、我
   が国に於いては、昔より黒(きたなき)き心、穢れたる心とい
   はれ、これを祓ひ、これを去ることに努めて来た」
   こういう説得が、この『国体の本義』の骨格を成している。
   (保阪正康氏著『昭和史の教訓』朝日新書、pp.139-140)

  ●支那事変(日中戦争、1937年、昭和12年7月7日〜)
   南京陥落(12月13日)
  ※ 盧溝橋事件(昭和12年7月8日未明)が発端となった。
   北京郊外の盧溝橋に近い野原で、夜間演習中の第一連隊
   第三大隊が、国民党軍から発砲を受けた。
   当時の中国、特に華北情勢は、蒋介石の南京政府と共産
   党、冀察政権(宋哲元政務委員長)三者のきわめて微妙な
   バランスと相互作用の上に形成されていた。(なお国民党
   はナチス・ドイツと極めて緊密な関係にあり、同時に日本
   は日独伊防共協定の締結国として大事な政治上のパートナ
   ーであって、日中が対立することはドイツの世界戦略にと
   って頭痛の種となっていた)。
  ※ 支那事変は厳密には重慶に位置する蒋介石政権に対する
   軍事行動だった。日本はあえて「支那事変」と称した。そ
   れは「戦争」と宣言した場合主として米国が日本に対する
   物資の輸出を禁絶するであろうと虞れたからである。(瀬
   島龍三『大東亜戦争の実相』より)
  ※ 陸軍参謀本部作戦部長は石原莞爾だった。石原は作戦課
   長の武藤章らの強硬論と対立し、期せずして日中戦争不拡
   大派となっていた。
     「自分は騙されていた。徹底していたはずの不拡大命
    令が、いつも裏切られてばかりいた。面従腹背の徒にし
    てやられたのだ」。
  ※ 国家至上主義の台頭(軍人の思い上がり)
     「天皇の命令といえども、国家に益なき場合は従う
     必要はない」。
   ※ 戦争拡大派:見よ!、ワルどものオン・パレードを!!
     南次郎(朝鮮総督)、小磯国昭(朝鮮軍司令官)、
     東条英機(関東軍参謀長)、富永恭次・辻政信(いず
     れも東条英機の輩下)、寺内寿一、梅津美治郎、牟田
     口廉也、陸軍省の大部分の阿呆ども(田中新一(陸軍
     省軍務局軍事課)、武藤章(陸軍省軍務局作戦第三課
    、この男は"悪魔の化身"といっていい)、陸軍大臣
     杉山元、近衛文麿、広田弘毅など
   ※ 日本史上最悪の悪魔の歌の慫慂(「軍人も国民もみんな
    死ね!!」)
     『海行かば水づく屍山行かば草むす屍大君の辺にこそ
           死なめかえりみはせじ』
      どうだ!!、この国のばけものどもが、国家をあげ
     て慫慂したこの歌の非人間性を、こころ行くまで味
     わい給え!!。(当時の兵隊さんは、「海に河馬、み
     みずく馬鹿ね・・」と揶揄していたが・・・)
   ※ 南京攻略戦を書いた石川達三氏著『生きている兵隊』は
    1/4ほど伏字で昭和13年発表されたが翌日発禁となった。       
 
  ●「通州事件」(昭和12年7月29日)
   冀東政権(冀東防衛自治政府=日本の傀儡政権)の保安隊
   が日本軍の誤爆(保安隊兵舎の誤爆)の報復として日本の
   守備隊、特務機関、一般居留民を200人あまり虐殺した。当
   時の「支那に膺懲を加える」というスローガンはこの事件
   がきっかけだった。(川本三郎氏著『林芙美子の昭和』、
   新書館より)
 
  ●中国、第二次国共合作成立(昭和12年8月)。
   中国における排日抗日の気運の昂揚(「救国抗日統一戦線」)
 
  ●第二次上海事変(昭和12年8月13日)
   中国空軍が上海の日本軍の戦艦出雲を空爆する。指揮官は
  アメリカ軍人シェンノート(宋美齢の要請)。しかし中国空
  軍は租界を誤爆(?)したり、着陸失敗など惨憺たる有様だっ
  た。西欧諸国はこの誤爆を全て日本の責任として報道、日本
  は不当にも西欧列強から手ひどく指弾され、英国はついに蒋
  介石支援を決意した。
   結局、この第二次上海事変では、蒋介石側の溢れる抗戦意
  欲、ドイツの協力指導による焦土作戦の緻密さ、英米各国の
  蒋介石政権への固い支持が明らかになった。しかし参謀本部
  はこの脅威を一顧だにしなかった。
   このとき日本では松井石根を司令官とする上海派遣軍が編
  成され、昭和12年8月14日に派遣が下命された。蒋介石は15日
  に総動員令を発動し、大本営を設置、陸海空軍の総司令官に
  就任。これより日中衝突は全面戦争へと発展した。昭和12年
  11月までに死傷者は4万余に達した。
  
  ★日中全面戦争に至り死傷者が急増した。「一撃膺懲」などという安易な
  スローガンのもと、何の見通しもないまま激しい総力戦へと引きずりこ
  まれていった国民が、憤激したのは当然だった。しかしこのような事態
  にたいし、政府は国民の精神、気分自体を統制しようと試みはじめた。
  近衛首相は上海事変たけなわの9月11日に、日比谷公会堂で国民精神総
  動員演説大会を開催、事変への国民的な献身と集中を呼びかけた。9月
  22日には、「国民精神総動員強調週間実施要綱」が閣議決定された。
  10月半ばには、国民精神の昂揚週間が設けられ、政財界など民間の代表
  を理事に迎え、各県知事を地方実行委員とする国民精神総動員中央連盟
  が結成された。(福田和也氏著『地ひらく』文藝春秋より要約)

  ★戦争拡大派が2カ月で片付くと予想した戦闘は、中国軍の烈しい抵抗で
  思いもかけない規模に拡大することになった。とくに上海に戦火が波及
  してからの激戦で、日本軍の苦戦がつづき、次々に増援兵力を送らなけ
  ればならなくなった。このため兵力も、弾薬や資材も、予想もしなかっ
  た規模にふくれ上った。
   もともと日本陸軍は、対ソ戦争を第一の目標としていた。中国との戦
  争が拡大しても、対ソ戦の準備を怠るわけにはいかなかった。そして対
  ソ用の現役師団をなるべく動かさないで中国に兵力を送るために、特設
  師団を多数動員した。特設師団というのは現役2年、予備役5年半を終了
  したあと、年間服する年齢の高い後備役兵を召集して臨時に編成する部
  隊である。1937年後半から38年にかけて、多数の特設師団が中国に派遣
  されることになった。現役を終ってから数年から十数年も経ってから召
  集された兵士たちが、特設師団の主力を構成していたということになる。
  また彼らの多くは、結婚して3人も4人も子供があるのが普通だった。
  「後顧の憂い」の多い兵士たちだったといえる。上海の激戦で生じた数
  万の戦死者の多くが、こうした後備兵だったのである。それだけに士気
  の衰え、軍紀の弛緩が生じやすかったのである。軍隊の急速な拡大によ
  る素質の低下、士気、軍紀の弛緩も、掠奪、暴行などの戦争犯罪を多発
  させる原因を作ったといえる。(藤原彰氏著『天皇の軍隊と日中戦争』
  大月書店、p.15)
 
  ★戦時体制下の思想弾圧
  日中戦争の長期化は国内の戦時体制強化を促し、戦争に対して非協力
  的であったり、軍部を批判する思想・言論・学問は弾圧・排除の対象と
  なった。日中戦争勃発四カ月後の1937年11月には、ヨーロッパの反ファ
  シズム人民戦線運動を紹介した中井正一らの『世界文化』グループが検
  挙され、『世界文化』は廃刊となった。翌12月、コミンテルンの人民戦
  線戦術に呼応して革命を企図しているとして、山川均、荒畑寒村、猪俣
  津南雄、向坂逸郎ら約400名が一斉検挙され、日本無産党・日本労働組
  合全国評議会は結社禁止となった(人民戦線事件)。次いで、翌38年2月
  には、大内兵衛、有沢広巳、脇村義太郎ら教授グループが検挙され、治
  安維持法違反で起訴された(教授グループ事件)。
 (松井慎一郎氏著『戦闘的自由主義者 河合榮治郎』社会思想社、p.193)
 
  ●南京事件(昭和12年12月13日)
   奥宮正武氏著「大東亜戦争」、89〜93ページが真実に近いだろう。
   杉山陸相、松井大将、朝香宮・柳川・中島中将など破廉恥
  で獰猛な軍人のなせるわざであった。米内海相、広田外相の
  外交上の苦労は推して知るべしであろう。(なお外相広田
  弘毅は和平に熱心ではなかったという説もある。最近の文献
  では文藝春秋 2003(10)、p272-274も参照)
 
  ※ 11月20日勅令により大本営が設置され、呼称は事変のま
   まで、宣戦布告もないままに、本格的戦時体制が樹立された。
   第一回の大本営での御前会議で、下村定(戦線拡大派)
   は、その上司多田駿(戦線拡大反対派)を無視して「南京
   其ノ他ヲ攻撃セシムルコトヲモ考慮シテ居リマス」という
   説明文を加筆した。参謀本部の秩序は酷く紊乱していた。
   当時は、統帥権の独立によって、議会の掣肘を受けない軍
   にとって、天皇に対する忠誠と畏敬の念こそが最大にして
   最後の倫理の基盤であったはずだ。それがかような形で侵
   されるとすれば、いかなる抑止が可能であるか、暗然とせ
   ざるをえない事態であった。
   南京を陥落させることによって、支那事変の収拾の目途
   がまったく立たなくなるということさえ予見できない無知
   無能連中が参謀本部を支配していた。
 
  ●近衛最大の失政:「・・仍て、帝国政府は爾後国民政府を対
  手とせず・・」。これをもって、蒋介石政権との決別が決ま
  った。(昭和13年1月16日)
   しかしこの声明は、近代日本史上、屈指の大失策であった
  ことは明らかである。
  ※ 当時の陸軍内部の日中和平派は、参謀次長多田駿、戦争
   指導班の高嶋辰彦、堀場一雄、それに秩父宮だった。
  ※ 石原莞爾(満州より東京を俯瞰、昭和13年5月12日)
   「・・私は事件(支那事変、南京事件)が始まったとき、
   これは戦いを止める方がいいといった。やるならば国家の
   全力を挙げて、持久戦争の準備を万端滞りなくしてやるべ
   きものだと思った。然しどちらもやりません。ズルズル何
   かやって居ます。掛声だけです。掛声だけで騒いで居るの
   が今日の状況です。・・私は3か月振りで東京に来ました
   が、東京の傾向はどうも変です。満州も絶対にいいことは
   ありませんが東京はいい悪いではありません、少し滑稽と
   思ひます。阿片中毒者ー又は夢遊病者とかいう病人があり
   ますが、そんな人間がウロウロして居るやうに私の目には
   映ります」(福田和也氏著『地ひらく』文藝春秋より)

   ------------------<近衛文麿の正体>-----------------
    (戦犯指名における E・H・ノーマンの近衛批判)
   過去10年ばかりのあいだに内政外交を問わず重大な曲り
   角があるたびに、近衛はいつも日本国家の舵を取っていた
   こと、しかもこのような重大な曲り角の一つ一つでかれの
   決定がいつも、侵略と軍およびその文官同盟者が国を抑え
   こむ万力のような締めつけとを支持したことを明らかにせ
   ずにはいない。
   近衛が日本の侵略のために行ったもっとも貴重なつとめ
   は、かれだけがなしえたこと、すなわち、寡頭支配体制の
   有力な各部門、宮廷、軍、財閥、官僚のすべてを融合させ
   たことであった。
   (粟屋憲太郎氏著『東京裁判への道<上>』講談社、p.74)
 
  ●三つの戦時統制法を制定(近衛内閣)
   ○輸出入品等臨時措置法:重要物資の軍需産業への重点配分
   ○臨時資金調整法:企業設立、増資、配当、起債、資金借入
     の規制
   ○軍需工業動員法
  ※議会における国家総動員法案の審議がはじまる。
       (S13.2、近衛内閣)
   斎藤隆夫、牧野良三、池田秀雄らは、戦争と国家総動員
   ならびに非常時における国民の権利と義務の規制などの問
   題は、ひとり天皇のみが扱いうるものであることをはっき
   りと主張して国家総動員法案の議会通過に反対した(憲法
   と天皇主権を楯にした)。
 
  ●「国家総動員法」が正式に公布された(昭和13年4月1日)
   「本法ニ於イテ国家総動員トハ戦時(戦争ニジュンズベキ
  事変ノ場合ヲ含ム)ニ際シ国防目的達成ノ為国ノ全力ヲ最ム
  有効ニ発揮セシムル様人的及物的資源ヲ統制運用スルヲ謂フ」
    (同時に「電力国家管理法」も公布された)
  ※ 「国家総動員法」の内容
   国民を好き放題に徴用できる、賃金を統制できる、物資の
   生産・配給・消費などを制限できる、会社の利益を制限で
   きる、貿易を制限できる・・・つまり戦争のために国民は
   もっている権利をいざとなったら全面的に政府に譲り渡す
   というもの。
   ・第四条「政府は戦時にさいし、国家総動員上必要ある
   ときは、勅令の定むる所により×××することを得る」
   ("×××"の部分は文言が入ってない。つまり何でもあり)
  (半藤一利氏著『昭和史 1926->1945』平凡社、p219)
 
  <「国家総動員法」の本質:軍人は人的資源だ>
   Hさんの母親から気がかりなことを聞いた。NHK『日曜討論』
 (2003年6月8日)で、自衛隊イラク派遣の推進者、山崎拓自民
 党幹事長(当時)が、「自衛隊という資源を、人的資源を我々
 が持ってる以上、しかもそれに膨大な予算を費やして維持して
 るわけだから、それを国際貢献に使わないという手はないわけ
 で」と、薄ら笑いを浮かべながら発言した、と。
  「資源というのは消費するものですよね。人間を資源という
 のはおかしい。自衛官を使い捨てにするような発想が表れてい
 ると思います」と言う彼女は、我が子の痛ましい死を通して得
 た鋭敏な直覚によって、たとえ比喩であっても裏側にある本音
 を、小泉政権にそして国家そのものに潜む人命軽視の体質を見
 抜いたのだ。
  そしてHさんの母親から後日、電話があり、「人的資源」と
 いう言葉が気になって調べたら、それが国家総動員法のなかに
 出てくるのがわかったと知らされた。
  確かに国家総動員法(1938年公布)の第一条には、「本法ニ
 於テ国家総動員トハ戦時(戦争ニ準ズべキ事変ノ場合ヲ含ム以
 下之ニ同ジ)ニ際シ国防目的達成ノ為国ノ全力ヲ最モ有効ニ発
 揮セシムル様人的及物的資源ヲ統制運用スルヲ謂フ」とある。
  ここでは人間は、人格も意思も認められず「統制運用」され
 る対象として物資と一緒くたに扱われている。「人的資源」の
 発想の源は、かつて国民を戦争に駆り立てたあの国家総動員法
 にあるのだ。戦前〜戦中〜戦後を通じて国家の非情な本質は連
 続性を持つという事実を踏まえて、状況を見抜いていかなけれ
 ばならないことを痛感する。(吉田敏浩氏著『ルポ 戦争協力
 拒否』岩波新書(2005年)、pp.102-103)
 
  ※ この法律は立法権制限の最たるものであり、これがその
   後8年間の政府の議会に対する関係を変えた(議会と政党の
   役割がかつてないほどまでに低下した)ことには疑問の余
   地がない。
   統帥権を法令化したこの法律をもって「軍が日本を占領
   した」(司馬遼太郎)。
 
  ※ 軍部は美術家も総動員して戦争画を制作させ、戦意高揚
   ・戦争協力を押し進める方針を打ち出した。(「聖戦美術
   展」、アホクサ!!)

  ■政友会両派の指導者である中島と久原は、政党制度の競争的
   性格を根本的に修正して、議会を恒久的に支配できるような
   単一の新政党を結成し、その新政党を国家のための国民動員
   の機関とすることを提唱していた。これは当時の内務省をは
   じめとする官僚どもの立場と共通であった。じつにおぞまし
   い時代だった。

  ※ 大本営の特設
   天皇の統帥権行使を輔翼すべき戦時の最高統帥機関とし
   て参謀本部と軍令部の二位一体的に機能するように設置。
   単一化した機構の下に統帥と軍政との統合、調整及び陸海
   軍の策応協同を適切敏活ならしめる。
   大本営は陸軍部と海軍部に分かれていた。
   ○「大本営政府連絡会議」と「戦争指導」
   (「戦争指導」:「戦略」と「政略」の統合と調整)
   戦略(大本営、「用兵作戦」)と政略(行政府、外
   交、財政、教育)の統合と調整を行うために天皇を輔
   佐する固有の国家機関は当時、法的にも実質的にも存
   在せず、大本営と政府の申し合わせにより「戦争指導」
   に関する国家意志の実質決定機関として「大本営政府
   連絡会議」が設置された。
   ○「御前会議」
    天皇の御前における「大本営政府連絡会議」をい
   う。枢密院議長が統帥部、行政府に対し第三者的立
   場で出席し大局的見地から意見や勧告を陳述した。
  (以上、瀬島龍三『大東亜戦争の実相』より引用)
 
  ●日中戦争勃発とともに文部省は「修文錬武」をスローガンに
  全国の学校に軍事教練の強化と集団勤労の実施を指令した。
   (魚住昭氏著『渡邊恒雄 メディアと権力』より)
  ●厚生省が新設された。(昭和13年1月11日)
   内務省の薬務行政はすべて厚生省に移管された。
   (--->この後約8年間、厚生省が阿片政策を担当)
   ○1938年、里見甫は上海の陸軍特務部からアヘン配給
   組織をつくるよう命令された。--->「宏済善堂」
   (「火煙局」=「里見機関」)
   アヘン販売は日本政府・軍部の国家的プロジェク
   トだった。岸信介と東条英機はアヘンで繋がっていた
   という話もある。
   ○満蒙開拓青少年義勇軍応募が始まる(昭和13年)
   数え歳16〜19歳の青少年を国策で満州へ移民させた。
   彼らは後にソ満国境の警備に配されたし、徴兵年齢に
   達したら関東軍に召集された。
   ○「ペン部隊」
   昭和13年8月に内閣情報部が武漢攻略に当たって従軍
   作家を組織した。菊地寛が中心になって人選した(各
   班約10名、女性1名ずつ)。
   陸軍班:久米正雄、尾崎士郎、片岡鉄兵、岸田国士、
     瀧井孝作、丹羽文雄、林芙美子ら
   海軍班:菊地寛、小島政二郎、佐藤春夫、杉山平助、
     吉川英治、吉屋信子ら
  (川本三郎氏著『林芙美子の昭和』、新書館より引用)
  ●張鼓峰事件(ハーサン湖事件、昭和13年8月)
   「ソ連軍の武力偵察」という参謀本部の中堅幕僚のちょっ
  とした思い付きと一師団長の功名心の犠牲となって、多くの
  日本人兵士が無駄に死んでしまった。参謀本部作戦課は火遊
  び好きな幼稚なものどもの集まりだった。
  ●陸軍参謀本部の漢口作戦、広東攻略作戦(昭和13年9〜10月)
   日中の戦局はさらに長期消耗戦にはいっていった。
   近衛内閣はことごとくに思慮分別のない阿呆な内閣だった。
   ○「東亜新秩序の建設こそが日本の聖戦の目的」
   ○「抗日容共政権を殱滅する」
   ○「蒋介石政権は中国全土を代表せず」
  ●内閣情報委員会が、東亜新秩序建設という長期的課題に処す
  るために精神総動員を強化する計画を提出(昭和13年11月26日)
   情報委員会を通じて内閣から中央連盟傘下の全国の諸組織
  (青年団 、在郷軍人会、婦人会、農村の産業組合)に連なる
  強力な動員機構を樹立しようとした。これこそは国民を一気に
  「統合」しようとする構想であった。
  ●日本軍海南島占領(昭和14年2月)
  ●「満州開拓青少年義勇軍」計画(昭和14年4月29日)
  ●日本軍重慶を無差別爆撃(昭和14年5月)
   近代戦の最も恐るべき実例がアメリカの雑誌『ライフ』で
  提供され、アメリカ市民は大きな衝撃をうけた。以来アメリ
  カの世論は大きく動いた。
  ●ノモンハン事件(1939年、昭和14年5〜9月):制空権の重要性を証明
   この敗戦を堺に日本は南方進出を決定。
   関東軍、服部・辻らの暴走で、「元亀天正の装備」の下にソ連の
   近代陸軍と対戦させられた兵士約18000人の戦没者を数えた。中には
   責任を押しつけられて自殺させられた部隊長もあった。
   (「元亀天正の装備」については司馬遼太郎氏著『この国のかたち
    <一>』を参照)
 
   # 第一戦の将兵がおのれの名誉と軍紀の名のもとに、秀才参謀
    たちの起案した無謀な計画に従わされて、勇敢に戦い死んでい
    った・・。
   <特に”ハルハ河渡河作戦”の無謀さ>
     (師団長園部和一郎中将の親書より)
    「・・・小生がハルハ河渡河作戦を非常に無謀と思った
     のは、第一、上司のこの作戦はゆきあたりばったり、寸毫
     も計画的らしきところのなき感を深くしたこと。
    第二、敵は基地に近く我は遠く、敵は準備完全、我はで
     たらめなるように思われ、
    第三、敵は装備優良、我はまったく裸体なり。
    第四、作戦地の関係上、ノモンハノンの敵は大敵なり。
    要するに敵を知らず己れを知らず、決して軽侮すべから
     ざる大敵を軽侮しているように思われ、もしこの必敗の条
     件をもって渡河、敵地に乗りこむか、これこそ一大事なり
     と愚考致したる次第なり」
      (津本陽氏『八月の砲声』講談社、p.278)

   # ソ連・モンゴル軍の情報混乱作戦
    計画の中で、また準備処置の中で特別の位置を占めていた
    のは、敵に、我が軍が防衛態勢に移っているかのような印象
    を与えるために、情報を混乱させる問題である。このため、
    各部隊には、「防衛線に立つ兵士の手引き書」が配られた。
    構築された防衛施設についての嘘の状況報告と技術物資の質
    問表とが手渡された。全軍の移動は夜間にだけ行われた。待
    機位置に集結される戦事の騒音は、夜間爆撃機と小銃・機関
    銃掃射の騒音によってかき消された。日本軍には、我が諸部
    隊によって、前線中央部が強化されつつあるかのような印象
    を与えるために、前線中央でだけラジオ放送が行われた。前
    線に到着した強力な音を立てる放送所は、くい打ちの擬音を
    放送して、あたかも、大防衛陣地の工事をやっているかのよ
    うに見せかけた。日本兵には戦車の騒音に慣れっこにさせる
    ために、襲撃前の10〜12日間は、消音装置をはずした自動車
    何台かが前線に沿って絶えまなく往復した。こうした方策す
    べては極めて効果的であることが明らかになった。日本軍司
    令部は、我が軍の企図をはかりかねて、全く誤解に陥ってし
    まった。
       ---------------------------------
     ソ・モ軍はこのように工事や戦車の悪日を放送した
     のみならず、「レコードやジャズの音」をひびかせ
     (田中誠一「陣中日記」)、あるいは「日本軍の兵隊
     の皆さん、馬鹿な戦争はやめて内地の親兄弟、妻子の
     いるところへ帰りなさい。馬鹿な戦争をして何になる
     のですか。命あっての物種、将校は商売だ」などと戦
     線離脱をすすめる放送を「1日数十回放送した」とい
     う。(山下義高「ノモンハンに生きた私の記録」)
       ---------------------------------
   (シーシキン他『ノモンハンの戦い』田中克彦訳、岩波現代文庫、
    pp.49-50)
 
   # 信じられないようなことだが、陸軍にあっては「戦車は戦車
    である以上、敵の戦車と等質である。防御力も攻撃力も同じで
    ある」とされ、この不思議な仮定に対し、参謀本部の総長とい
    えども疑問を抱かなかった。現場の部隊も同様であり、この子
    供でもわかる単純なことに疑問を抱くことは、暗黙の禁忌であ
    った。戦車戦術の教本も実際の運用も、そういうフィクション
    の上に成立していたのである。じつに昭和前期の日本はおかし
    な国であった。(司馬遼太郎氏著『歴史と視点』より引用)
 
   # 幼年学校、陸士、陸大を通じての大秀才であった辻政信の、
    ソ連の戦力に対する偵察が、実に杜撰きわまりないものであっ
    た事実は、何を意味するものであるのか。
   頭脳に片々たる知識を詰めこむことを重視するばかりで、現
    実を正確に観察する人間学の訓練を受けなかった秀才が、組織
    社会の遊泳術ばかりに長じていても、実戦において眼前の状況
    に対応するには歯車が噛みあわず、空転することになる。
   辻参謀は根拠なく軽視したソ連軍機械化部隊と戦闘をはじめ
    るまで、自分が陸軍部内遊泳の才を持っているだけで、用兵の
    感覚などという段階ではなく、近代戦についての知識がまった
    くといっていいほど欠落していることに気づいていなかった。
   日露戦争からわずか二十三年を経ただけで、日本陸軍は大組
    織の内部に閉じこもり、派閥抗争をもっぱらとする、政治家の
    ような官僚的軍人を産みだしていたのである。
   時代遅れの武装をしていた中国国民軍、中共軍を相手に戦闘
    しているあいだに、日本軍も時代遅れになった。歩兵戦闘にお
    いて世界に比類ない威力を備えているので、いかなる近代兵器
    を備えた敵国の軍隊にも、消耗を怖れることなく肉弾で突っこ
    めば勝利できるという錯覚を、いつのまにか抱くようになって
    いたのである。(津本陽氏『八月の砲声』講談社、pp.276-277)
 
   # 鈍感で想像力の貧困な、無能きわまりない将官たちが、無数
    の若い将兵を血の海のなかでのたうちまわらせて死なせるよう
    な、無責任かつ残酷きわまりない命令を濫発している有様を想
    像すれば、鳥肌が立つ。
   彼らを操っているのは、無益の戦闘をすることによって、国
    軍の中枢に成りあがってゆこうと考えている、非情きわまりな
    い参謀であった。
   罪もない若者たちの命を、国家に捧げさせるのであれば、な
    ぜ負けるときまっているような無理な作戦をたて、恬として恥
    じるところがないのか。作戦をたてる者は、戦場で動かす兵隊
    を、将棋の駒としか思っていないのかと、残酷きわまりない彼
    らの胸中を疑わざるをえない。
      (津本陽氏『八月の砲声』講談社、pp.288-289)
 
   # ・・・(筆者注:ノモンハン惨敗、日本軍潰滅敗走のなかで)
    辻参謀はいきなり司令部壕から飛び出し、某中尉以下約40名
    の前に立ちふさがる。将兵の瞳孔は恐怖のために拡大している
    ようであった。辻は右第一線全滅と報告する彼らを、大喝した。 
   「何が全滅だ。お前たちが生きてるじゃないか。旅団長、連
    隊長、軍旗を見捨てて、それでも日本の軍人かっ」
   潰走してきた兵は辻参謀に詫び、彼の命令に従い、背嚢を下
    し、手榴弾をポケットに入れて前線に戻ってゆく。
    (津本陽氏『八月の砲声』講談社、p.452)
 
   # 停戦協定(昭和14年9月14日)あと、ノモンハンの惨敗の責任
    隠しのため、自決すべき理由の全くない3人の部隊長が自決させ
    られた。
   歩兵第72連隊長酒井美喜雄大佐、第23師団捜索支隊長井置栄一
    中佐(部下の無駄死にを防いだ)、長谷部理叡大佐(陣地撤退)
    の 3名だった。 (津本陽氏『八月の砲声』講談社、pp.488-490)

   # 日本防衛軍全軍総指揮官、第23歩兵師団長小松原の卑怯さ
    はじめに忘れないうちに----一つ、特徴的なエピソードを
    述べておきたい。こ頃、我々は、関東軍(すなわち、事実上、
    仝満洲戦線の)司令官植田将軍が、ハルハ河事件との関係で
    解任されたという、驚くべきニュースを受けとった。ところ
    が、それにすぐそれに続いて、ハルハ河で全滅した第六軍団
    司令官小松原将軍が勲章を受けとった。何勲章だったか、青
    銅の鷲〔鷲はナチス・ドイツの勲章〕だったか、黒いトビだ
    ったかの。その頃の日本配層の心理のある特性を考えに入れ
    なければ、この知らせは、ほんとに謎のようなものだ。
    小松原将軍は、かれの部隊が我が軍の包囲網によって閉じ
    られたその次の日、この包囲網から脱け出して後方へ、満洲
    へと飛び去った。捕虜となった将校たちが証言していたころ
    によると、表向きは、満洲の奥へとさらに前進して行く我が
    軍に反撃を準備するたであったかもしれないが、じつは、単
    に自分が助かるためだったようだ。
          ・・・
    小松原は、ハルハ河で壊滅した後、ほとんど手中には何も
    なく、大急ぎでかき集められるだけの兵を集めた。すなわち
    鉄道大隊2個、若干のバルガ騎兵、包囲から脱出したどれか
    の連隊の残党、独立警察連隊ーーこれらの手勢をもって、我
    が軍からかなり離れたところに防禦線を敷いた。たぶんその
    頃の実際の力関係を考えてであろうが、それはとても防御と
    は呼べぬ、名ばかりの防禦であった。・・
    かくもわずかな兵力をもって、何倍もの優勢な敵に抗した
    「見事な防禦」という満洲国境の物語は、東京ではもしかし
    て、すこぶる英雄的に見えたかもしれないが、麾下の二個師
    団を、むざむざ絶滅の包囲の中に投げ込んだこのへまな将軍
    は、本当ならば、日本の誠実の概念からすれば、突然勲章な
    ど受けとるかわりに、腹切りをすべきだったのだ。・・・は
    っきりしていることは、日本軍部というものは、その特有の
    精神構造からして、誰が率いる部隊であれ、無防備の前線を
    目の前にして、あえて国境を越えようとしないとか、他国の
    領土に突進したりしないなどということは考えもしないだろ
    う。もしそんなことが考えられないとすれば、誰かがソビエ
    ト・モンゴル軍を阻止したとしなければならなかった。その
    時点で、それをやれたとしたら警察隊と鉄道隊員を率いた小
    松原将軍だけだった。
    一見して説明のつかない、ハルハ河における日本軍司令官
    の軍功のものがたりはこのように見える。(シーシキン他
    『ノモンハンの戦い』田中克彦訳、岩波現代文庫、pp.157-159)

   # 「戦後の辻参謀(元陸軍大佐、辻政信)は狂いもしなければ
  死にもしなかった。いや、戦犯からのがれるための逃亡生活
  が終わると・・・、立候補して国家の選良となっていた。
  議員会館の一室ではじめて対面したとき、およそ現実の人の
  世には存在することはないとずっと考えていた『絶対悪』が、
  背広姿でふわふわとしたソファに坐っているのを眼前に見る
  の想いを抱いたものであった。・・・それからもう何十年も
  たった。この間、多くの書を読みながらぽつぽつと調べてき
    た。
  そうしているうちに、いまさらの如くに、もっと底が深く
    て幅のある、ケタはずれに大きい『絶対悪』が二十世紀前半
    を動かしていることに、いやでも気づかせられた。彼らにあ
    っては、正義はおのれだけにあり、自分たちと同じ精神をも
    っているものが人間であり、他を犠牲にする資格があり、こ
    の精神をもっていないものは獣にひとしく、他の犠牲になら
    ねばならないのである。・・・およそ何のために戦ったのか
    わからないノモンハン事件は、これら非人間的な悪の巨人た
    ちの政治的な都合によって拡大し、敵味方にわかれ多くの人
    々が死に、あっさりと収束した。・・・」
    (半藤一利氏著『ノモンハンの夏』より引用)
 
   ※ この事件での貴重な戦訓(制空権の重要性)が生かされること
    なく大東亜戦争が指導された。過去に学ばない無知無能の関東軍
    であった。

  ★第二次世界大戦勃発(1939年、昭和14年9月1日)
  1939年9月1日ドイツが突然ポーランドに進駐。その後約1年あまりの間
  にドイツはヨーロッパの中央部を殆ど制圧しイギリスとの戦いに入った。
 
  ※われわれはヒトラーやムッソリーニを欧米人なみにののしっ
   ているがそのヒトラーやムッソリーニすら持たずにおなじこ
   とをやった昭和前期の日本というもののおろかしさを考えた
   ことがあるのだろうか。
    (司馬遼太郎氏著『歴史の中の日本』他)
 
  ●アメリカが原爆開発に着手(昭和14年10月)
  「ウラン諮問委員会」を設置した。
   ●「創氏改名」(1939年11月)
    朝鮮民事令改正の名目で「創氏改名」が公布された(翌年2月
    実施)。
    ※ 「おい日本の兵隊、イルボンサラミ(日本人)、あんた
     たちは、何の権利があって私たちの伝統的に何百年も続いた
     朝鮮、朴の名前を、変な日本名の木村に切り替え使わせてい
     るのか!!」
     木村上等兵の朝鮮名は、朴(パク)といった。しかし、
     1940年2月から実施された創氏改名によって、朝鮮人に日本
     式の氏を新しく創り、名乗らせることを事実上強要したの
     である。同年8月までの半年で、全世帯の8割、322万人が創
     氏した。儒教を重んじる朝鮮では、家をとても大切にする。
     創氏改名は、何百年も続いてきた自分の家系、祖先を否定
     される屈辱的な行為だった。
     呆然とするトウタの前で、母親はまくし立てた。
     「これは日本人が、朝鮮人を同じ人間と思っていなかった
     からだろう。バカにしているからだ!!」
     何か言おうとすると、口を利くのも汚らわしいという表情
     でトウタを睨んだ。
     「バカ者、なんで来た!! 絶対に許さない」
     母親はドアをバンと思い切り閉め、それきり出てこなかっ
     た。(神田昌典氏著『人生の旋律』講談社、p.59)
  ●日本軍の毒ガス散布の一例(昭和14年12月16日)
  <尾崎信明少尉の回想記より(嘔吐性ガス『あか』を散布)>
   かくて〔敵陣は〕完全に煙に包まれたのである。四五本
   の赤筒もなくなった。やがて「突っ込め!」と抜刀、着剣
   。しかし、壕の所まで行って私は一瞬とまどった。壕の中
   には敵があっちこっち、よりかかるようにしてうなだれて
   いる。こんなことだったら苦労して攻撃する必要もなかっ
   たのではないか、と錯覚さえしそうな状景だった。しかし、
   次の瞬間「そうだ、煙にやられているんだ。とどめを刺さ
   なきゃ」と、右手の軍刀を横にして心臓部めがけて...。
   グーイと動いた、分厚い綿入れを着ており、刀ごと持って
   行かれそうな感触。「みんなとどめを刺せ!」
  (中略)遂に敵は全員玉砕と相成った。
  (吉見義明氏著『毒ガス戦と日本軍』岩波書店、p.86-87)
 
◎1940年(昭和15年)から1945年(昭和20年、大東亜戦争終結)まで
  ★第二次世界大戦におけるナチス・ドイツの攻勢(1940年最初の半年)
  ドイツ機甲師団とそれを率いるグデーリアンの活躍。
  ナチス・ドイツがノルウェー・デンマークを占領(4月)、西部戦線で
  の戦端を開き(5月)フランス、オランダ、ベルギー、ルクセンブルクに
  進攻。パリ陥落(6月24日)。イギリスの苦境。
 
  ※ これらの欧州大戦は、日本の指導者たちの目には、日本の
   東南アジア進出を正当化し「東亜新秩序」から「大東亜共栄
   圏」拡大構想推進の千載一遇のチャンスと見えた。またアメ
   リカが対日全面禁輸の措置にでるまえに東南アジアの資源を
   確保する必要があった。
       **********   **********
   ※さてサケットの尋問は、「木戸日記」の記述に沿って、日本
    の南部仏印進駐、独ソ戦開始をめぐる問題をへて、1941年7月
   2日の御前会議へとたどりつく。この御前会議は、陸海軍の
    方針を基本的に受け入れた「情勢の推移に伴ふ帝国国策要綱」
    を原案どおりに決定したもので、その核心は要するに、第一
    に南進政策の実現のためには「対英米戦を辞せず」の方針を、
    第二に「独『ソ』戦争の推移帝国の為め有利に進展せば武力
    を行使して北方問題を解決」するとの方針を、最高国策とし
    て決定したことにあった。つまり対米兵戦と対ソ戦をどちら
    でも行うよう準備するという「南北併進」政策が国家意思と
    して設定されたのである。(粟屋憲太郎氏著『東京裁判への
    道<上>』講談社、p.136)

  ●日米通商航海条約破棄(昭和15年1月26日)
   日本は軍事用を主とする物資の入手が困難となった。それに
  よる不利を補うため、日本は資源の豊富な仏領インドシナに注
  目。フランスとの軋轢を生んだ(北部仏印への強行進駐(S15.
  9.23)、南部仏印へ進駐(S16.7.28))、
  ●南京に汪兆銘政府成立(昭和15年3月30日)
   日本が蒋介石と決別したあと、いちるの和平への望みをもっ
  て王兆銘をかつぎだし、国民政府の正統であることを誇示する
  ように青天白日旗を戴いて成立させた。
   この政府は陸軍中央部に巣食っていた中国蔑視の考えに、日
  中和平論者の影佐禎昭参謀本部第八課長らが抵抗するかたちで
  作られたが、基盤は明らかに脆弱だった。また王兆銘自らも行
  動原則や行動理念のない言行不一致の政治家だった。
  ●満州への定住者約86万人(昭和15年)
  ●日本がウラン爆弾に「ニ号研究」として取り組みはじめた。
       (昭和15年3月)
   しかしこの研究は、日本ではあまりにも課題山積で荒唐無稽
  の試みに近かった。海軍の原爆研究は「F研究」とよばれ昭和
  15年8月に始まった が、戦状逼迫にてたち切れとなった。昭和
  天皇の強い嫌悪もあった。
  ●天才的暗号解読家のフリードマンは、数学的正攻法で97式印字
  機の模造機を作成、日本外務省電報を悉く解読した。このとき
  以来日本の外交機密はアメリカへ筒抜けになった(1940年夏)。
  また日本海軍の戦略暗号も1942年春に破られた。
  ●日本軍が北部仏印に進駐(昭和15年9月23日)
   富永恭次と佐藤賢了の軍紀違反による横暴。
   昭和陸軍"三大下剋上事件"の一つ。(他は満州事変、ノモン
   ハン事件)
  ●「日独伊三国軍事同盟」締結(昭和15年9月27日)
  ※ 近衛内閣、松岡洋右外相の電撃的(国家の暴走)締結。
   松岡洋右は日独伊にソ連を含めた四国軍事同盟締結を目論
   でいたが、ヒトラーとソ連の対立が根強く、実現ははじめか
   ら不可能であった。またヒトラーは三国軍事同盟を、対ソ作
   戦の礎石と考えていた。
  ※ 過去、平沼・阿部・米内の三内閣はこの締結を躊躇して倒
   れていた。(当時、陸(海)軍は陸(海)軍大臣を辞職させ、
   その後任候補を差し出すことを拒否してその内閣を総辞職に
   追い込んだり、新内閣の陸(海)軍相候補を差し出すことを
   拒否して内閣成立を阻止したりすることができた。総理大臣
   は法的に全く無力であった)。
  ●日本軍の中国に対する熾烈な毒ガス攻撃と効力試験(1940年8月)
   (吉見義明氏著『毒ガス戦と日本軍』岩波書店、p.111-132)
  ●日本軍の中国に対するペスト攻撃(状況証拠のみしかないが...)
   ○1940.10.4 :淅江省ツーシンへ。腺ペスト蔓延が24日続き
    21名死亡。
   ○1940.10.27:淅江省寧波(ニンポー)へ。34日続き100名
    死亡。
   ○1940.11.28:淅江省金華(キンホウ)へ。
   ○1941.11.4 :湖南省常徳(チャントウ)へ。11歳少女が
   腺ペスト発症
   (エド・レジス氏著『悪魔の生物学』、
      柴田恭子訳、河出書房新書)
  ●「三光政策(作戦)」(殺しつくし、奪いつくし、焼きつくす政策)
    南京大虐殺が、日本軍の組織的犯罪であるとされるのは、捕虜
   の大量殺害があるからだが、それ以上に、一般民衆にたいする虐
   殺として問題なのは三光作戦である。中国共産党とその軍隊であ
   る八路軍が、日本軍の戦線の背後に浸透して解放区、遊撃区を作
   り上げたのにたいして、日本軍とくに華北の北支那方面軍は、
   1941年ごろから大規模な治安粛正作戦を行なった。これは日本軍
   自らが、燼滅掃蕩作戦(焼きつくし、滅ぼしつくす作戦)と名づ
   けたことでも示されるように、抗日根拠地を徹底的に破壊焼却し、
   無人化する作戦であった。実際に北支那方面軍は、広大な無人地
   帯を作ることを作戦目的に掲げている。中国側はこれを「三光政
   策」(殺しつくし、奪いつくし、焼きつくす政策)と呼んだので
   ある。三光作戦は、南京大虐殺のような衝撃的な事件ではないが、
   長期間にわたり、広大な地域で展開されたので、虐殺の被害者数
   もはるかに多くなっている。(藤原彰氏著『天皇の軍隊と日中戦
   争』大月書店、pp.18-19)

  ★ 無謀な戦争に最後まで反対していた米内光政海相、海軍次官山本五十
  六中将、軍務局局長井上成美少将、教育局長高木惣吉、衆議院議員斉藤
  隆夫氏の名前を忘れないでおきたい。
  ※ 井上成美
   「軍人の本分は国民を守ることにある。そして将たる者は、
   部下を大勢死なせてまで戦果を求めるべきでない」
   (加野厚志氏著『反骨の海軍大将 井上成美』より)
   協力しあって最後の最後まで戦争早期終結を望んでいた海軍
   大臣米内光政とは、「最後に護るべきもの」が違ったため、袂
   を分かった。
  ※ 斎藤隆夫(立憲民政党代議士、兵庫県但馬選挙区)
  (昭和15年2月2日、第75帝国議会、午後3時〜4時30分 
     『支那事変の処理方針に関する質問演説』)
   「・・・ただいたずらに聖戦の美名に隠れて、国民的犠牲を
   閑却し、曰く国際正義、曰く道義外交、曰く共存共栄、曰く世
   界の平和、かくのごとき雲をつかむような文字を並べたてて、
   そうして千載一遇の機会を逸し、国家百年の大計を誤るような
   ことがありましたならば、現在の政治家は死してもその罪を滅
   ぼすことはできない。・・」
   (『20世紀、どんな時代だったのか』(戦争編、日本の戦争)
    読売新聞社編より引用)(当時、米内光政内閣)
  ※ 山本五十六
   「そのすぐれた見識から、米英との戦争には絶対反対し、そ
   れがいれられなくなると国家の将来を知りながらも、こんどは
   国家の運命を双肩に担って立たなければならなかった大将の心
   事は、私ごときが筆紙に尽くすことは、とうていできないこと
   である」。
   (星亮一氏著『戦艦「大和」に殉じた至誠の提督 伊藤整一』)
 
  ★「大政翼賛」への道:1940年後半は日本がひたすら堕落してゆく時代だ
  った。全政党が解党、日本から政党が消えた。(昭和15年8月15日)
  1940年1月中旬に米内内閣組閣時、既成政党所属の多数の議員と
  小会派所属の議員は、こぞって自分たちの党を解散して、陸軍と
  協力して新しい大衆政党を結成しようという雰囲気に満ちあふれて
  いた。(既成政党の内部分裂と小政党乱立が背景)。
  ※ 新体制促進同志会
   個人主義・民主主義・議員内閣・多数決原理・自由主義
   ・社会主義を弾劾して報国倫理の確立と指導原理の信奉を
   要求した。
  ※ ただし、政党の正式解散後にもその指導者たちの影響力
   は一貫して存続した。つまり彼等は戦争中にも、非政党エ
   リートや右翼や政党内反主流派などの攻撃から身を守り、
   終戦時には国政に参加する準備が出来上がっていた。これ
   は戦中政治の際立った特徴である。
  ※ 新体制準備会(1940年、昭和15年8月28日、近衛内閣)
   「世界情勢に即応しつつ能く支那事変の処理を完遂する
   と共に、進んで世界新秩序の建設に指導的役割を果たすた
   めには、国家国民の総力を最高度に発揮して、この大事業
   に集中し、如何なる事態が発生するとも、独自の立場にお
   いて迅速果敢、且つ有効適切にこれを対処し得るよう、高
   度国防国家の体制を整えねばならぬ。而して高度国防国家
   の基礎は、強力なる国家体制にあるのであって、ここに政
   治、経済、教育、文化等あらゆる国家国民生活の領域にお
   ける新体制確立の要請があるのである。
   ・・・今我国が、かくの如き強力なる国内新体制を確立
   し得るや否やは、正に国運興隆の成否を決定するものと言
   わねばならぬ」 ( 詳しくは、ゴードン・M・バーガー著
   『大政翼賛会』、坂野閏治訳、山川出版社、PP.211〜221)
   (ただし、この近衛の新政治体制への熱意は、支那事変早
   期解決が絶望となって以来、戦時経済統制体制に世論を
   統一し、皇室と国家に対する国民の一体感を強め、体制
   エリートの諸集団が戦時動員に不可欠と考えたいかなる
   政策をも遂行するための手段として、新体制を発展させ
   ることだけになった)。
 
  <希代の政治家、斎藤隆夫氏の(近衛文麿への)非難(1)>
  帝国憲法は日本臣民に向って結社の自由を許して居る。
  此の由由は何ものの力を以てするも剥奪することは出
  来ない。政党は此の難攻不落の城壁を有し、其の背後に
  は政民両党共に三百余万の党員を控え、更に其の背後に
  は国民も亦之を監視して居る。凡そ政治上に於て是れ程
  強い力はなく、政党は実に此の強い力を握って居る。尚
  其の上に此の戦争は前記幕末維新の戦争の如く、戦えば
  江戸を焦土と化し、多数の人命、財産を損する如きもの
  ではなく、是とは全然反対に、憲法上に与えられたる全
  国民の自由擁護を目的とする堂々たる戦争である。
  然るに此の政治上の戦いに当たりて、政民両党は何を
  なしたか。戦えば必ず勝つ。而も其目的は国民の自由を
  擁護すべき堂々たる聖戦であるに拘らず、敢然起って戦
  うの意気なく、却って降伏に後れぎらんことを惧れて六
  十年の歴史をなげうち、国民の失望を無視して我れ先き
  にと政党の解消を急ぐに至りては、世界文明国に其の類
  例を見ざる醜態である。
 
  ●大政翼賛会発足(昭和15年10月12日発会式)
   政党が解消されて、戦争にたいする異論(反対論)が完全に封じ
  られてしまった。
  ※ 「近衛の構想の新体制」は「政治性」が取り除かれ、
   それに伴う近衛の変節とともに、国民精神動員運動を
   主軸とする運動に変化して発展することになった。そ
   こで新体制準備会で用意されていた「中核体」(総理
   大臣への顧問組織であり、職能・文化組織推進機関)
   は『大政翼賛会』、国民運動は「大政翼賛運動」と呼
   ばれるようになった。
  ※ 「国民の歌」としての指定
   『海行かば水づく屍山行かば草むす屍大君の辺にこ
      そ死なめかえりみはせじ』
  ※ 陸軍は翼賛会の地方活動を支配するために、「中核
   体」が持つ可能性に大きな期待をかけていた。また海
   軍も他の諸集団(例えば日本青年党(橋本欣五郎)、
   東方会(中野正剛)、青年団・壮年団(後藤隆之助)、
   産業組合(有馬頼寧))も大政翼賛運動の中心的存在
   になることを熱望した。(内務官僚と名望家の反発)
  ※ 内務省は翼賛会府県支部の設立にあたって、知事の
   優越的役割を確保した。さらに内務省は町村にその官
   僚的支配を伸張し翼賛会下部組織の確立によって部落
   会や町内会の指導権を確保しようと躍起になった。
      (陸軍と内務省の衝突)
  ※ 翼賛会議会局への参加を拒否したのは、鳩山派と
   社会大衆党社民派のみであった。
  ※ 大政翼賛会は内閣・議会・軍部の関係に何の変化も
   もたらさなかった。これは大政翼賛会に関して最も驚
   くべき点である。
 
 <希代の政治家、斎藤隆夫氏の(近衛文麿への)非難(2)>
   次は大政翼賛会である。浅薄なる革新論から出発して、
  理論も実際も全く辻褄の合わざる翼賛会を設立し、軍事
  多端なる此の時代に多額の国費を投じて無職の浪人を収
  容し、国家の実際には何等の実益なき空宣伝をなして、
  国民を瞞着して居るのが今日の翼賛会であるが、之を設
  立したる発起人は疑いもなく近衛公である。其の他のこ
  とは言うに忍びないが、元来皇室に次ぐべき門閥に生れ、
  世の中の苦労を嘗めた経験を有せない貴公子が自己の能
  力を顧みず、一部の野心家等に取巻かれて国勢燮理(治
  める)の大任に当るなど、実に思わぎるの甚だしきもの
  である。是が為に国を誤り実毒をのこす。其の罪は極め
  て大なるものがある。
 
   <軍隊というのはカルト教団だ>
   (古山高麗雄『人生、しょせん運不運』草思社)
   あのみじめな思いは憶えています。軍隊では、人は人
  間として扱われません。そこには権力者が決めた階級が
  あるだけで、戦後は、人権がどうの差別がどうのと言う
  ようになりましたが、そんなことを言ったら軍隊は成り
  立たない。福沢論吉は、天は人の上に人を作らず、人の
  下に人を作らず、と言いましたが、とんでもない、わが
  国の権力者は天ではないから、人の上に人を作り、人の
  下に人を作りました。
  彼らは天皇を現人神と思うように国民を教育し、指導
  しました。その言説に背く者は、不敬不忠の者、非国民
  として罰しました。
  階級や差別のない社会や国家はありません。天皇が日
  本のトップの人であることは、それはそれでよく、私は
  いわゆる天皇制を支持する国民の一人です。けれども、
  アラヒトガミだの、天皇の赤子だのというのを押しつけ
  られるとうんざりします。・・・
  軍隊というのは、人間の価値を階級以上に考えること
  がなく、そうすることで組織を維持し、アラヒトガミだ
  のセキシだのというカルト教団の教義のような考え方で
  国民を統制して、陸海軍の最高幹部が天皇という絶対神
  の名のもとにオノレの栄達を求めた大組織でした。(p80)
     ・・・
  あのころ(鳥越注:昭和10年代)のわが国はカルト教
  団のようなものでした。あの虚偽と狂信には、順応でき
  ませんでした。思い出すだに情けなくなります。自分の
  国を神国と言う、世界に冠たる日本と言う。いざという
  ときには、神国だから、元寇のときのように神風が吹く
  と言う。アラヒトガミだの、天皇の赤子だのと言う。祖
  国のために一命を捧げた人の英霊だの、醜の御楯だのと
  言う。今も、戦没者は、国を護るために命を捧げた英霊
  といわれている。
  しかし、何が神国ですか、世界に冠たる、ですか。神
  風ですか。カルト教団の信者でもなければ、こんな馬鹿
  げたことは言いませんよ。・・・
  戦前(鳥越注:大東亜戦争前)は、軍人や政府のお偉
  方が、狂信と出世のために多数の国民を殺して、国を護
  るための死ということにした。日本の中国侵略がなぜ御
  国を護ることになるのかは説明できないし、説明しない。
  そこにあるのは上意下達だけで、それに反発する者は、
  非国民なのです。
  やむにやまれぬ大和魂、などと言いますやなにが、やむ
  にやまれぬ、ですか。軍人の軍人による軍人のための美化
  語、あるいは偽善語が、国民を統御し、誘導し、叱咤する
  ためにやたらに作られ、使われました。八紘一字などとい
  う言葉もそうです。中国に侵略して、なにが八紘一宇です
  か。統計をとったわけではありませんから、その数や比率
  はわかりませんが、心では苦々しく思いながら調子を合わ
  せていた人も少なくなかったと思われますしかし、すすん
  であのカルト教団のお先棒を担いで、私のような者を非国
  民と呼び、排除した同胞の方が、おそらくは多かったので
  はないか、と思われます。(p106)
 
  ★1941年(昭和16年)、大東亜戦争(太平洋戦争)勃発にいたるまで
  ●東条英機が軍内に「戦陣訓」を発する(昭和16年1月)。
   東条は一国を指導する器ではなかった。それどころか関
  東軍参謀長すらもまともに務まらない資質しかもっていな
  かった。卑しく臆病で嫉妬心が強く、権威主義的な男であ
  った。
        戦陣訓
         序
     夫れ戦陣は、大命に基き、皇軍の神髄を發揮し、攻
    むれば必ず取り、戦へば必ず勝ち、遍く皇道を宣布し、
    敵をして仰いで御稜威の尊厳を感銘せしむる虞なり。
    されば戦陣に臨む者は、深く皇國の使命を體し、堅く
    皇軍の道義を持し、皇國の威徳を四海に宣揚せんこと
    を期せざるべからず。
     惟ふに軍人精紳の根本義は、畏くも軍人に賜はりた
    る勅論に炳乎として明かなり。而して戦闘茲に訓練等
    に關し準據すべき要綱は、又典令の綱領に教示せられ
    たり。然るに戦陣の環境たる、兎もすれば眼前の事象
    に捉はれて大本を逸し、時に共の行動軍人の本分に戻
    るが如きことなしとせず。深く慎まざるべけんや。乃
    ち既往の経験に鑑み、常に戦陣に於て勅論を仰ぎて之
    が服行の完璧を期せむが為、具體的行動の憑據を示し、
    以て皇軍道義の昂揚を圖らんとす。是戦陣訓の本旨と
    する所なり。
       「第七 死生観」
     死生を貫くものは崇高なる献身奉公の精神なり。生
    死を超越し一意任務の完遂に邁進すべし。身心一切の
    力を盡くし、従容として悠久の大義に生くることを悦
    びとすべし。
       「第八 名を惜しむ」
     恥を知る者は強し。常に郷党家門の面目を思ひ愈々
    奮励して其の期待に答ふべし。生きて虜囚の辱を受け
    ず、死して罪禍の汚名を残すこと勿れ。

   ※ 死を恐れるな、従容として死に赴く者は大義に生き
    ることを喜びとすべきである、というのであった。日
    本軍の兵士は、「大義に生きる」という死生観を理想
    としたのである。しかしここでつけ加えておかなけれ
    ばならないのは、陸軍の上層部や指導部に属していた
    者のほうがこのような死生観をもっていなかったとい
    うことだ。たとえば、この戦陣訓を軍内に示達した当
    の東條英機は、戦争が終わったときも責任をとって自
    決していないし、あろうことか昭和二十年九月十一日
    にGHQ(連合国軍稔司令部)の将校が逮捕にきたときに
    あわてて自決(未遂)を試みている。東條のこの自決
    未遂は二重の意味で醜態であった。・・(中略)・・
    「名を惜しむ」にあるのは、捕虜になって屈辱を受
    けるようなことがあってはならない、生を惜しんでの
    みっともない死に方はその恥をのこすことになるとい
    う教えであり、故郷や家族の面子を考えるようにとの
    威圧を含んでいた。これもまた兵士たちには強要して
    いながら、指導部にいた軍人たちのなかには虜囚の辱
    めを受けるどころか、敗戦後はGHQにすり寄り、その
    戦史部に身を置き、食うや食わずにいる日本人の生活
    のなかで並み外れた優雅な生活をすごした中堅幕僚た
    ちもいた。
    戦陣訓の内容は、兵士には強要されたが指導部は別
    格であるというのが、昭和陸軍の実態でもあった。私
    は、太平洋戦争は日本社会を兵舎に仕立てあげて戦わ
    れてきたと考えているが、その伝でいうなら、この戦
    陣訓は兵士だけでなく国民にも強要された軍事指導者
    に都合のいい〈臣民の道〉であった。(保阪正康氏著
    『昭和史の教訓』朝日新書、pp.199-203より抜粋)

  ●日ソ中立条約締結(昭和16年4月13日)
   これによりソビエトは実質的には満州国を承認。スター
  リンの中国軽視は毛沢東のスターリンへの不信感を高めた。
  さらにアメリカも強い不快感を持ち、ソビエトとの経済交
  流を中止し、ルーズベルトは重慶政府(蒋介石)へP-40戦
  闘機100機を提供した。
  ●米大統領が国家非常事態宣言、アメリカが臨戦態勢に入る。
      (昭和16年5月)
  ●独ソ戦開始(昭和16年6月22日)
   独ソ戦は日ソ中立条約のみならず、日独伊三国同盟の意
  義すらも、根本的に打ち砕くものであった。
  ●日本は関東軍特種演習(関特演)の名の下に約70万人の大
  軍を満州に集結(昭和16年7月2日)。
  ●日本軍が南部仏印に進駐(昭和16年7月28日)
   軍事的には無血占領であったが、政治的には陸軍の見通
  しの甘さが浮き彫りになっただけで、ここですでに敗戦な
  のだった。また日米開戦の「ポイント・オブ・ノーリター
  ン」を形成したといえるだろう。
  ●アメリカ対日石油輸出全面禁止、在米の日本資産凍結。
       (昭和16年8月1日)
        <軍令部総長、永野修身の上奏>
    こうした禁輸措置のあとに、南部仏印進駐の主導者たち
   はすっかり混乱している。軍令部総長の永野修身は、アメ
   リカが石油禁輸にふみきる日(八月一日)の前日に、天皇
   に対米政策について恐るべき内容を伝えている。
    「国交調整が不可能になり、石油の供給源を失う事態
    となれば、二年の貯蔵量しかない。戦争となれば一年半
    で消費しつくすから、むしろ、この際打って出るほかは
    ない」と上奏しているのだ。天皇は木戸幸一に対して、
    「つまり捨鉢の戦争をするということで、まことに危険
    だ」と慨嘆している。(保阪正康氏著『昭和史の教訓』
    朝日新書、p.215)
  ●中国、宜昌にて日本軍が大量の毒ガス攻撃
     (昭和16年10月7日〜11日)
   催涙ガス(クロロピクリン、クロロアセトフェノン)、
  嘔吐性ガス(アダムサイト)、イペリット、ルイサイト、
  青酸ガス、ホスゲンなどを使った悪魔どもの悪あがきの
  ヤケクソ攻撃だった。
  (吉見義明氏著『毒ガス戦と日本軍』岩波書店、p.134-144)
  ●大本営政府連絡会議(昭和16年10月4日)
   近衛文麿が内閣を投げ出した。
   「軍人はそんなに戦争が好きなら、勝手にやればいい」。
 (保阪正康氏著『あの戦争は何だったのか』新潮新書、p.85)
   ●「対米英蘭戦争終末促進ニ関スル腹案」(昭和16年11月16日
   大本営政府連絡会議、石井秋穂・藤井茂原案):戦争終結へ
   の発想はお粗末な現実認識とともに無責任で他力本願(ドイ
   ツ・イタリア頼み)だった。
    一 方針(略)
    二 日独伊三国協力シテ先ツ英ノ屈伏ヲ図ル
    (一)帝国ハ左ノ諸方策ヲ執ル
      (イ)濠洲印度二対シ政略及通商破壊等ノ手段
        二依り英本国トノ連鎖ヲ遮断シ其ノ離反
        ヲ策ス
      (ロ)「ビルマ」ノ独立ヲ促進シ其ノ成果ヲ利
        導シテ印度ノ独立ヲ刺戟ス
    (二)独伊ヲシテ左ノ諸方策ヲ執ラシムルニ勉ム
      (イ)近東、北阿、「スエズ」作戦ヲ実施スル
        ト共ニ印度二対シ施策ヲ行フ
      (ロ)対英封鎖ヲ強化ス
      (ハ)情勢之ヲ許スニ至ラハ英本土上陸作戦ヲ
        実施ス
    (三)三国ハ協力シテ左ノ諸方策ヲ執ル
      (イ)印度洋ヲ通スル三国間ノ連絡提携二勉ム
      (ロ)海上作戦ヲ強化ス
      (ハ)占領地資源ノ対英流出ヲ禁絶ス
    三 日独伊ハ協力シテ対英措置卜並行シテ米ノ戦意ヲ喪
     失セシムルニ勉ム
    (一)帝国ハ左ノ諸方策ヲ執ル
      (イ)比島ノ取扱ハ差シ当り現政権ヲ存続セシ
        ムルコトトシ戦争終末促進二資スル如ク
        考慮ス
      (ロ)対米通商破壊戦ヲ徹底ス
      (ハ)支那及南洋資源ノ対米流出ヲ禁絶ス
      (ニ)対米宣伝謀略ヲ強化ス
       其ノ重点ヲ米海軍主力ノ極東ヘノ誘致竝
       米極東政策ノ反省卜日米戦無意義指摘ニ置
       キ米国輿論ノ厭戦誘致二導ク
      (ホ)米濠関係ノ離隔ヲ図ル
    (二)独伊ヲシテ左ノ諸方策ヲ執ラシムルニ勉ム
      (イ)大西洋及印度洋方面ニ於ケル対米海上攻
        勢ヲ強化ス
      (ロ)中南米ニ対スル軍事、経済、政治的攻勢
        ヲ強化ス
    (保阪正康氏著『昭和史の教訓』朝日新書、pp.226-227)

  ●東条内閣成立(昭和16年10月18日、第三次近衛内閣総辞職)
  「生きて虜囚の辱めを受けず、死して罪禍の汚名を残すこ
  となかれ」(よくもこんな発想ができたものだ。悪魔の内
  閣としか表現のしようがない)。
  ※ 中島昇大尉(BC級戦犯、死刑判決)の述懐
      (昭和21年6月)
   捕虜になると国賊扱いにする日本国家のあり方が、外
   国捕虜の残虐へと発展したのではないでしょうか。捕虜
   の虐待は日本民族全体の責任なのですから個人に罪をか
   ぶせるのはまちがっていませんか。・・・私は国家を恨
   んで死んで行きます」。
  ●通称「ハル・ノート」(平和解決要綱)が日本側に手渡さ
  れた。(昭和16年11月26日)
   中国や南方地方からの全面撤退、蒋介石政府の承認、汪
  兆銘政府の不承認、三国同盟の形骸化が主たる項目で昭和
  に入っての日本の歴史を全て白紙に戻すという内容だった。
       (--->日米開戦へ)
  ●昭和16年12月1日、この年5回目の御前会議(日米開戦の
  正式決定)
   日米交渉を続けながら、戦備も整える。しかし11月29日
  までに交渉が不成立なら、開戦を決意する。その際、武力
  発動は12月初頭とする。
   東条にとっては、国家とは連隊や師団と同じであり、国
  民は兵舎にいる兵士と同じだった。
 
 <重松譲(当時ワシントン駐在武官(海軍))の証言>
  「あのバカな戦の原因はどこにあるか。それは陸軍が
  ゴリ押しして結んだ三国同盟にある。さらに南部仏印進
  駐にある。私は、日本が三国同盟を結んだ時、アメリカ
  にいたのだが、アメリカ人が不倶戴天の敵に思っている
  ヒトラーにすり寄った日本を、いかに軽蔑したか、よく
  わかった。その日本がアメリカと外交交渉をしたところ
  で、まとまるわけはなかったんだ」。
  「陸軍にはつねに政策だけがあった。軍備はそのため
  に利用されただけだ」
  (保阪正康氏著『昭和陸軍の研究<上>』より孫引き)

  <「木戸日記」の存在>
   ともかく提出された日記は、天皇を頂点とした昭和政
   治史の中枢を検証する第一級の政治資料であった。法廷
   では、検察側の天皇免責の方針によって、天皇の言動に
   関する記述は、いっさい活用されなかった。しかし素直
   に日記を読めば、太平洋戦争開戦にいたる道は、天皇と、
   木戸など天皇側近の主体的決断という要因を入れなけれ
   ば、歴史的に説明がつかないことは明らかだ。
   (粟屋憲太郎氏著『東京裁判への道<上>』講談社、p.113)

  ※腰ぬけ知識人だらけの国
   戦中の知識人の多くは、飢えと暴力が支配する状況
   下で、自分の身を守るために、迎合や密告、裏切りな
   どに手を染めた。積極的に戦争賛美に加担しなかった
   としても、ほとんどすべての知識人は、戦争への抗議
   を公言する勇気を欠いていた。
   こうした記憶は、「主体性」を求める戦後思想のバ
   ネになったと同時に、強い自己嫌悪と悔恨を残した。
   たとえば、法政大学教授だった本多顕彰は、戦中をこ
   う回想している。
 
   それにしても、あのころ、われわれ大学教授は、
   どうしてあんなにまで腰ぬけだったのであろう。
   なかには、緒戦の戦果に狂喜しているというような
   単純な教授もいたし、神国日本の威力と正しさを信
   じてうたがわない教授もいるにはいた。……けれど
   も、われわれの仲間には戦争の謳歌者はそうたくさ
   んにはいなかったはずである。だのに、われわれは、
   学園を軍靴が蹂躙するにまかせた。……〔軍による〕
   査察の日の、大学教授のみじめな姿はどうだったろ
   う。自分の学生が突きとばされ、けられても、抗議
   一ついえず、ただお追従笑いでそれを眺めるだけで
   はなかったか。……
   ……心の底で戦争を否定しながら、教壇では、尽
   忠報国を説く。それが学者の道だったろうか。真理
   を愛するものは、かならず、それとはべつの道をあ
   ゆまねばならなかったはずである。真に国をおもい、
   真に人間を愛し、いや、もっとも手ぢかにいる学生
   を真に愛する道は、べつにあったはずである。……
   反戦を結集する知恵も、反戦を叫ぶ勇気も、ともに
   欠けていたことが、われわれを不幸にし、終生の悔
   いをのこしたのである。
 
   こうした「悔恨」を告白していたのは、本多だけで
   はなかった。
   南原繁は、学徒出陣で大学を去っていった学生たち
   を回想しながら、こう述べている。「私は彼らに『国
   の命を拒んでも各自の良心に従って行動し給え』とは
   言い兼ねた。いな、敢えて言わなかった。もし、それ
   を言うならば、みずから先に、起って国家の戦争政策
   に対して批判すべきべきであった筈である。私は自分
   が怯懦で、勇気の足りなかったことを反省すると同時
   に、今日に至るまで、なおそうした態度の当否につい
   て迷うのである」。
  (小熊英二氏著氏著『<民主>と<愛国>』新曜社、
       pp177-178)
  ※ 歴史的意思の欠落
   日本は真に戦争か和平かの論議を論議を行ったとい
   えるだろうか。
   ・・・日本がアメリカとの戦争で「軍事的勝利」を
   おさめるとはどういう事態をさすのか。その事態を指
   導者たちはどう予測していたのだろうか。まさかホワ
   イトハウスに日章旗を立てることが「勝利」を意味す
   るわけではあるまい。・・・実際に戦争の結末をどう
   考えていたかを示す文書は、真珠湾に行きつくまでの
   プロセスでは見当たらない。
   ・・・強いていえば、11月15日の大本営政府連絡会
   議で決まった「対米英蘭戦争終末促進ニ関スル腹案」
   というのがこれにあたる。
   ・・・日本は極東のアメリカ、イギリスの根拠地を
   覆滅して自存自衛体勢を確立し、そのうえで蒋介石政
   府を屈服させるといい、イギリスはドイツとイタリア
   で制圧してもらい、孤立したアメリカが「継戦の意思
   なし」といったときが、この戦争の終わるときだとい
   う。この腹案を読んだとき、私は、あまりの見通しの
   甘さに目を回した。ここに流れている思想は、すべて
   相手の意思にかかっているからだ。あるいは、軍事的
   に制圧地域を広げれば、相手は屈服するとの思いこみ
   だけがある。
   日本がアジアに「自存自衛体勢を確立」するという
   が、それは具体的にどういうことだろうか。自存自衛
   体勢を確立したときとは一体どういうときか。アメリ
   カ、イギリスがそれを認めず、半永久的に戦いを挑ん
   できたならば日本はどう対応するつもりだろうか。蒋
   介石政府を屈服させるというが、これはどのような事
   態をさすのだろうか。ドイツとイタリアにイギリスを
   制圧してもらうという他力本願の、その前提となるの
   はどのようなことをいうのだろうか。しかし、最大の
   問題はアメリカが「継戦の意思なし」という、そのこ
   とは当のアメリカ政府と国民のまさに意思にかかって
   いるということではないか。・・
   私は、こういうあいまいなかたちで戦争に入ってい
   った指導者の責任は重いと思う。こんなかたちで戦争
   終結を考えていたから、3年8か月余の戦争も最後には
   日本のみが「継戦」にこだわり、軍事指導者の面子の
   みで戦うことになったのではないかと思えてならない
   のだ。
   ・・・真珠湾に行きつくまでに、日本側にはあまり
   にも拙劣な政策決定のプロセスがある。・・・戦争と
   いう選択肢を選ぶなら、もっと高踏的に、もっと歴史
   的な意義をもって戦ってほしかったと思わざるをえな
   い。(保阪正康氏著『昭和陸軍の研究<上>』pp.334-)
 
  ※ そしてもう一つ押さえておかなければならないことがある。
   実は、本当に太平洋戦争開戦に熱心だったのは、海
   軍だったということである。
   そこには、「ワシントン軍縮条約」体制のトラウマ
   があった。1922(大正11)年、ワシントン会議におい
   て軍艦の保有比率の大枠をアメリカ5、イギリス5、日
   本3、と決められてしまった。その反発が海軍の中で
   ずっと燻り続け、やがてアメリカ、イギリスを仮想敵
   国と見なしていったのである。昭和9年に加藤寛治海
   軍大将らの画策で、ワシントン条約の単独破棄を強引
   に決めて、その後、一気に「大艦巨砲」主義の道を突
   き進んでいく経緯があった。対米英戦は、海軍の基本
   的な存在理由となっていた。
   またその後も、海軍の主流には対米英強硬論者が占
   めていく。特に昭和初年代に、ちょうど陸軍で「統制
   派」が幅を利かせていった頃、海軍でも同じように、
   中堅クラスの幹部に多く対米英好戦派が就いていった
   のだ。「三国同盟」に反対した米内光政や山本五十六
   、井上成美などは、むしろ少数派であった。
   私が見るところ、海軍での一番の首謀者は、海軍省
   軍務局にいた石川信吾や岡敬純、あるいは軍令部作戦
   課にいた富岡定俊、神重徳といった辺りの軍官僚たち
   だと思う。
   特に軍務局第二課長の石川は、まだ軍縮条約が守ら
   れていた昭和8年に、「次期軍縮対策私見」なる意見
   書で「アメリカはアジア太平洋への侵攻作戦を着々と
   進めている。イギリス、ソ連も、陰に陽にアメリカを
   支援している。それに対抗し、侵略の意図を不可能に
   するには、日本は軍縮条約から脱退し、兵力の均等を
   図ることが絶対条件」と説いていた。いわば対米英強
   硬論の急先鋒であった。また弁が立ち、松岡洋右など
   政治家とも懇意とするなど顔が広かった。その分、裏
   工作も達者であった。
   そして他の岡、富岡、神も、同じようにやり手の過
   激な強硬論者であった。
   昭和15年12月、及川古志郎海相の下、海軍内に軍令、
   軍政の垣根を外して横断的に集まれる、「海軍国防政
   策委員会」というものが作られた。会は4つに分けられ
   ており、「第一委員会」が政策、戦争指導の方針を、
   「第二委員会」は軍備、「第三委員会」は国民指導、
   「第四委員会」は情報を担当するとされた。以後、海
   軍内での政策決定は、この「海軍国防政策委員会」が
   牛耳っていくことになる。中でも「第一委員会」が絶
   大な力を持つようになつていった。この「第一委員会」
   のリーダーの役を担っていたのが、石川と富岡の二人
   であった。「第一委員会」が、巧妙に対米英戦に持っ
   ていくよう画策していたのである。(保阪正康氏著
   『あの戦争は何だったのか』新潮新書、pp.87-88)
 
  ★大東亜戦争勃発(太平洋戦争、昭和16(1941).12.8〜20年(1945).8.15)
   ※開戦の原動力となった中心的悪魔ども
    近衛文麿(東条の前の無責任首相)
    東条英機、木戸幸一(「銀座の与太者」、東条を首
    相に推薦)
     # 東条英機の与太弁
      ・「戦争が終わるとは平和になったとき」
      ・「畢竟戦争とは精神力の戦いである。負
       けたと思ったときが負けである」
       (筆者注:H14年から5年の長きに亘って
       首相の座にあり日本をさらにボロボロにし
       た、小泉某によく似ているではないか)。
    陸軍省軍務局(武藤章(局長)、佐藤賢了(軍事課長))
    陸軍参謀本部(田中新一)
    星野直樹(東条内閣書記官長)
    岡敬純・長野修身(海軍)
    石原広一郎(民間、南進運動に積極的)
    (粟屋憲太郎氏著『東京裁判への道<上>』講談社、
     pp.224-230)
   ※「大東亜の地域」:おおむねビルマ以東、北はバイカル
    湖以東の東アジア大陸、並びにおおむね東経180度以西
    すなわちマーシャル群島以西の西太平洋海域を示しイン
    ド、豪州は含まれない。また「大東亜戦争」とは、単に
    大東亜の地域において戦われる戦争という意味合いのも
    のに過ぎなかった。(瀬島龍三『大東亜戦争の実相』よ
    り)(筆者注:まったく、何と言う言い逃れであろうか)

     <大東亜戦争の特徴>
 1. 官僚化した軍部が彼我の国民の命を無駄に費やした戦争
   日本陸軍は(1)その8割が旧式機で構成されている戦闘
   機隊を主力とし(2)一度も実践に投入したことがない新
   型戦闘機に頼って、欧米の航空先進国の空軍に立ち向か
   った。
   陸軍は(わずかに)隼40機で、対英、米戦争につっ走
  った。(三野正洋氏著『日本軍の小失敗の研究』より)
 2. 陸軍と海軍のばかばかしい対立(ほんの一部を紹介)
  ○20ミリ機関砲の弾丸が、規格が違っていて共用できな
    い。
  ○空軍が独立せず。(陸軍航空部隊、海軍航空部隊)
  ○海軍向け、陸軍向け戦闘機。スロットル・レバーの
  操作が真反対
  ○ドイツの航空機用エンジン(ベンツ社、DB601型)の
  ライセンス料の二重払い。同じエンジンを別々の独立
  した会社に依頼。
  ○陸軍の高射砲、海軍の高角砲
  ○陸軍の"センチ"、海軍の"サンチ"
      ("サンチ"はフランス流?)
  (三野正洋氏著『日本軍の小失敗の研究』より)

  3. バカバカしい、教育といえぬ兵隊教育
   「行きあたりばったり」とか「どろなわ」とかいった
   言葉がある。しかし、以上の状態は、そういう言葉では
   到底表現しきれない、何とも奇妙な状態である。なぜこ
   ういう状態を現出したのか、どうしてこれほど現実性が
   無視できるのか、これだけは何としても理解できなかっ
   た。そしてそれが一種の言うに言われぬ「腹立たしさ」
   の原因であった。
   第二次世界大戦の主要交戦国には、みな、実に強烈
   な性格をもつ指導者がいた。ルーズヴェルト、チャーチ
   ル、スターリン、蒋介石、ヒトラーーたとえ彼らが、そ
   の判断を誤ろうと方針を間違えようと、また常識人であ
   ろうと狂的人物であろうと、少なくともそこには、優秀
   なスタッフに命じて厳密な総合的計画を数案つくらせ、
   自らの決断でその一つを採択して実行に移さす一人物が
   いたわけである。
   確かに計画には齟齬があり、判断にはあやまりはあっ
   たであろう、しかし、いかなる文献を調べてみても、戦
   争をはじめて二年近くたってから「ア号教育」(筆者注
   :対米戦教育)をはじめたが、何を教えてよいやらだれ
   にも的確にはわからない、などというアホウな話は出て
   こない。確かにこれは、考えられぬほど奇妙なことなの
   だ。だが、それでは一体なぜそういう事態を現出したか
   になると、私はまだ納得いく説明を聞いていないー−
   確かに、非難だけは、戦争直後から、あきあきするほど
   聞かされたがー−。 (山本七平氏著『一下級将校のみた
   帝国陸軍』文春文庫、pp.44-45)

 4. 後方思想(兵站、補給)の完全なる欠乏
   日本軍内部:「輜重輸卒が兵隊ならば、
      蝶々トンボも鳥のうち」
   兵站や補給のシステムがまず確立したうえで、戦闘を
   行うというのが本来の意味だろうが、初めに戦闘ありき、
   兵站や補給はその次というのでは、大本営で作戦指導に
   あたる参謀たちは、兵士を人間とみなしていないという
   ことであった。戦備品と捉えていたということになるだ
   ろう。実際に、日本軍の戦闘はしだいに兵士を人間扱い
   にしない作戦にと変わっていったのだ。
    (保阪正康氏著『昭和陸軍の研究<下>』)
 
  ※ そもそも大東亜戦争について日本軍部の食糧方針は、
   ”現地自給”だった。熱帯ジャングルの豊かさという、
   今日までつづくひとりよがりの妄想があったのだろう。
   土地の農民さえ、戦争が始まると、商品として作ってい
   た甘蔗やタバコを止めて、自分のための食品作物に切り
   換えている。
    食糧が問題であることにうすうす気づいた将校たちが
   考え出したのは「自活自戦=永久抗戦」の戦略である。
   格別に新しい思想ではない。山へ入って田畑を耕し折あ
   らばたたかう。つまり屯田兵である。ある司令官の指導
   要領は次の如く述べている。
   「自活ハ現地物資ヲ利用シ、カツ甘藷、玉萄黍ナド
   ヲ栽培シ、現地自活ニ努ムルモ衛生材料、調味品等ハ
   後方ヨリ補給ス。ナホ自活ハ戦力アルモノノ戦力維持
   向上ヲ主眼トス」
   この作戦の虚妄なることは、実際の経過が朗らかにし
   ているが、なおいくつか指摘すると、作物収穫までには
   時がかかるが、その点についての配慮はいっさい見られ
   ない。「戦力アルモノ」を中心とする自活は、すでにコ
   レラ、マラリア、デング熱、栄養失調に陥った者を見捨
   てていくことを意味する。こうして多くの人間が死んだ。
    (鶴見良行氏著『マングローブの沼地で』
           朝日選書;1994:168)
 
  ※ 井門満明氏(当時兵站参謀)の述懐
   「兵站思想には戦争抑止力の意味があります。という
   のは、冷静に現実を見つめることができるからです。冷
   徹に数字の分析をして軍事を見つめることが、兵士を人
   間としてみることになり、それが日本には欠けていたと
   いうことになります」
   (保阪正康氏著『昭和陸軍の研究<下>』より孫引き)
 5. 死者約310万人
   日本国民の実に1/25(しかも若者)が戦死した。戦場
   での傷病により戦後亡くなった者を含めると500万人を越
   えるかもしれない。
 6. 「俘虜ノ待遇ニ関スル条約」への数々の違反
   1) シンガポールでの抗日華僑義勇軍約5000人の殺害
     (1942年2月、辻政信)
   2) 「ラハ事件」:アンボン島侵攻作戦時豪州兵集団
    虐殺(1942年2月、畠山耕一郎)
   3) 米・比軍の約8万5000人の「死の行進」(フィリピ
  ン、バターン半島、1942年4月。約120km。責任者は
  本間正晴中将)。米兵1200人、フィリピン兵16000
  人が死亡(虐殺、行方不明)。
   4) オランダ領インドネシア、ボルネオ島を主とする
  捕虜の虐待
   5) タイ北西部、泰緬鉄道建設に関する多数の捕虜の
  死亡(S18〜S19)
   6) その他何でもあり。
 
   <古山高麗雄氏『断作戦』(文春文庫)pp.284-285>
   帝国陸軍はシンガポールで、何千人もの市民を
   虐殺したし、帝国海軍はマニラで、やはり何千人
   もの市民を虐殺した。シンガポールでは、同市に
   在住する華僑の十八歳から五十歳までの男子を指
   定の場所に集めた。約二十万人を集めて、その中
   から、日本側の戦後の発表では六千人、華僑側の
   発表では四万人の処刑者を選んで、海岸に掘らせ
   た穴に切ったり突いたりして殺した死体を蹴り込
   み、あるいはそれでは手間がかかるので、船に積
   んで沖に出て、数珠つなぎにしたまま海に突き落
   とした。抗日分子を粛清するという名目で、無愛
   想な者や姓名をアルファベットで書く者などを殺
   したのだそうである。
   日本軍はシンガポールでは、同市を占領した直
   後にそれをしたが、マニラでは玉砕寸前の守備隊
   が、女子供まで虐殺し、強姦もした。アメリカの
   発表では、殺された市民の数は八千人である。こ
   れには名目などない、狂乱の所行である。
 
 7. 明治38年式歩兵銃でM1カービン機関銃に歯向かった
 8. 前線の下士官の一人は「これは戦争とは言えなかった
   な」と呟いた。
 9. 日本陸軍は「機械力の不足は精神力で補うという一種
   華麗で粋狂な夢想」に酔いつづけた。
   10. 太平洋戦争のベルは、肉体をもたない煙のような「上
   司」もしくはその「会議」というものが押したのであ
   る。そのベルが押されたために幾百万の日本人が死ん
   だか、しかしそれを押した実質的責任者はどこにもい
   ない。東条英機という当時の首相は、単に「上司」と
   いうきわめて抽象的な存在にすぎないのである。
    (司馬遼太郎氏著『世に棲む日々<三>』)  
  11. まったく馬鹿な戦争をしたもんだと、黒い海を見つめ
   ていた。それにしても腹がたつのは東京の馬鹿者たち
   だった。何が一億総特攻だ。これが一億特攻か。話の
   ほかだ。怒りがますます込み上げた。こうなったらな
   にがなんでも日本に帰り、横浜の日吉台の防空壕に潜
   んでいる連合艦隊の参謀たちに毒づいてやる。そうし
   なければ、死んでいった者どもに、何といってわびれ
   ばいいのだ。(巡洋艦『やはぎ』、原為一艦長)
 
  ●開戦前の参謀本部:田中新一作戦部長、服部卓四郎作戦
  課長、辻政信班長(この3人の徹底した対米開戦派に牛耳
  られていた)。
   ○特に辻政信は「作戦の神様」と言われていた。
   ○服部卓四郎はおめおめと生き残って、あろうことか
   敗戦後もGHQ情報部ウィロビー将軍などと結びついて
   再軍備を画策した。性懲りのないアホウはいつの世
   も存在するものだ。
   ○このほかの腐敗卑怯狡猾悪魔軍人の典型例を掲げて
   おこう。
   荒木貞夫、真崎甚三郎、川島義之、山下奉文、
   福栄真平、富永恭次、寺内寿一、山田乙三、
   牟田口廉也
  ●一縷の望み:東郷茂徳外務大臣
   「外務省職員はこぞって、早期終戦に努力せよ」
   この東郷茂徳は1948年、極東軍事裁判でA級戦犯にされ、
  憤慨しつつ獄中で亡くなった。東郷外相は、外務省によっ
  て戦犯にされたという疑いが濃厚なのである。
 
  ★[無残な結果]
  真珠湾奇襲という卑怯で悪辣な行動は後に禍根を残した。
  南方戦線での兵の使い捨てと玉砕。他民族を差別・蹂躙。
  ●「言論出版集会結社等臨時取締法」発布(S16.12)
  完璧な言論統制
  ●マレー作戦(シンガポール攻略など、S16.12.8〜S17.2.15)
   司令官山下奉文ほか、西村、松井、牟田口が関わった。
  シンガポールは昭南島と市名を変えられ軍政が敷かれ、
  日本軍は住民から言葉を奪った。
   山下奉文:「これから、お前らを天皇陛下の赤子にして
      やる。ありがたいと思え。・・・」
  ●比島攻略戦開始(S16.12)
   フィリピンではこの時から、レイテ沖海戦を経て敗戦
  までの3年8か月の間に約51万人の将兵、民間人が死亡した。
  ●マニラ陥落(S17.1)
  ●ダグラス・マッカーサー:"I shall return."
   フィリピンではこの時から、レイテ沖海戦を経て敗戦ま
   での3年8か月の間に約51万人の将兵、民間人が死亡した。
    ・マニラ陥落(S17.1)
    ・ダグラス・マッカーサー:"I shall return."
     フィリピン、コレヒドール島(S17.5陥落)を脱出
     (S17.3.12)。後には在オーストラリアの連合軍と
     密接に連絡する地下ゲリラ組織が残った(残置諜報)。
     (ミンダナオ島ダバオには、東南アジア最大の日本人
     コロニーがあった。日本人移民がほとんど政府の力を
    借りずに築いた町だった。戦争当時約2万人が住んでい
    たが戦争の被害者となった(鶴見良行氏著『マングロ
    ーブの沼地で』朝日選書;1994:165)。
  ●ドーリトル空襲:東京が初めて空襲される(S17.4.18)
   アメリカ空母ホーネットから発進したB25が東京、名古屋、
  関西方面を初空襲。(作戦名『シャングリラ』、S18年ルー
  ズベルトにより命名される)
  ●「翼賛選挙」(昭和17年4月30日)
   ○政府御用機関「翼賛政治体制協議会」が選定、推薦
   した候補者が大量に立候補し、県、大日本翼賛壮年
   団、学校長、警防団、町内会長など、官民あげて手
   厚い支援が行われ、臨時軍事費からも一人当たり
   5000円の選挙費用が渡された。推薦者は381人(定数
   466人)当選。
   ○東条英機曰く
   「内外の新情勢に応じ、大東亜戦争の完遂に向か
   って国内体制を強化、これを一分の隙もないものに
   するのが、今度の総選挙の持つ重大な意義だ。推薦
   制の活用が大いなる貢献と示唆をもたらすだろう」
   (身勝手で空虚な演説といわざるをえない)
   ○日本の政党政治は名実ともに消失した。
   ○国内は太平洋戦争緒戦の勝利で沸き立っていた。
  ●珊瑚海海戦(MO作戦、S17.5.7〜8)
   空母対空母の初めての激突。翔鶴航行不能、ヨークタウ
  ン大破、祥鳳とレキシントン沈没で痛み分け。
  ●ミッドウェー海戦での惨敗(S17.6.5)
   正規空母四隻、重巡一隻を喪失。優秀なパイロットと整備
  員を失う。密閉型格納庫方式の採用が空母の命取りになった。
  さらに航空機損失322機、失った兵員3500名に達する壊滅的
  敗北を喫した。(作戦の責任者は順調に昇進した。お笑い種だ)。
   澤地久枝氏著『滄海よ眠れ(-)』(文春文庫)によれば、
  淵田(美津雄)戦史(淵田・奥宮共著『ミッドウェー』)の中
  の「運命の五分間」説が大ウソであって、現実は艦隊司令部
  の”敵空母出現せず”の思い込みからきた作戦ミスだった。
  淵田は中佐であり海軍指揮官であり、事実までねじ曲げる軍
  隊の恐ろしさが、ここにも首をだしている。
  ●ガダルカナルを中心とした陸海の攻防での惨敗
       (S17.8.8〜S18.2)
   第一次ソロモン海戦。陸海軍兵隊約3万5000人のうち約2万
   5000人が無駄に死(大半が餓死、マラリアによる病死)んだ。
   多くの熟練パイロットの戦死により海軍航空隊の戦力が激減
   (893機の飛行機と2362名の搭乗員を失う)した。
    ※井本熊男(当時参謀本部作戦課)の回想
     「ガ島作戦で最も深く自省三思して責任を痛感し
     なければならぬのは、当時大本営にありて、この作
     戦を計画、指導した、洞察力のない、先の見えぬ、
     而も第一線の実情苦心を察する能力のない人間共
     (吾人もその一人)でなければならぬ」
    ※大本営発表
     「・・・ガダルカナル島に作戦中の部隊は・・其
     の目的を達成せるに依り二月上旬同島を撤し他に転
     進せしめられたり」(筆者注:あほか? 狂っとる)。
  ●横浜事件(S.17.9〜10頃)
    太平洋戦争下の特高警察による、研究者や編集者に対する
   言論・思想弾圧事件。
    1942年、総合雑誌『改造』8、9月号に細川嘉六論文〈世
    界史の動向と日本〉が掲載されたが、発行1ヵ月後,大本営
    報道部長谷萩少将が細川論文は共産主義の宣伝であると非難
    し、これをきっかけとして神奈川県特高警察は、9月14日に
    細川嘉六を出版法違反で検挙し、知識人に影響力をもつ改造
    社弾圧の口実をデッチ上げようとした。しかし,細川論文は
    厳重な情報局の事前検閲を通過していたぐらいだから、共産
    主義宣伝の証拠に決め手を欠いていた。そこで特高は細川嘉
    六の知友をかたっぱしから検挙し始め、このときの家宅捜査
    で押収した証拠品の中から,細川嘉六の郷里の富山県泊町に
    『改造』『中央公論』編集者や研究者を招待したさい開いた
    宴会の1枚の写真を発見した。
    特高はこの会合を共産党再建の会議と決めつけ、改造社、
    中央公論社、日本評論社、岩波書店、朝日新聞社などの編集
    者を検挙し、拷問により自白を強要した(泊共産党再建事件)。
    このため44年7月、大正デモクラシー以来リベラルな伝統
    をもつ 『改造』『中央公論』両誌は廃刊させられた。一方、
    特高は弾圧の輪を広げ、細川嘉六の周辺にいた、アメリカ共
    産党と関係があったとされた労働問題研究家川田寿夫妻、世
    界経済調査会、満鉄調査部の調査員や研究者を検挙し、治安
    維持法で起訴した。
    拷問によって中央公論編集者2名が死亡、さらに出獄後2名
    が死亡した。その他の被告は、敗戦後の9月から10月にかけて
    一律に懲役2年、執行猶予3年という形で釈放され、『改造』
    『中央公論』も復刊された。拷問した3人の特高警察官は被告
    たちに人権蹂躙の罪で告訴され有罪となったが、投獄されな
    かった。(松浦総三(平凡社大百科事典より))
  ●「敵性語を使うな」とか「敵性音楽を聴くな」
   国民には強制的な言論統制がなされていた。この年(昭和
  18年)の初めから「敵性語を使うな」とか「敵性音楽を聴く
  な」という命令が内務省や情報局からだされた。カフェとか
  ダンスといった語はすでに使われず、野球のストライクもま
  た「よし一本」という具合に変わった。電車のなかで英語の
  教科書をもっていた学生が、公衆の面前で難詰されたり、警
  察に告げ口されたりもした。
   とにかく米英にかかわる文化や言語、教養などはすべて日
  常生活から追い払えというのだ。まさに末期的な心理状態が
  つくられていく予兆であった。指導者たちが自分たちに都合
  のいい情報のみを聞かせることで国民に奇妙な陶酔をつくっ
  ていき、それは国民の思考を放棄させる。つまり考えること
  を止めよという人間のロボット化だったのだ。
   ロボット化に抗して戦争に悲観的な意見を述べたり、指導
  者を批判したりすると、たちまちのうちに告げ口をする者に
  よって警察に連行されるという状態だった。(保阪正康氏著
  『あの戦争は何だったのか』新潮新書、pp.154-155より)
  ●ビスマルク海での日本軍輸送船団壊滅(S18.3.4)
   アメリカ空軍による新しい攻撃方法(スキップ爆撃)
  ●唖然とする100トン戦車構想
   どうやって持ち込み、何に使う? 実際機能するのか?
   貧弱な発想の典型。
  ●「い号作戦」(S18.4.7)
   零戦はじめ合計400機による航空部隊による、ニューギニア
  のアメリカ軍飛行場攻撃作戦(山本五十六自ら指揮)
  ●連合艦隊司令長官、山本五十六大将戦死(S18.4.18)
   暗号は完全に解読されていた。ミッドウェーの失敗に学ば
  ないバカ丸だしの軍部であった。
  ●御用哲学者田辺元の体制迎合的講義(1943.5.19)
    (林尹夫(1945年7月28日戦死、享年24歳)の日記より)
    19日のT(筆者注:田辺元)教授月曜講義「死生」を聴講。
   すなわち、死は自然現象であり、我々の本性意志のいかんと
   もしがたいものとみる、ストアを代表とする自然観的認識論
   と、これにたいして、死を現実の可能性とみて、それへの覚
   悟により蘇生の意義をみるハイデッガーを代表とする自覚存
   在論的態度を説明し、このいずれも現代の我々の死生の迷い
   を救うものでないとする。しからば我々を救う死の態度とは
   ”決死 ”という覚悟のなかにありとT教授は説く。つまり、
   死を可能性の問題として我々の生を考えるのではなく、我々
   はつねに死にとびこんでゆくことを前提に現在の生があると
   いう。この場合、死はSein(存在)ではなくしてSollen(当
   為)であるという。
    林は、「T教授の論理は、あきらかに今日の我が国の現状の
   必要性に即応することを考慮した考え方であろう」と鋭く見
   抜いていた。
   (大貫美恵子氏著『学徒兵の精神誌』岩波書店、p.124)
  ●アッツ島玉砕(S18.5.29)
   大東亜戦争下での初めての玉砕。傷病兵を安楽死させ、
  2576人全員死亡。(藤田嗣治画伯『アッツ島玉砕』を見よ!!)   
   山崎保代大佐:「傷病者は最後の覚悟を決め、非戦闘員た
    る軍属は各自兵器を執り、共に生きて捕虜
    の辱めを受けざるよう覚悟せしめたり。他
    に策なきにあらざるも、武人の最後を汚さ
    んことを虞る。英魂と共に突撃せん」。
    ※「玉砕」とは
     「玉砕」は、唐の時代に編まれた『北斉書』の一節
     「大丈夫寧可玉砕何能全」に由来すると言われる。大
     丈夫たる男子は、いたずらに生き長らえるよりは玉の
     ごとく美しく砕け散るほうがよいという意味だが、そ
     れを現代に復活させ神がかり的な殉国思想と結び付け
     たところに、大本営の詐術があった。国家および天皇
     のためにいさぎよく死ぬことは、生き延びることより
     も美しい。実際には戦場で無謀な突撃をして皆殺しに
     されることを、「玉砕」の二文字は美化し、そのよう
     な徒死に向かって国民の意識を誘導する役割をも果た
     した。(野村進氏著『日本領サイパン島の一万日』
            岩波書店、p.207)
    ※ 清沢洌氏『暗黒日記』(岩波文庫、p.39より)
     昨日(S18.5.29)アッツ島の日本軍が玉砕した旨の
     放送があった。午后五時大本営発表だ。今朝の新聞で
     みると、最後には百数十名しか残らず、負傷者は自決
     し、健康者は突撃して死んだという。これが軍関係で
     なければ、こうした疑問が起って社会の問題となった
     ろう。
     第一、谷萩報道部長の放送によると、同部隊長山崎
     保代大佐は一兵の援助をも乞わなかったという。しか
     らば何故に本部は進んでこれに援兵を送らなかったか。
     第二、敵の行動は分っていたはずだ。アラスカの完
     備の如きは特に然り。しからば何故にこれに対する善
     後処置をせず、孤立無援のままにして置いたか。
     第三、軍隊の勇壮無比なることが、世界に冠絶して
     いればいるほど、その全滅は作戦上の失敗になるので
     はないか。
     第四、作戦に対する批判が全くないことが、その反
     省が皆無になり、したがってあらゆる失敗が行われる
     わけではないか。
     第五、次にくるものはキスカだ。ここに一ケ師団ぐ
     らいのものがいるといわれる。玉砕主義は、この人々
     の生命をも奪うであろう。それが国家のためにいいの
     であるか。この点も今後必ず問題になろう。もっとも
     一般民衆にはそんな事は疑問にはならないかも知れぬ。
     ああ、暗愚なる大衆!
    ※ 不愉快なのは徳富蘇峰、武藤貞一、斎藤忠といった鼠輩
    が威張り廻していることだ。(伊藤正徳)
      (清沢洌氏著『暗黒日記』、岩波文庫、p.46)
    ※ 開戦の責任四天王は・・・
    徳富蘇峰(文筆界)、本多熊太郎(外交界)、末次信正
     (軍界)、中野正剛(政界)
      (清沢洌氏著『暗黒日記』、岩波文庫、p.102)
  ●東条内閣「学徒戦時動員体制確立要綱」を閣議決定(S18.6.25)
   「大東亜戦争の現段階に対処し、教育練成内容の一環とし
  て、学徒の戦時動員体制を確立し学徒をして有事即応の態勢
  たらしむるとともに、これが勤労動員を強化して学徒尽忠の
  至誠を傾け、その総力を戦力増強に結集せしめんとす」。
   ●清沢洌氏の日記より(S18.7.31)
    毎朝のラジオを聞いて常に思う。世界の大国において、かく
   の如く貧弱にして無学なる指導者を有した国が類例ありや。国
   際政治の重要なる時代にあって国際政治を知らず。全く世界の
   情勢を知らざる者によって導かるる危険さ。
  ●イタリア無条件降伏(S18.9.8)
  ●学徒出陣(S18.10.21、最初の「壮行会」、25000人)
   東条英機:「御国の若人たる諸君が、勇躍学窓より征途に就
    き、祖先の遺風を昂揚し、仇なす敵を撃破して皇
    運を扶翼し奉る日はきたのである」。
   ○時まさに連戦連敗、戦争を知らない人間には、戦争をや
   める断固たる決意も持ち得なかったということだろう。
   あきれる他はない。
   ○特攻パイロットには意図的に学徒出陣組が徴用された。
   ○1943年12月にいまだに正確な数字はわかっていないが、
     全国で20〜30万人の学生が学徒兵として徴兵された。
    (大貫美恵子氏著『学徒兵の精神誌』岩波書店、p.126)
   ○学徒兵として召集された朝鮮人は4385人、このうち640人
   が戦死 (大貫恵美子『ねじ曲げられた桜』岩波書店)
   ○林尹夫(1945年7月28日戦死、享年24歳)の場合
     1941年9月5日には、林は次のように記す。「日本よ、
     ぼくはなぜ、この国に敬愛の念を持ちえないのか」。
     さらに10月12日には、「国家、それは強力な支配権力
     の実体である。・・・ぼくは、もはや日本を賛美する
     こと、それすらできないのだ」と言いつつ、「戦争は、
     国体擁護のためではない。そうではなくして、日本の
     基本的性格と、そのあり方が、日本という国家に、戦
     争を不可欠な要素たらしめているのだ」と鋭い洞察を
     示す。日本は戦争なしでは一瞬たりとも存続しえない
     戦争機械のような存在である。戦争がなければ、自ら
     が生き延びるために無理やりにでも戦争を作り出すだ
     ろう−ーこの戦争不可欠という洞察からはどのような
     希望も導き出すことはできない。林はこの日、次のよ
     うにも述懐する。
      ・・・ぼくは、この戦争で死ぬことが、我ら世代
     の宿命として受けとらねばならぬような気がする。
     根本的な問題について、ぼくらは発言し、批判し、
     是非を論じ、そして決然たる態度で行動する。そう
     いう自主性と実践性を剥奪されたままの状況で戦場
     にでねばならぬためである。だから宿命と言うのだ。
     戦争で死ぬことを、国家の、かかる要求のなかで
     死ぬことを、讃えたいとは霜ほども思わぬ。その、
     あまりにもひどい悲劇のゆえに。(大貫美恵子氏著
     『学徒兵の精神誌』岩波書店、pp.120-121)
  ●東条英機を公然と批判した中野正剛は憲兵隊に引っ張られ10月
  27日自殺させられた。
   中野正剛:「国は経済によりて滅びず。敗戦によりてすら滅
    びず。指導者が自信を喪失し、国民が帰趨に迷う
    ことにより滅びる」(『戦時宰相論』)
  ●マキン、タラワ両島の守備隊が全滅(S18.11)
   柴崎恵次海軍少将他4500名全滅
  ●ブーゲンビル島沖海戦(S18.11)
   米艦のレーダーが大威力を発揮、絶対劣勢と思われた米艦隊
  が勝利した。日本海軍はブーゲンビル島突入に失敗。情報収集
  分析・活用を無視した結果であった。なおこの時の戦果は大本
  営発表の1/10だった。
  ●マーシャル諸島、クェゼリン本島、ルオット、ナムル壊滅
       (S19.1)
  ●フーコン死の行軍(S19.1)〜メイクテーラ奪回(?)作戦(S20)
   <古山高麗雄氏『フーコン戦記』(文藝春秋社)より>
   俺たちが半月がかりであの道を踏破したのは、十九年の
   一月中旬から下旬にかけてであったという。泰緬鉄道が完
   成したのは、十八年の十月二十五日だという。すでに鉄道
   は開通していたのだが、俺たちは歩かされた。鉄道隊は、
   「歩兵を歩かせるな」を合言葉にして敷設を急いだという
   が、できると物資輪送が先になり、歩兵は後になった、と
   古賀中尉は書いている。
   歩兵は歩け、である。けれども歩兵だからと言って、歩
   かせて泰緬国境を越えていたのでは、大東亜戦争では勝て
   なかったのだ。歩兵は歩かせるものと考えていた軍隊は、
   歩兵は送るものと考えていた軍隊には勝てないのである。
   俺たちは日露戦争用の鉄砲、三八式歩兵銃を担がされ、自
   動小銃をかかえて輸送機で運ばれていた軍隊に、途方もな
   い長い道のりを、途方もない長い時間歩いて向かって行っ
   て、兵員が少なくても、食べる物がなくても、大和魂で戦
   えば勝てる、敵の兵員が十倍なら、一人が十人ずつ殺せば
   勝てる、俺たちはそんなことを言われながら戦い、やられ
   たのだ。・・・
   どれぐらい待っただろうか。やっと一行が現われた。
   徒歩であった。副官らしい将校と参謀を従えて、師団長も
   泥道を歩いた。前後に護衛兵らしいのがいた。
   師団長だの参謀だのというのは、物を食っているから元
   気である。着ているものも、汚れてなくて立派である。フ
   ーコンでは戦闘司令所が危険にさらされたこともあったと
   いうが、あいつらは、食糧にも、酒、タバコにも不自由し
   ないし、だから、元気なわけだ。しかもこうして、瀕死の
   兵士や、浮浪者のようになっている兵士は見せないように
   と部下たちがしつらえるのだから、白骨街道の飢餓街道の
   と聞いても、わからないのである。あるいは、わかっても
   意に介せぬ連中でもあるのだろうが、どうしてみんな、あ
   んなやつらに仕えたがるのか。
   いろいろ記憶が呆けていると言っても、あのとき、貴様
   ら浮浪者のような兵隊は、閣下には見せられん、と言った
   下士官の言葉も、あの姐虫と同じように、忘れることがで
   きないのである。
  ●海軍軍務局が呉海軍工廠魚雷実験部に対して人間魚雷(暗号名
  「○六」)の試作を命じた。
  ●米空母機動部隊トラック島攻撃〜パラオ空襲(S19.2〜3)
   日本海軍は燃料補給に致命的打撃を被った。
   トラック島(海軍最大の前進基地)の機能喪失とラバウルの
   孤立(S19.3)。このあと日本軍は全ての戦いで完敗を重ねた。
  ●中学生勤労動員大綱決定(S19.3.29)
  ●インパール死の行軍(S19.3月8日〜7月)
   補給がなければ潰れるのは当然。稀にみる杜撰で愚劣な作戦だ
  った。司令官:牟田口廉也、10万人中7万人死亡)
        <インパール作戦での日本兵の敵>
   ○一番目:牟田口廉也(および日本の軍部)
    「インパール作戦」大敗後、作戦失敗を問わ
    れた牟田口は、こう弁明した。
   「この作戦は″援蒋ライン”を断ち切る重要
    な戦闘だった。この失敗はひとえに、師団の連
    中がだらしないせいである。戦闘意欲がなく、
    私に逆らって、敵前逃亡したのだ」
    部下に一切の責任を押し付けたのである。三
    人の師団長たちはそれぞれ罷免、更迭された。
    しかし、牟田口は責任を問われることはなく参
    謀本部付という名目で東京に戻っているのだか
    ら、開いた口がふさがらない。
    私はインパール作戦で辛うじて生きのこった
    兵士たちに取材を試みたことがある(昭和63年
    のこと)。彼らの大半は数珠をにぎりしめて私
    の取材に応じた。そして私がひとたび牟田口の
    名を口にするや、身体をふるわせ、「あんな軍
    人が畳の上で死んだことは許されない」と悪し
    ざまに罵ることでも共通していた。(保阪正康
    氏著『あの戦争は何だったのか』新潮新書、p.179)
   ○二番目:軍部に同調する日本人のものの考え方
   ○三番目:雨季とマラリア(蚊)
   ○四番目:飢餓
   ○五番目:英国・インド軍
 
   萩原の言うとおりなのかも知れない。確かに、軍隊では、将軍
  の一声で、何万人もの人間の運命が違って来る。参謀が無茶な作
  戦を作ると、大量の人間が死ぬことになる。無茶と言えば、あの
  戦争自体が、最初から無茶だったのかも知れない。ビルマくんだ
  りまで行って、糧秣も兵器弾薬もろくになく、十五倍、二十倍の
  敵と戦うなどというのは、どだい無茶である。あの頃は、不可能
  を可能にするのが大和魂だ、などと言われて尻を叩かれたが、将
  軍や参謀たちは、成算もないのに、ただやみくもに不可能を可能
  にしろと命令していたわけだろうか。泰緬鉄道を作ることが、ど
  れほどの難工事であるか、アラカンを越えてインパールを攻略す
  ることがどのようなものであるか、将軍や参謀たちには、まるで
  わかっていなかったのであろうか。
   (奴ら、一種の精神病患者なんやね、病人たい、病人、軍人病
  とでも言えばよかかね、この病気にかかると、ミイトキーナを死
  守せよ、などと平気で言えるようになる。玉砕なんて、自慢にも
  何もならんよ、勝目のない喧嘩をして、ぶっ飛ばされたからと言
  うて、自慢にはならんじゃろう)。
    (古山高麗雄氏『断作戦』(文春文庫)pp.46-47)
     ※大本営発表(この頃は大ウソとボカしの連続)
      「コヒマ及インパール平地周辺に於て作戦中なりし
     我部隊は八月上旬印緬国境線付近に戦闘を整理し次期
     作戦準備中なり」
     ※桑原真一氏(日本-イギリス戦友会交流世話人)
      「あの作戦の目的について、私は今も知らない。ビル
     マ、インドからあなたたち(注:英軍)を追い出そうと
     したことだと思うが、しかしそれが目的ならあのような
     かたちの戦闘は必要でない。私は、あの作戦は高級指揮
     官の私利私欲のために利用されたと思っている。いや私
     だけではない。皆、そう思っている」
      (保阪正康氏著『昭和陸軍の研究<下>』より)
     ※インパールを含めてビルマに派遣された兵隊33万人中
     19万人以上が戦死した。
  ●帝国陸軍「一号作戦」(大陸打通作戦)を発令(S19.4)
   51万人の大兵力を投じ、北京ー漢口、広州ー漢口の鉄道線沿い
  の重要拠点全てを占領して大陸交通を完全に支配下におくととも
  に、アメリカ軍の航空隊基地を破壊するという、気宇壮大、前代
  未聞の作戦。斜陽日本も、この作戦では弱体の中国軍に大攻勢を
  かけた。(結局は中国との和解に至らなかったのだが)
  ●「湘桂作戦」(S19.5〜11):支那派遣軍最終最大の作戦
   作戦担当の檜兵団は、野戦病院入院患者の死亡37%(三分の一
  強)、そのうち戦傷死13.9%に対し、脚気、腸炎、戦争栄養失調
  症等消化器病栄養病の死亡率は73.5%を占めた。
   入院患者中、「戦争栄養失調症」と診断された患者の97.7%が
  死亡したという。一人も助からなかったというにひとしい。
   前線から武漢地区病院に後送された患者の場合、栄養低下によ
  り、顔色はいちじるしく不良、弊衣破帽、被服(衣服)は汚れて
  不潔、「現地の乞食」以下であり、シラミのわいている者多く、
  「褌さえ持たぬ者もあった」と書かれている。全身むくみ、頭髪
  はまばらとなり、ヒゲは赤茶色、眼光無気力、動作鈍重、応答に
  活気がないなどと観察されている(19年9月下旬から10月中旬の
  こと)。
   日中戦争について論議は多いが、この種の臨場感ある専門家の
  文章に接するのははじめてのように思う。彼等もまた「皇軍」と
  いう名の軍隊の成員だったのだ。
   すべての戦線は母国からはるかに距離をへだてたところにある。
  しかし、中国戦線は「朝鮮」「満州」と地つづきである。海上だ
  けではなく、陸路の補給も絶え、飢餓線上で落命した多くの兵士
  がいたことを改めてつきつけられた。
  (澤地久枝氏著『わたしが生きた「昭和」』岩波現代文庫.p194)
  ●マリアナ沖海戦(あ号作戦、S19.6.19)
   日本海軍機動部隊消滅。新鋭空母「大鳳」(カタパルトなし)
  沈没。(作戦用Z文書は米軍の手に渡っていた)
   ○"マリアナの七面鳥狩り"(米国評)
   ○渾作戦(戦艦「大和」出動):宇垣纏(最後の特攻で戦死)
       司令官
   「蒼い海がサンゴ礁を覆う南溟の果てに、大艦隊が海を
   圧し、脾肉の嘆をかこっている。祖国の興廃が分かれる戦
   機を眼前にしながら、阿呆の作戦、ただ手をこまねいて芒
  っとしているだけ・・・」(吉田俊雄氏著『特攻戦艦大和』)
  ●サイパン陥落と玉砕(S19.7.7):「バンザイ・クリフ」
   米軍の皆殺し作戦(ナパーム弾使用)で軍人、民間人約60000人
   が全滅。南雲忠一中将自決。(この後よりB29の日本本土爆撃が本
   格的にはじまった)。南雲忠一はミッドウェー惨敗の責任を負わ
   されサイパンへの流刑状態(悪魔の上にも悪魔がいる)だった。
    ※南雲忠一「『サイパン』島ノ皇軍将兵ニ告グ」
     「今ヤ止マルモ死、進ムモ死、生死須ラクソノ時ヲ得テ帝国
    男児ノ真骨頂アリ。今米軍ニ一撃ヲ加エ、太平洋ノ防波堤トシ
    テ『サイパン』島ニ骨ヲ埋メントス。戦陣訓ニ日ク『生キテ虜
    囚ノ辱ヲ受ケズ』、『勇躍全力ヲ尽シ、従容トシテ悠久ノ大義
    ニ生クルコトヲ悦ビトスベシ』ト。茲ニ将兵卜共ニ聖寿ノ無窮、
    皇国ノ弥栄(いやさか)ヲ祈念スベク敵ヲ索メテ発進ス。続ケ」
   (野村進氏著『日本領サイパン島の一万日』岩波書店、p.273)
  ●東部ニューギニア戦線(アイタペ作戦など、S18〜19)
   ここは地獄の戦場だった。約16万人が戦死、戦病死。(大本営
  発表では一言も触れられていない)
    ---------------<ある悲しいエピソード>--------------
    私たちはこの見張り所を占拠して、ここから敵の陣地を見る
    ことにしました。そこで私たちは一斉に銃を射って、彼らを倒
    したのです。不意の攻撃ですから、彼らに反撃の余裕はありま
    せん。全員を射殺しました。そして、私たちはその見張り所に
    入りこんだのですが、私は大学を卒業していましたので、ある
    程度の英語の読み書きはできます。
    私は、なにげなく机の上のノートを見ました。その兵士はす
    でに死んでいたのですが、まだ二十歳を超えたような青年でし
    た。そのノートに書かれた英文を読むと、「ママ、僕は元気に
    戦場にいます。あと一週間で除隊になりますが、すぐに家に帰
    ります。それまで皆を集めておいて、私の帰りを待っていてく
    ださい。そのときが楽しみです。・・・」という文面でした。
    戦友の中で英語がわかるのは私だけでしたから、何が書いてあ
    るんだと尋ねられたときも、どうやら報告書のようなものらし
    いと答えて、最後のページを被り、私はポケットにしまいこん
    だのです。しかしこれをもっていると、何かのときに都合がわ
    るいと思って、後にこっそりと焼いてしまいました。
    (保阪正康氏著『昭和の空白を読み解く』講談社文庫、p.12)
  ●西部ニューギニア戦線(S19〜S20)
    苛烈な爆撃と飢餓、マラリア、アメーバ赤痢、脚気などが次々
   と若者の命を奪っていった。司令部のお偉いさんは漁船を呼びつ
   けこっそり逃げようとした。指揮官は爆撃の際には防空壕の底に
   へばりついていた。
   --------------<三橋國民氏著『鳥の詩』より>--------------
    早朝、破壊されたサマテ飛行場滑走路の修復作業のため、私た
   ち仲間の少しでも動ける何人かが、それぞれスコップを肩にして
   陣地を出発した。陣地の草っ原を抜けると山径になり清原のいる
   砲分隊のニッパ小屋につきあたる。すると、その小屋の高床式に
   なっている隅の柱に、清原が両手でしがみつき、辛うじて腰を浮
   きあがらせた恰好でうめき声をあげていた。私は清原が何をやっ
   ているのか見当がつかず、小屋の中に入っていった。
    「きよはら!何やってるんだい。・・・どうしたんだい?」
    清原は私の声を聞くなり握っていた両の手を放した。とたんに、
   尻餅をついた。こちらを振り返った清原の目に悔しげな涙が滲ん
   でいる。それでも清原は口もとに笑みをつくりながら、
    「三橋、情けねぇよ、どうにもならねぇんだ。四十度もあった
   マラリアの熱が、下がったと思ったら、腰が抜けちゃって立てね
   ぇんだよなぁ。いまこの柱に掴まって何とかして立とうとしてた
   んだが・・・」    
    げっそりと痩せこけて毛髪が茶褐色になってしまい、ほんの幾
   日かで皺くちゃになった日の縁、手のひらの辺りなど老人めいた
   容貌に一変している。私はその時、ふっとそんな清原の状態が気
   になった。腰が抜けたあと、そのまま寝こんでしまい、余病を併
   発して亡くなっていくケースが意外に多かったからだ。高熱の引
   いたあと衰弱して、まるで老人そのもののようになってしまうの
   は、あまりいい経過とは言えないのだ。「アメーバ赤痢」「南方
   浮腫」などというのは、ほとんどがこんなふうになった体の弱点
   を衝いてくる命取りの病気のように思われ、誰からも恐れられて
   いた。軍医からは、−ーこれといって打つ手もなく、患者自身の
   体力に期待するだけーーといった絶望的な答えが返ってくるに過
   ぎなかったのである。(pp.250-251)
   **********   **********   **********   
    「こんちは、オッサン! どこから来られたんですか」
    「あぁ、兵隊さん、ご苦労さんだね、わしらは三崎漁港からだ
    よ」
    「えぇ! 三崎ですか、三浦半島の、神奈川県の・・・、よく
   こんなところまで・・・、どのくらいの日数をかけてこられたん
   ですか、すごいですねぇ、こんな小さな船で、五千キロも・・」
    いやぁ、これも軍の機密とかだけどね、もう三崎を発ってか
   ら4か月日なんだよ。来る途中は随分おっかなかったよ、でも兵
   隊さんたちのことを思えば比べものにはならねえがね」
    「これからどこへ?」
    「まあ聞きっこなしさ。うるせえんだよ、防諜とかでね。だが
   まあいいや、赤道直下のここで兵隊さんに話したからって、敵さ
   んに漏れるわけじゃあねえしな。この船はこれから二、三日後に
   司令部のお偉いさん方を乗せて、島伝いに内地まで脱出するんだ
   とか言ってるんだがね、果たしてご注文どおりにうまくいきます
   かってぇところだな。だいいち、わしらがここまでやってくるこ
   とだけでも精一杯だったんだからねぇ・・・。帰りの海にゃあ敵
   潜がうようよしてるのを知らねぇんだから、全くいい気なもんだ
   よ、偉い人たちはねぇ」
    脱出などという、いわば軍隊ではタブーとされている言葉を、
   私たちに平気でしゃべれるのも民間人の気軽さなのだろうか。そ
   れとも、このような最悪の戦場に取り残されてしまう私たちを前
   にして、気兼ねしての言いまわしなのだろうか。しかし、この船
   が軍幹部の脱出用なのだと聞かされたとき、その理由はどうであ
   れなんとも複雑な気持ちがした。(pp.100-101)
    **********   **********   **********   
    「あぁ、もういやだ、いやだ。三橋よぅ、このあいだの戦闘で
   の四人の死にざまはほんとに惨めだったなぁ。おっかねえなぁ、
   戦争は・・・。それにしても、あの戦闘中に中助のS(鳥越注:中
   隊長S中尉)が何をやっていたか知ってるかい。敵さんが空から
   しかけてきたとき、あの野郎はドラム缶の輪っばを三つも繋ぎ合
   わせた壕の底にへばりついて、終わるまで出てこずじまいだった
   んだぜ。高射砲は空に向かって射つんだからなあ! 地面の底に
   へばりついていたんじゃあ指揮なんてできる訳がねえよ。あとで、
   中助がぬかした訓示を聞いてたかい? 『貴様らはヤマトダマシイ
   をこめて射たんから当たらないんだ』とか言ってたなぁ。あれは
   たしか何処かにあった軍歌の文句じゃあねえの・・・。ひでえ野
   郎に俺たちは、くっついちまつたなぁ・・・。だのに、あんな中
   助にべたべたして、ご機嫌とりばかりをやっている中隊機関(幹
   部室のやつらも気にいらねえよ。俺も軍隊生活は長えけれど、こ
   んなひでえ中隊に配属されちまったのはどうみても百年目だよ。
   あぁ、いやだ、いやだ。これから先、この独立中隊はどうなって
   しまうのか、皆は分かってんのかなぁ・・・」
    佐地の言ってることは、ただ単に愚痴をこぼしているといった
   ものではなく、内容そのものが時宜を得、的確な指摘だった。
     (p.150)(三橋國民氏著『鳥の詩』角川文庫)
  ●東条内閣消滅--->小磯内閣(S19.7.18)
   「敵ノ決戦方面来攻ニ方リテハ空海陸ノ戦力ヲ極度ニ集中シ敵
  空母及輸送船ヲ所在ニ求メテ之ヲ必殺スルト共ニ敵上陸セハ之ヲ
  地上ニ必滅ス」(捷号作戦と称された)
   ○捷一号:比島決戦
   ○捷二号:台湾、南西諸島での迎撃戦
   ○捷三号:日本本土(北海道を除く)決戦
   ○捷四号:北東方面、千島列島での決戦
  ●グアム島10000人玉砕(S19.8)
   米軍がマリアナ諸島全域を制圧。
   ●沖縄から本土への疎開船「對島丸」が米潜水艦に攻撃され沈没。
   約1500人が死亡、生存者は227人(学童59人、一般168人)。
   「對島丸」へは護衛船がついていたが自分の身の安全のために救
   助活動を行わず。(外間守善氏著『私の沖縄戦記』角川書店、
   pp.19-27)
  ●満17歳以上兵役編入決定
  ●米軍のセブ島攻撃(S19.9〜)
   米軍のセブ島空襲は十九年九月にはじまるが、二十年春、陣地
  を捨てて山中に逃げこむに至って、日本軍は民間人を邪魔もの扱
  いしはじめた。男は現地召集で軍隊にとられ、年寄りと女子供が
  のこっていた。
   「私は山で兄に会って、海軍の方へいったから命があったんで
  す。うちの義姉の弟嫁は、十一の男の子を頭に女の子四人連れて、
  陸軍の方にのこった。それを、子供がいると、ガヤガヤして敵に
  聞かれると言って、五人とも銃剣で殺してしまったんです。男の
  子は、『兵隊さん、泣きもしないし、なんでも言うこと聞きます
  から、殺さないで下さい』と言って逃げさまよっているのに、つ
  かまえて。四、五歳まで私が同じ家にいて育てた子です。そして
  妹たち四人も…。敵に知られると言って、鉄砲をうたないんです。
  銃剣で…。セブの話は一週間話してもつきないんです、あの残酷
  なやり方は。別行動をとりなさいと言ってくれればよかったんで
  すよ。殺す必要はなかったんです」。
   自決を強要され、手榴弾で死のうとして死にきれなかった人間
  を、日本兵が銃剣で刺し、出血多量で意識不明になっているのを、
  上陸してきた米兵が救い出し、レイテの野戦病院へ連れていって、
  輸血で助けた話も出る。「アメリカ兵は敵ながらあっぱれですね」。
   (澤地久枝氏著『滄海よ眠れ(-)』文春文庫、pp.149-150)
  ●神風特別攻撃隊の編成(S19.10、詳細は後記)
   戦争末期、いくらかの例外はあるが、日本軍の航空機使用は、
  青年の神風特攻と高級将校の逃亡という二つの機能に集中してい
  る。まことに無残という他はない。
  (鶴見良行氏著『マングローブの沼地で』朝日選書;1994:166)
  ●ハルゼイ機動部隊の沖縄「十・十空襲」(S19.10.10)
  ●台湾沖航空戦(S19.10.13〜15)
   大本営発表では、日本は未曾有の大勝利をおさめたことになっ
  ている。(全くの虚報)
   大本営情報参謀掘栄三氏は、これらの成果に懐疑的で、ただち
  に参謀本部所属部長に打電したが、当時の作戦参謀瀬島龍三が握
  り潰してしまった。瀬島は捷一号作戦の直接の起案者だった。大
  本営の作戦部は、情報を軽視するだけでなく、自分たちに都合の
  悪い情報はすべて「作戦主導」の名のもとににぎりつぶしていた
  のだ。(保阪正康氏著『昭和陸軍の研究<下>』より)
  ●レイテ決戦(捷一号作戦、S19.10.22〜)
   比島決戦では日本人52万人以上が死亡したが、このうち8万4000
  人はレイテ島の攻防戦で死亡した。
   首謀者:服部卓四郎(敗戦後も復員省に籍をおき半ば公然と活
    動した)
  ●レイテ湾奇襲作戦 (S19.10.24〜25)
   小沢囮艦隊の快挙あるも、栗田艦隊の突然の中途退却で失敗。
   西村艦隊壊滅。
   戦艦「武蔵」撃沈される(シブヤン海、S19.10.24 07:35)。
   日本の空母全滅。
   特攻開始(S19.10.25、海軍が一日早かった)。
  ●「フ号兵器作戦」(S19.11.3):鹿島灘より発進
   和紙で作った直径10mの巨大な風船に15キロ爆弾1個と焼夷弾2
  個を吊して、ジェット気流にまかせてアメリカを爆撃する。しか
  もいずれはこれにペスト菌やコレラ菌を乗せてばら撒こうという
  愚劣で卑劣極まる作戦。(もちろんコスト・ビニフィットは最悪
  だった)
  ●東南海大地震(S19.12.7)
    1944年12月7日の東南海地震の震源は紀伊半島沖の海底深さ約
   40kmで、三重県紀勢町では地震発生からわずか10分程度で6mの大
   津波が押し寄せたという記録もあります。最大震度6という揺れ
   と津波によって三重県、愛知県、静岡県を中心に死者・不明者は
   1223名にのぼるということですが、太平洋戦争の混乱期でもあっ
   たためにあまり詳しい記録は残っていない。
   (http://blog.goo.ne.jp/nan_1962/e
     /bec8cef008010403e54c26f14a432c4a より。H18.4.12)
  ●人肉食事件(S20.2.23〜25):父島事件
    (秦郁彦氏著『昭和史の謎を追う<下>』、大岡昇平氏著
             『野火』などを参照)
   ●硫黄島全滅(S19.12.8〜S20.3.26)
  陸海軍23000人全滅、米軍死傷者25000人
  栗林忠道中将 vs ホーランド M. スミス
  ※硫黄島の滑走路が敵にとられると、本土大空襲が可能になるの
  であった。
  <名将栗林忠道中将の最後の電文より>
  戦局、最後の関頭に直面せり。敵来攻以来、麾下将兵
  の敢闘は真に鬼神を哭しむるものあり。特に想像を越え
  たる物量的優勢を以てする陸海空よりの攻撃に対し、宛
  然徒手空拳を以て克く健闘を続けたるは、小職自ら聊か
  悦びとする所なり。
  然れども飽くなき敵の猛攻に相次で斃れ、為に御期待
  に反し此の要地を敵手に委ぬる外なきに至りしは、小職
  の誠に恐懼に堪へざる所にして幾重にも御託申上ぐ。今
  や弾丸尽き水涸れ、全員反撃し最後の敢闘を行はんとす
  るに方り、塾々皇恩を思ひ粉骨砕身も亦悔いず。
  特に本島を奪還せざる限り、皇土永遠に安からざるに
  思ひ至り、縦ひ魂魄となるも誓つて皇軍の捲土重来の魁
  たらんことを期す。
  茲に最後の関頭に立ち、重ねて衷情を披瀝すると共に、
  只管(ひたすら)皇国の必勝と安泰とを祈念しつつ永に
  御別れ申上ぐ。(後略)
  梯久美子氏著『散るぞ悲しき』新潮社、pp.18-19)
  ※ この電文に書き添えてあった、3首の辞世のうちの1首...
   国の為重きつとめを果たし得で
     矢弾尽き果て散るぞ悲しき
  は最後の句”散るぞ悲しき”が大本営により改ざんされ ”
    散るぞ口惜し”として新聞発表されていた。
   (梯久美子氏著『散るぞ悲しき』新潮社、p.23)
  ※ 硫黄島は、軍中央部の度重なる戦略方針の変化に翻弄され、
  最終的に孤立無援の状態で敵を迎え撃たねばならなかった戦場
  である。
  当初、大本営は硫黄島の価値を重視し、それゆえに2万の兵力
  を投入したはずだった。それが、まさに米軍上陸近しという時
  期になって、一転「価値なし」と切り捨てられたのである。そ
  の結果、硫黄島の日本軍は航空・海上戦力の支援をほとんど得
  られぬまま戦わざるをえなかった。
  防衛庁防衛研修所戦史室による戦史叢書(公刊戦史)『大本
  営陸軍部10 昭和二十年八月まで』は、硫黄島の陥落を大本営
  がどう受け止めたかについて、以下のように記述している。
 
   軍中央部は、硫黄島の喪失についてはある程度予期して
  いたことでもあり、守備部隊の敢闘をたたえ栗林中将の統
  帥に感歎するものの、格別の反応を示していない。
 
  「喪失についてはある程度予期」していたから「格別の反応
  を示」さなかったという。2万の生命を、戦争指導者たちは何と
  簡単に見限っていたことか。
  実質を伴わぬ弥縫策を繰り返し、行き詰まってにっちもさっ
  ちもいかなくなったら「見込みなし」として放棄する大本営。
  その結果、見捨てられた戦場では、効果が少ないと知りながら
  バンザイ突撃で兵士たちが死んでいく。将軍は腹を切る。アッ
  ツでもタラワでも、サイパンでもグアムでもそうだった。その
  死を玉砕(=玉と砕ける)という美しい名で呼び、見通しの誤
  りと作戦の無謀を「美学」で覆い隠す欺瞞を、栗林は許せなか
  ったのではないか。
  合理主義者であり、また誰よりも兵士たちを愛した栗林は、
  生きて帰れぬ戦場ならば、せめて彼らに”甲斐ある死”を与え
  たかったに違いない。だから、バンザイ突撃はさせないという
  方針を最後まで貫いたのであろう。
  (梯久美子氏著『散るぞ悲しき』新潮社、pp.228-229)
  ●東京大空襲(S20.3.10):M69焼夷弾による首都壊滅。
  罹災者100万人以上、死者83793人、負傷者40918人(11万以上と
 の報告もある)を数えた。
   (荒井信一氏著『戦争責任論』岩波書店、p.165)
   日本は3月10日にはじまって4月16日までに12回も大空襲を受けた。
  その内訳は東京(3.10)、名古屋(3.12)、大阪(3.13)、神戸
  (3.17)、名古屋(3.19)、名古屋(3.25)、東京西部(4.2)、
  東京(4.4)、東京周辺・名古屋(4.7)、東京(4.12)、東京市街
  (4.13〜14)、東京・横浜・川崎(4.15〜16)で、消失戸数全71万戸、
  戦災者数全314万にのぼった。
      (清沢洌氏著『暗黒日記』岩波文庫、pp.337-338)
    --------------------------------------
  「何千何万という民家が、そして男も女も子どもも一緒に、焼
  かれ破壊された。夜、空は赤々と照り、昼、空は暗黒となった。
  東京攻囲戦はすでに始まっている。戦争とは何か、軍国主義とは
  何か。狂信の徒に牛耳られた政治とは何か、今こそすべての日本
  人は真に悟らねばならない」(昭和20年6月12日)
  「どの新聞を見ても、戦争終結を望む声一つだになし。皆が平
  和を望んでいる。そのくせ皆が戦争、戦いが嫌さに戦っている。
  すなわち誰も己の意思を表明できずにいる。戦争は雪崩のような
  ものだ。崩れおちるべきものが崩れ落ちぬかぎり終わらない」
       (7月6日)
  「首相曰く、<国民個人の生命は問題にあらず、我国体を護持
  せねばならぬ>と」(7月9日)
 
  「十時、外国文學科の会。集まるほどのこともなし。<外国を
  知らぬから負けたんだ>と諸教授申される。<外国を知らぬから
  こんな馬鹿な戦争を始めたのだ>と訂正すべきものであろう」
        (9月5日、敗戦後)
   (以上、串田孫一・二宮敬編『渡辺一夫 敗戦日記』 、博文館新社)
    --------------------------------------
   # ルメイは「すべての住民が飛行機や軍需品をつくる作業に
   携わり働いていた。男も女も子供も。街を焼いた時、たくさ
    んの女や子供を殺すことになることをわれわれは知っていた。
    それはやらなければならないことだった」とのちに弁明している。
   (荒井信一氏著『戦争責任論』岩波書店、p.166)
   # 戦争終結までに空襲は中小都市を含む206都市に及び、94
   の都市が焼き払われた。終戦直後に内務省の発表した数字に
    よれば、全国で死者26万人、負傷者42万人、その大部分が非
    戦闘員であった。このようにおびただしい民間人の犠牲をだ
    したにもかかわらず、爆撃が軍事目標に向けられたことを強
    調する一方、無差別爆撃は意図していなかったとすることが、
    この戦争の最終段階におけるアメリカ軍の公式態度であり、
    この態度を固執することが非人道的な空爆にたいする道徳的
    批判を回避する常套手段となった。
  (荒井信一氏著『戦争責任論』岩波書店、pp.166-167)
   ※ 何と東京・日本大空襲の指揮官ルメイには、戦後自衛隊を
   作ったことで勲章までくれてやったという。ここまでくると
    アホらしくて唖然としてグーの音も出ませんなぁ。
  ●「軍事特別措置法」(S20.3.28)
   国民の一切の権利を制限し、私有財産にまで強権介入し、国民
  は本土決戦に備えて、いかなる抗弁、抵抗もできなくなった。
  ●米軍が沖縄本島に上陸(S20.4.1)
  ●戦艦「大和」の最後の出撃(特攻)と撃沈(S20.4.7/14:23)
   「大和」:46センチ砲9門、1億6000万円、1941年完成。
    全長263m、72808屯、27.46ノット、153553馬力。
    乗員3332人中269人救助。
   ※ 連合艦隊参謀長、草鹿龍之介(中将)曰く
   「いずれ一億総特攻ということになるのであるから、
   その模範となるよう立派に死んでもらいたい」(アホウ
   な屁理屈である)
   ※ 戦艦「大和」乗員の発言
   「連合艦隊の作戦というのなら、なぜ参謀長は日吉の
   防空壕におられるのか。防空壕を出て、自ら特攻の指揮
   をとる気はないのか」
   ※ 伊藤整一提督
   「まぁ、我々は死に場所を与えられたのだ」
   ※ 戦艦大和の最期がせまり、動揺する戦艦の兵士たちに向
   かって、哨戒長・臼淵大尉(当時21歳)は、囁く様にこう
   言うのだ。
 
   「進歩ノナイ者ハ決シテ勝タナイ 負ケテ目覚メル
  コトガ最上ノ道ダ 
   日本ハ進歩トイウコトヲ軽ンジ過ギタ 私的ナ潔癖
  ヤ徳義ニコダワッテ 本当ノ進歩ヲ忘レテイタ 敗レ
  テ目覚メル ソレ以外ニドウシテ日本ガ救ワレルカ 
  今目覚メズシテイツ救ワレルカ 俺タチハソノ先導ニ
  ナルノダ 日本ノ新生ニサキガケテ散ル マサニ本望
  ジャナイカ」
  (吉田満氏著『戦艦大和ノ最期』、哨戒長・臼淵大尉
   の言葉、講談社文芸文庫、p.46)
  
   戦艦大和の乗組員3332人のうち3063人が死亡、生存者は
  269人という。

   ※ 八杉康夫上等水兵(当時)が回想する最後の出撃
      「戦争がどんなにすさまじいか、酷いかを私が見たのは、
     あの沈没した日だった。血みどろの甲板や、吹きちぎれ、だ
     れのものか形さえとどめない肉片、重油を死ぬかと思うほど
     飲んだ海の中での漂流、我れ勝ちに駆逐艦のロープを奪い合
     う人々、私は、醜いと思った。このとき、帝国海軍軍人を自
     覚していた人が果たしてどれだけいただろうか。死ぬとは思
     わなかった。殺されると思った。『雪風』に拾い上げられた
     のは私が最後だった。それも、私と同じ年齢ぐらいの上等水
     兵が偶然見つけて救助してくれた。生きるか死ぬかのほんの
     一分にも満たない境だった。重油の海には、まだたくさんの
     人が、助けてくれッ、と叫んでいた。
      いったい何のための戦いだったのか、どうして、あんな酷
     い目に遭わねばならなかったのか、戦後、私が最初に知りた
     いと思ったのはそれだった。私が戦後を生きるという原点は、
     あの四月七日にあったと思っている」と、語っている。
     (辺見じゅん氏著『男たちの大和<下>』ハルキ文庫、p.197)
         --------------------------
       H18年現在、広島県福山市在住の八杉康夫氏(昭和2年
     生)は、H18.4.12日、筆者の住む岡山県井原市で講演さ
     れた。ストーリーは映画『男たちの大和』(辺見じゅん
     原作、佐藤純彌監督、2005年)に準ずるものであったが、
     帝国海軍は陸軍よりもはるかに人命を大事にしたらし
     く、「上官から『死ね』とは一度も言われなかったし、
     船が沈没して海上に放り出された時の生きる方法も軍
     事教練のなかで教えられた」ということだった。
         --------------------------
   ※ 「初霜」救助艇ニ拾ワレタル砲術士、洩ラシテ言ウ
      救助艇忽チニ漂流者ヲ満載、ナオモ追加スル一方ニテ、危
     険状態ニ陥ル 更ニ拾収セバ転覆避ケ難ク、全員空シク海ノ
     藻屑トナラン
      シカモ船べリニカカル手ハイヨイヨ多ク、ソノ力激シク、
     艇ノ傾斜、放置ヲ許サザル状況ニ至ル
     ココニ艇指揮オヨビ乗組下士官、用意ノ日本刀ノ鞘ヲ払イ、
     犇メク腕ヲ、手首ヨリバッサ、バッサト斬り捨テ、マタハ足
     蹴ニカケテ突キ落トス セメテ、スデニ救助艇ニアル者ヲ救
     ワントノ苦肉ノ策ナルモ、斬ラルルヤ敢エナクノケゾッテ堕
     チユク、ソノ顔、ソノ眼光、瞼ヨリ終生消エ難カラン
     剣ヲ揮ウ身モ、顔面蒼白、脂汗滴り、喘ギツツ船べリヲ走り
     廻ル 今生ノ地獄絵ナリ
     (吉田満氏著『戦艦大和ノ最期』講談社文芸文庫、p156)
   ※ 清水芳人少佐(当時)の戦闘詳報
      戦闘が終わると、どの艦でも戦闘詳報が書かれる。戦闘
     詳報 は、戦略・戦術を記載し、次の戦いへの教訓ともなる
     報告書で、連合艦隊司令部へ提出される。
      「戦況逼迫セル場合ニハ、兎角焦慮ノ感ニカラレ、計画
     準備二余裕ナキヲ常トスルモ、特攻兵器ハ別トシテ今後残
     存駆逐艦等ヲ以テ此ノ種ノ特攻作戦ニ成功ヲ期センガ為ニ
     ハ、慎重ニ計画ヲ進メ、事前ノ準備ヲ可及的綿密ニ行フノ
     要アリ。『思ヒ付キ』作戦ハ、精鋭部隊(艦船)ヲモ、ミ
     スミス徒死セシムルニ過ギズ」
      この「大和」戦闘詳報には、これまでの戦闘報告には類
     を見ない激烈な怒りがつらねられている。
      沖縄突入作戦が唐突に下令され、「大和」以下の出撃が、
     「思ヒ付キ」作戦であり「ミスミス徒死セシムル」ものだ
     ったという遺憾の思いで埋まっている。
     (辺見じゅん氏著『男たちの大和<下>』ハルキ文庫、p.202)
 
  ●沖縄戦と沖縄県民の悲劇(S20.4.1〜6.23)
    昭和20年3月26日、硫黄島の戦いで栗林中将が戦死した、まさ
   にその早朝、硫黄島から西に1380km離れた沖縄・慶良間列島に
   陸軍第77師団が奇襲上陸。これが沖縄戦の始まりとなった。
   昭和20年4月1日アメリカ軍が沖縄本島の中西部海岸に上陸。
  5月15日は那覇周辺で戦闘激化。この沖縄戦は本土決戦そのも
  ので、時間稼ぎの意味をも持って、沖縄住民は「本土の盾」と
  して犠牲になった。満17歳から45歳未満の男子はみな戦争参加
  を強要され、軍に召集された。戦場では子どもや老人や婦人や
  負傷者といった弱い者から順に犠牲になった。彼等は邪魔物扱
  いにされ、あるいは自決やおとりを強要された。また泣き声で
  陣地が暴露されるという理由で日本軍兵士に殺された。兵士た
  ちは、与えられた戦場で、やみくもに戦って死んで行くという
  役割だけを押しつけられていた。沖縄県民の死者は15万人とも
  20万人ともいわれる。実に県民の3人に1人が亡くなったのであ
  る。
 
    # 海軍根拠地隊司令官・大田実少将(6.13に豊見城村の司
   令部濠で自決)からの海軍次官あて電報(S20.6.6)
   「若キ婦人ハ率先軍ニ身ヲ捧ケ 看護婦烹飯婦ハモト
   ヨリ 砲弾運ヒ 挺身斬込隊スラ申出ルモノアリ 所詮 
   敵来タリナハ老人子供ハ殺サレルヘク 婦女子ハ後方ニ運
   ヒ去ラレテ 毒牙ニ供セラレヘシトテ 親子生別レ 娘ヲ
   軍衛門ニ捨ツル親アリ 看護婦ニ至リテハ 軍移動ニ際シ
   衛生兵既ニ出発シ身寄リ無キ重傷者ヲ助ケテ・・・
   沖縄県民斯ク戦ヘリ 県民ニ対シ後世特別ノ御高配ヲ賜
   ランコトヲ・・・」(浅田次郎氏著『勇気凛凛ルリの色
   四十肩と恋愛』講談社文庫、p.60)
    # 「恐ろしきかな、あさましきかな、人類よ、猿の親類よ」
   (長谷川信、『きけわだつみのこえ』より)
    # 米軍は日本軍を評して兵は優秀、下級幹部は良好中級
   将校は凡庸、高級指揮官は愚劣といっているが、上は大本
   営より下は第一線軍の重要な地位を占める人々の多くが、
   用兵作戦の本質的知識と能力に欠けているのではないかと
   疑う。(理知的な作戦参謀八原博道の言葉、保阪正康氏著
   『昭和陸軍の研究<下>』より引用)
    # 沖縄戦の研究者である石原昌家沖縄国際大学教授は、
    『争点・沖縄戦の記憶』(社会評論社)の中で、沖縄戦の
    住民犠牲を、次の三つの類型に大別しています。1.米英両
    軍の砲爆撃死、2.日本軍(皇軍)による犠牲、3.戦争に起
    因する犠牲。
     石原氏はそれらをさらに細かく分けていますが、ここで
    は簡略化してまとめておきます。
    1. は米英軍の空襲や艦鞄射撃、地上戦での砲・銃撃、洞窟
    や壊への攻撃、虐殺、強姦による死などです。
    2. は日本軍(皇軍)による住民の死で、スパイの疑いをか
    けたり、食料や濠の提供を渋ったなど非協力的であった
    ことを理由とした殺害。濠の中で泣く乳幼児の殺害や軍
    による濠追い出しによって砲撃にさらされたり、強制退
    去でマラリアや栄養失調に追いやられたことによる死、
    日本軍の指示、強制による「集団死」などです。
    2. は非戦闘地域での衰弱死、病死、ソテツなどを食べた中
    毒死、収容所内での衰弱死、住民同士のスパイ視殺害、
    食料強奪死、米潜水艦による疎開船、引き揚げ船などの
    撃沈死などです。
     注意しなければいけないのは、牛島満司令官らが自決して
    日本軍が壊滅し、組織的戦闘が終わったとされる6月22日や、
    日本が無条件降伏した8月15日以降も、これらの類型の中の
    いくつかの死は続いていたということです。久米島での日本
    軍守備隊による仲村渠明勇さん一家の虐殺が起こつたのは8月
    13日だし、谷川昇さん一家が虐殺されたのは8月20日です。
    マラリアなどの病死、衰弱死は二、三年経っても続いていま
    した。(目取真俊氏『沖縄「戦後」ゼロ年』NHK出版、
    pp.60-61)
 
  ●ドイツ軍無条件降伏(S20.5.7)<---ヒトラー自殺(1945.4.30)
   ●日本本土無差別爆撃(最高指揮官カーティス・ルメイ)
    # 横浜大通り公園「平和祈念碑由来之記」より
     「一九四一年十二月八日、日本軍の米国真珠湾軍港に対
    する奇襲攻撃により、大日本帝国は連合国軍との間に戦端
    を開くに至った。その後一九四五年八月十五日に至り、わ
    が民族の滅亡を憂うご聖断により漸く敗戦の日を迎えた。
     その間、三年九ケ月余。政・軍・官の情報統制の下、一般
    庶民は戦争の実相を知らされることなく、ひたすら盲従を
    強いられた日々であった。戦線が次第に日本本土に近づく
    につれ、米軍機による空爆は職烈を極め、国内百数十の都
    市が軍事施設・民間施設の別なく攻撃を受け、非武装の一
    般民衆が多数犠牲となった。(後略)」
      (近藤信行氏著『炎の記憶』新潮社、p.49)
    # 「宇都宮平和記念館建設準備会」藤田勝春氏のノートより
     「非戦闘員と、その住まいに容しゃなく襲いかかった、
    この無差別爆撃は、”みな殺し”空襲であった。軍都の
    名にふさわしく、宇都宮には数多くの軍事施設があった。
    が、なぜか、その施設は何ら爆撃されていないのである。
    明らかに、米軍の目的は、一般市民を焼き殺す、いわば
    ”無差別絨椴爆撃”によるみな殺しにあったことは、こ
    れで理解されるところである。
     ところでどういうわけか宇都宮の歴史の中で最も大き
    な火災ともいうべきこの空襲の実態が市民に明かされて
    いなかった。あっても、それはほんの数字的なものばか
    りで味もそっ気もなかった。つまり市民の眼で、市民の
    心で編まれた総合的な記録というものがなかったのであ
    る。そして戦後三十年を迎える今危うく歴史のそとへ押
    し出され、忘却の彼方へ押しやられようとしていたこの
    空襲の”真実の糸”が、市民の手によって編まれるよう
    になった。痛々しい戦災の傷痕は、長い歳月の風化に耐
    え、やはり市民の心に静かに、しかも深く息づいていた
    のであった」(近藤信行氏著『炎の記憶』新潮社、p.63)
    # 戦時下の国民にとって、米国の撒いた”伝単(避難を促す
    警告ビラ)”は見てはならぬものだった。
     「あなたは自分や親兄弟友達の命を助けようとは思ひ
    ませんか助けたければこのビラをよく読んで下さい。
    数日の内に裏面の都市の内四つか五つの都市にある軍事
    施設を米空軍は爆撃します。この都市には軍事施設や軍
    需品を製造する工場があります。軍部がこの勝目のない
    戦争を長引かせる為に使ふ兵器を米空軍は全部破壊しま
    す。けれども爆弾には眼がありませんからどこに落ちる
    か分りません。御承知の様に人道主義のアメリカは罪の
    ない人達を傷つけたくはありません。ですから真に書い
    てある都市から避難して下さい。アメリカの敵はあなた
    方ではありません。あなた方を戦争に引っ張り込んでゐ
    る軍部こそ敵です。アメリカの考へてゐる平和といふの
    はたゞ軍部の庄迫からあなた方を解放する事です。さう
    すればもっとよい新日本が出来上るんです(中略)
     この裏に書いてある都市でなくても爆撃されるかも知
    れませんが少くともこの裏に書いてある都市の内必ず四
    つは爆撃します
     予め注意しておきますから裏に書いてある都市から避
    難して下さい」。
     裏には爆撃中のB29の写真に、攻撃目標の11都市が、
    日本の丸い印鑑のようなかたちで刷りこまれている。
    青森、西宮、大垣、一ノ宮、久留米、宇和島、長岡、函
    館、郡山、津、宇治山田だった。アメリカ軍資料による
    と、長岡には7月31日午後9時39分、8月1日午後9時27分の
    2回にわたってまかれている。
      (近藤信行氏著『炎の記憶』新潮社、p.75)
    # 長岡空襲で孤児になった原田新司氏の記憶
     「どこかへ避難しているとおもっていたんですね。しか
    し、知人に会って尋ねてみると、原田屋さん、見かけなか
    ったなあという返事がかえってきました。平潟神社にいく
    と、死体が山のようになっている。信濃川の土堤を探して
    もみあたりません。一日中探しまわって、疲れはてて、夕
    方、焼跡にかえると、火はどうにかおさまっていて、中に
    入ることができました。すると、瓦礫のなかから祖母や両
    親の持物が出てきました。箪笥の鍵、水晶の印鑑。両親の
    死はその持物でわかりました。遺体は焼けただれて俯せに
    なっていました。庭の奥のほうに井戸があったんですが、
    その近くから女学生のバックルが出てきた。しかし妹たち
    の姿はみあたりません。遺骨だけがありました……。祖母
    57歳、父37歳、母は38歳でした。上の妹は女学校1年生、
    12歳でした。そして9歳、6歳、3歳の妹たち……。みんな
    いっペんに死んでしまったんです。いまでも街で女の子の
    うしろ姿をみると、妹たちのことを想い出します。焼け死
    んだ妹たちのことが忘れられませんね」
     (近藤信行氏著『炎の記憶』新潮社、pp.89-90)
    # 富山は人口10万人、空襲の死者は2275人。大被害だった。
     神通川の河原では、多くの人が死んだ。その堤防と並行
    するように松川の流れている個所があるが、そこでも死屍
    累々だった。東のいたち川でもおなじだった。母と妹を失
    った政二俊子さん(三上在住)は、神通川手前の護国神社
    にはいったとたんに「ブスブスブスと土煙をあげる機銃掃
    射を浴びた」といい、「ふと土手に目をやると、黄燐焼夷
    弾や油脂焼夷弾が真っ赤な光の噴水を上げるように火花を
    ひろげ、その中を黒い影がうごめいているのがうつる。
     ……火炎に映えた真っ赤な敵機は、無防備の都市を悠々
    と飛翔し、物量に物を言わせて投下を続ける。こんな火の
    中では、猫の子一匹助かりっこないと思われた」と書いて
    いる。(近藤信行氏著『炎の記憶』新潮社、p.102)
    # 熊谷空襲、長島二三子氏の詩
     死者たちよ 戦争で死んだものたちよ
     赤児も 大人も 年寄りも
     黄色も 黒も 白瞥
     轟然と声をはなって泣け
     生きている者たちに その声を忘れさせるな
      (近藤信行氏著『炎の記憶』新潮社、p.183)
    # アメリカの詩人ジョン・チアルディ(日本爆撃に参加)
     「カーティス・ルメイがきて、作戦は全面的に変更され
    た。ルメイは第八空軍の司令官だったが、第20空軍を引き
    つげというわけで、ここへきたんだった。その第20空軍に
    私はいた。まず戦術に変更があった。ルメイは、夜間空襲
    せよ。5000フィートでやれ、銃撃なし、後部にふたりの
    チェックマンを配置せよ、といった。これで回転銃座と弾
    薬の重量が変わる。日本軍は戦闘機で夜間戦うことはしな
    い。レーダーもない。焼夷弾をおとせばいい、っていった
    んだ。家にすごい写真をもってるんだ。トーキョーが平坦
    な灰の面になっている。ところどころに立っているのは石
    造りのビルだけだ。注意深くその写真をみると、そのビル
    も内部は破壊されてる。この火炎をのがれようと川にとび
    こんだものもいたんだ。その数も多く、火にまかれて、み
    んな窒息してしまった。……
     私としては優秀戦士になろうなんて野心はなかった。私
    は自分に暗示をかけた。死んでもやむをえないんだってね。
    それには憎しみが必要だから、日本人ならだれもが死ねば
    いいとおもった。
     たしかにプロパガンダの影響もあったが、同時に、実際
    自分たちが耳にしたことも作用していた。なにしろ敵なん
    だ。その敵を潰滅させるためにここへきてるんだ。そんな
    兵隊特有の近視眼的発想があった」。
     (近藤信行氏著『炎の記憶』新潮社、p.201)
    # 帰り掛けの駄賃:日本最後の空爆、小田原空爆
      (近藤信行氏著『炎の記憶』新潮社、p.202-)
    # 島田豊治氏体験記(『東京被爆記』より)
     「ひとかたまりにうずくまり、降り注ぐ火の粉と飛んで
    来る物から身を守るため、トタン板をかぶっていた。弟の
    防空ずきんに火がついて燃え上がった。父が素手でもみ消
    していた。その間に母が見えなくなっているのに気がつか
    なかった。母を捜しに川岸近くまでにじりよってみたが、
    そこは魔のふちであった。男も女も、年寄りも子どもも、
    折重なって川に落ちころげていた。こうして、母を捜すこ
    ともできずに、長い悪夢の夜を過ごしたのだった。
     朝になり、恐ろしい光景があちこちにあった。地上の物
    はすべて燃え尽され、異様な臭気がただよっていた。それ
    からの毎日は、生死不明の母を捜すことに明け暮れた。焼
    けこげた死体のまわりに品物を求め、水死体を引寄せては
    顔をあらためて見たりした。あちこちにバラックが立つよ
    うになってからも、病院から病院へと足を棒にして歩き続
    けた。どんな姿になっていてでも生きてさえいたらそれだ
    けを祈って捜しまわったが、姿はもとより消息すらわから
    なかった」(近藤信行氏著『炎の記憶』新潮社、p.224)
  ●沖縄守備軍全滅(S20.6.23)
   "鉄の暴風"(砲撃)。戦死9万人、一般市民の死者10万人。
  ●国民義勇隊結成のすすめと法的枠付け(S20.6)
   15歳以上60歳までの男子と17歳以上40歳までの女子に義勇兵
  役を課す。これが国家総力戦構想のなれの果ての姿だった(国
  民総員特攻化)。
   日本陸軍は人間特攻として戦車やアメリカ軍に突入する玉砕
  要員が欲しかっただけのことである。
  ●国民義勇隊の兵器展示(S20.7)
   手りゅう弾、単発銃(元亀天正の銃)、竹ヤリ、弓、さす叉、
  鎌、鉈、玄翁、出刃包丁、とび口など。
   こういう発想を平気で行う軍人は狂人という他なく、呆れ果
  てるばかりである。
   結局、昭和陸軍は、あらゆる戦力が尽きつつあったときに、
  本土決戦という名の玉砕を目指していたのだ。
  ●満州への定住者約130万人
  ●敗戦時の海外の日本人
   軍人・軍属:約353万人、民間人:約306万人
    (昭和20年、『昭和 二万日の全記録』講談社)
  ●プルトニウムを用いた人類最初の原爆実験成功(1945.7.16)
  ●ソビエト軍の満州進攻(S20.8.8)
   ソビエト軍は将兵160万人、戦車等5000台余り、航空機4000機
  以上という圧倒的兵力で満州になだれ込んだ。ソビエト軍は、南
  へと逃れる開拓団の老若男女を殺戮し、ハルビンで、新京で、奉
  天で、破壊と略奪の限りを尽くした。満州国の充実した重工業の
  設備を肇、主要な機械や財貨などすべてがソビエトに持ち去られ
  た。そのなかには、何ら国際法上正当性にない仕方で連れ去られ
  、抑留された60万人の将兵や官吏らもいた。
 
   <日本人難民、棄民、捨駒以下、中学生の囮兵>
  軍および政府関係の日本人家族だけが、なぜ特別編成の列
  車で新京を離れられたのか。この年の秋までに日本へ帰りつ
  いた人びともある。生きのこったことを責めようとは思わな
  い。しかし、決定権をもち、いち早く情報をとらえ得た人た
  ち、その家族の敗戦は、一般の在満居留民とは異なった。身
  勝手な軍人たちの判断の詳細とその責任は、現在に至るまで
  あきらかにされていない。軍人たちにより、明白な「棄民」
  がおこなわれた。軍中央も政府も、承知していたはずである。
  切り棄てることがきまった土地へ、女学校と中学校の三年
  生が動員されている。たまたまわたしは、その動員学徒の一
  人として開拓団生活を体験している。それを小さな文章に書
  いた縁で、新京第一中学校三年生の「運命」を知った(英文
  学者の小田島雄志氏の同級生たち。小田島さんとわたしには、
  新京室町小学校の一年一学期、同級だった縁がある。知った
  のは何十年ものちのこと)。
  新京一中の三年生は三つのグループにわけられ、そのうち
  の126名が5月28日、「東寧隊」として東満国境近くの東寧報
  国農場に動員された。
  この日付は、大本営が「朝鮮方面対ソ作戦計画要領」を関
  東軍に示達する2日前。同要領によって、京図線の南・連京線
  の東という三角地帯が定まったのだが、南満と北朝鮮へ重点
  変更の作戦計画は、20年1月上旬にはじまっていた。さらに
  新京一中生の動員は、予定よりも1か月間延長になっている。
   8月9日未明、ソ連参戦。東寧は穆稜(ムリン)などと同様、
  国境にいた関東軍がほとんど全滅した一帯である。関東軍に
  あって、国境部隊は時間かせぎの捨駒以下だった。『人間の
  条件』の主人公は、穆稜の戦闘で奇蹟的に生きのこる。作者
  自身の体験が裏付けにある。東寧の陣地には、彫刻家の佐藤
  忠良氏もいて、「地獄」を体験、ソ連軍の捕虜となり、シベ
  リア送りとなった。
  現役部隊がほぼ全滅し、生きのこる成算のほとんどなくな
  る国境地帯へ、なぜ14か15の中学生を動員したのか。しかも、
  ソ連参戦まで動員は継続された。列車は不通となり、国境線
  の戦闘が終ったあと、中学生たちは歩いて新京の親もとまで
  帰る。大陸の広大さ、伝染病と餓え、北満のきびしい寒気、
  そしてソ連軍の銃火と中国人の憎悪。中学生たちは70余日の
  避難行をし、乞食姿の幽鬼のようになって新京へたどりつく
  が、四人が途中で亡くなった。
  体験者の一人谷口倍氏が『仔羊たちの戦場−ボクたち中
  学生は関東軍の囮兵だった』を出版するのは1988年。体験か
  ら40年以上経ってである。
   (澤地久枝氏著『わたしが生きた「昭和」』
      岩波現代文庫. p210-213)
  ●原爆投下:広島(S20.8.6=ウラン)
    長崎(S20.8.9=プルトニウム)
   トルーマンにとって必要だったのは、ソビエトを怯えさせるこ
  と、アメリカの優位をスターリンに認めさせ野放図な振る舞いを
  慎ませることだった。そのために「世界中を焼き尽くす業火」を、
  降伏する前の日本に対して、使用しなければならない。7月26日
  に発表された「ポツダム宣言」にたいして、アメリカはソビエト
  の署名を求めなかった。その炎が燃えさかった時、スターリンは
  新大統領(トルーマン)がなぜかくも強硬だったかを知るだろう。
   (福田和也氏著『地ひらく』文藝春秋より)
 
   ※ 「そりゃもう目もあてられん状態じゃけェ、あっちにも
   こっちにも黒焦げになった人が転がっとるんよ。だれがだ
   れやら見分けがつかんのじゃ、むごいことじゃ。あっちこ
   っちで焼いとるんじゃけェ、たまらんのよその匂いがのう、
   赤ん坊を抱いたまま死んどってんよ、電車でも焼け死んど
   りんさる。腐って蛆がわいとりんさる。薬がないんよ、ヨ
   ードチンキを塗るぐらいじゃのう、死に水をとったげるた
   めにきたようなもんじゃよ」(新藤兼人氏の姉の話)
  (新藤兼人氏著『新藤兼人・原爆を撮る』新日本出版社、p.10)
    ************   ************   ************
   ※  6月6日にスチムソンは、5月31日の暫定委員会の決定を
    大統領に報告した。その時には、「大量の労働者を使用し、
    労働者住宅群にびっしり取り囲まれている重要な軍需工場」
    という投下目標が実際には住民の大量殺教を意味すること
    は知っていたのである。
     したがって、トルーマンが日記に書いている女、子供を
    投下目標にしないというスチムソンとの合意を額面通りに
    受け取ることは到底できない。
     実際にも原爆による直接の被害を受けたのは、軍人より
    も圧倒的に多数の民間人であった。広島の場合でいえば、
    軍人の被爆者は4万人以上、軍人以外の直接被爆者の数は31
    万から32万人であったと考えられている。
     また被爆者の意識には、「原爆によってもたらされたの
    は、一瞬にして人間や人間の生の条件そのものを壊滅させ
    炎上させる非人間的な世界、ホロコーストの世界にも匹敵
    できる地獄」としてとらえられている。
    そのような被爆のイメージをあらわしたものに深水経孝
    の絵物語『崎陽のあらし』がある。被爆した後中学教師と
    なった深水は、被爆体験を記録として後世に残すため、ま
    だ惨劇の記憶の生々しい1946年夏にこの絵物語を描いた。
    そこには天を仰いで路上に倒れる女、子供、母子、両眼
    を失い天に祈る乙女、火焔をあげるバスの中で倒れ這いだ
    そうとして力尽き焼け焦げる人、火中に退路を絶たれ防火
    用水に飛び込み悶絶する人々などが燃えさかる市街を背景
    に描かれ、心にやきついた被爆の原風景が如実に再現され
    ている。
     深水は絵に添えた文章のなかで、この原風景を「古の修
    羅もかくて」とか、「いずれも悲しきことながら、之の世
    の事とも思われず」、あるいは「されどこれ、地獄という
    も愚かなり。想え、外道、天日の晦きを」などと形容して
    いる。被爆直後の心象として刻まれた世界は「この世の外」
    、「地獄」、「外道」 の世界、まさに人間が非人間化
    されるこの世の終末、すなわちホロコーストの世界であっ
    た。 (荒井信一氏著『戦争責任論』岩波書店、pp.174-175)
    ************   ************   ************
      <祈りの長崎>(永井隆の弔辞)
   「原子爆弾がわが浦上で爆発し、カトリック教徒8000人の
   霊魂は一瞬にして天主のみ御手に召され、猛火は数時間にし
   て東洋の聖地を廃墟とした。しかし原爆は決して天罰ではあ
   りません。神の摂理によってこの浦上にもたらされたもので
   す。これまで空襲によって壊滅された都市が多くありました
   が、日本は戦争を止めませんでした。それは犠牲としてふさ
   わしくなかったからです。神は戦争を終結させるために、私
   たちに原爆という犠牲を要求したのです。戦争という人類の
   大きい罪の償いとして、日本唯一の聖地である浦上に貴い犠
   牲の祭壇を設け、燃やされる子羊として私たちを選ばれたの
   です。そして浦上の祭壇に献げられた清き子羊によって、犠
   牲になるはずだった幾千万の人々が救われたのです。子羊と
   して神の手に抱かれた信者こそ幸福です。あの日、私たちは
   なぜ一緒に死ねなかったのでしょう。なぜ私たちだけが、こ
   のような悲惨な生活を強いられるのでしょうか。生き残った
   者の惨めさ、それは私たちが罪人だったからです。罪多きも
   のが、償いを果たしていなかったから残されたのです。日本
   人がこれから歩まなければいけない敗戦の道は苦難と悲惨に
   満ちています。この重荷を背負い苦難の道をゆくことこそ、
   われわれ残された罪人が償いを果たしえる希望なのではない
   でしょうか。カルワリオの丘に十字架を担ぎ、登り給いしキ
   リストは私たちに勇気を与えてくれるでしょう。神が浦上を
   選ばれ燔祭に供えられたことを感謝いたします。そして貴い
   犠牲者によって世界に平和が再来したことを感謝します。願
   わくば死せる人々の霊魂、天主の御哀れみによって安らかに
   憩わんことを、アーメン」(鈴木厚氏著『世界を感動させた
   日本の医師』時空出版、pp.28-29)
  ●陸相の布告(アホ丸出し、S20.8.11読売新聞より)
    全軍将兵に告ぐ
    ソ聯遂に鋒を執つて皇国に寇す
    名分如何に粉飾すと錐も大東亜を侵略制覇せんとする野望
     歴然たり
    事ここに至る又何をか言はん、断乎神洲護持の聖戦を戦ひ
     抜かんのみ
    仮令(たとへ)草を喰み土を噛り野に伏するとも断じて戦
     ふところ死中自ら活あるを信ず
    是即ち七生報国、「我れ一人生きてありせば」てふ楠公救
     国の精神なると共に時宗の「莫煩悩」「驀直進前」以て
     醜敵を撃滅せる闘魂なり
    全軍将兵宜しく一人も余さず楠公精神を具現すべし、而し
     て又時宗の闘魂を再現して驕敵撃滅に驀直進前すべし
       昭和二十年八月十日  陸軍大臣
    「何をか言はん」とは、全く何をか言わんやだ。国民の方で
   指導側に言いたい言葉であって、指導側でいうべき言葉ではな
   いだろう。かかる状態に至ったのは、何も敵のせいのみではな
   い。指導側の無策無能からもきているのだ。しかるにその自ら
   の無策無能を棚に挙げて「何をか言はん」とは。鳴呼かかる軍
   部が国をこの破滅に陥れたのである。(高見順氏著『敗戦日記』
   中公文庫、pp.294-295)
  ●「降伏文書」調印式(S20.9.2)
   ●スターリンの対日勝利宣言(S20.9.2)
    敗戦当時まだ有効であった日ソ中立条約を無視して参戦し、
   国後島を占拠したスターリンは対日勝利宣言を行った。

    「日本の侵略行為は、1904年の日露戦争から始まってい
   る。1904年の日露戦争の敗北は国民意識の中で悲痛な記録
   を残した。その敗北は、わが国に汚点を留めた。わが国民
   は日本が撃破され、汚点が払われる日の到来を信じて待っ
   ていた。40年間、われわれの古い世代の人々はその日を待
   った。遂にその日が到来した」。
   (山室信一氏著『日露戦争の世紀』岩波新書、pp.ii〜iii)

  ●731石井細菌部隊の残虐性、神風特攻隊、人間魚雷、
   竹槍訓練・・・等々。
   ●敗戦後の特務団の山西省残留
   9月9日、南京で中国における降伏調印式があった。
   しかし蒋介石率いる国民党の司令長官閻錫山と北支派遣軍
   司令官澄田懶四郎が密約をして当時の残留兵59000人を国
   民党に協力させ八路軍(中国共産党)と戦わせようと図っ
   た。
    結果的には約2600人が山西省に残留し、敗戦後なお4年
   間共産軍(毛沢東)と戦った。(奥村和一・酒井誠氏著
   『私は「蟻の兵隊」だった』岩波ジュニア新書、pp.35-42)
  ●シベリア抑留:約57万5000人中約6万人が死亡。
   スターリンは北海道占領をあきらめる代わりに、北方四島と日
  本人捕虜を戦利品として獲得した。シベリア抑留の真相は敗戦処
  理とその後の東西冷戦という政治的駆け引きのなかでスターリン
  の思いつきから生まれた公算が大きい。
    (保阪正康氏著『昭和陸軍の研究<下>』より)
 
  ★敗戦時、日本国籍の者は外地に629万702人いた。
  旧満州国からの引き揚げにあたっては、関東軍将校が自らの家族を優先
  させて帰国させてしまい、民間人を見捨てたという状態になった。中国残
  留孤児問題はその結末の一つである。

   <森正蔵『あるジャーナリストの敗戦日記』(ゆまに書房)p.37より>
   満州の事情は大ぶんひどいらしい。樺太でも左様であるが、ソ聯兵
   の暴行が頻々として伝はれてゐるほかに、満軍の反乱が相次いで起り、
   満人や鮮人の暴徒が邦人を襲つたりしてゐる。関東軍は武装解除をし
   たのだから、もう何の力もないわけである。そして醜態を現はしてゐ
   るのは、関東軍の将校たちで、いち早く三個列車を仕立てゝ自分たち
   の家族をまづ避難さした。満鉄社員、満州国の日系官吏がそれに続い
   て家族を避難させ、取残された一般邦人がひとりさんざんな目に遭つ
   てゐる。戦争情態に入つた新京では親衛隊が離反して皇帝の身辺が危
   くなつた。そこで通化にお遷ししたのだが、通化からさらに日本にお
   遷しするために、奉天の飛行場までお連れして来たところを、降下し
   たソ聯の空挺隊のために抑へられてしまつた。それは十九日のことで
   あるが、それ以後今日まで、皇帝の御身体は赤軍の手中にあるのであ
   る。

  <以下、順不同に悪魔の所業を書き出しておく>
   ※ 昭和15年頃、第一線部隊の師団長、旅団長、野戦病院長ま
   でもが女と暮らしていたのには驚いた・・・。日米開戦当時
   陸軍でも、海軍でも一部の幹部は陣中で兵の苦労をよそに着
   物姿だった。
 
   ※ 激変する雨と川の関係は、さまざまな配慮を人間に要求す
   る。サバのラナウーサンダカンの道路は、ボルネオを横断す
   る唯一の道だが、それは川から遠く離れた高い固い地面を選
   び選び走っている。バス旅行に慣れた今日の人間は、自然の
   厳しさを忘れるようになっていく。
   実際この知識と配慮がなかったために、ここを強行軍させ
   られた日本軍兵士は、山中で無残に溺死した。水が引くとか
   れらの死体は樹々の高みにひっかかっていた。(鶴見良行氏
   著『マングローブの沼地で』朝日選書;1994:293)
 
   ※ サイパンの戦い(田中徳治氏『我ら降伏せず』(サイパン
   玉砕戦の狂喜と現実)などより)
 
    ・・酒だ。ムラムラッと怒りがこみあげてきた。こん
   な安全な洞窟の中で、酒を飲みながら、作戦指揮とは・
   ・・。この連中は一体全体、昨日の無謀な戦闘を知って
   いるのだろうか。よくも酒など飲んでいられるものだ。
   我々は部下も戦友も次々失い、空腹も忘れ、無我夢中で
   戦っている。それにくらべ・・・と思うと、怒りと同時
   に全身から力がガックリと抜けてしまった。我々を指揮
   する最高司令官がこれでは、と思うと情けなくなった、
   不動の姿勢が保てなかった。気力をふりしぼってやっと
   報告に立った。
   田中:「以後、的確なる命令と、各部隊の密接なる戦闘
    計画なくば敗戦の連続です」
   斎藤:「バカ!的確な命令とは何事だ。命令を何と心得
    とるか。大元帥陛下の命令なるぞ。軍人は死する
    は本望だ。兵士は師団長の命令通り動き、死せば
    よいのだ」
   田中:「閣下、我々軍人は命令に従って死せば戦闘に勝
    てるのですか。尊い生命を惜し気もなく、一片の
    木の葉か、一塊の石の如く捨てれば勝てるのです
       か」
   (斎藤はこの後田中徳治氏に「無礼者」といい、軍扇で
   頭を殴り、田中氏を狂人呼ばわりして司令部を追い出し
     た)。
 
    田中徳治氏の書にある兵士は、故郷を思い、父母の名
   を叫び、そして絶望的な気持ちで死んでいっている。彼
   らは司令官を、そして大本営作戦参謀を呪い、恨み、そ
   して死んでいったことだけはまちがいあるまい。
    (保阪正康氏著『昭和陸軍の研究<下>』より)
 
   ※ ガダルカナル最前線(元陸軍中尉、小尾靖夫の手記より)
   「立つ事の出来る人間は・・寿命30日間。体を起こして座
   れる人間は・・3週間。寝たきり、起きられない人間は・・
  1週間。寝たまま小便をする者は・・3日間。もの言わなく
   なった者は・・2日間。またたきしなくなった者は・・明日。
   ああ、人生わずか五十年という言葉があるのに、俺は齢わず
   かに二十二歳で終わるのであろうか」(昭和17年〜18年)
 
   ※ ブーゲンビル島ブイン飛行場(昭和18年4月頃)
   飛行場のまわりは、昼なお暗きジャングルである。マラリ
   ア蚊が跳梁し毒蛇や鰐が横行している。こんな、とても人が
   住めない密林のなかで、日本海軍の男たちは戦っていたのだ。
  (星亮一氏著『戦艦「大和」に殉じた至誠の提督 伊藤整一』)
 
   ※ 馬を引いて前線に届けるのが任務である。「馬は軍にとっ
   て大変大切だ。おまえらは一銭五厘の切手で召集できるが馬
   はそうはいかぬ。おまえらより馬のほうが大切なのである」
     
   「昭和15年召集、入隊してそこで待っていたのは、毎日
  のようなしごきでした。教官はお前たちの命は九牛の一毛
  より軽いということで兵隊の命なんか上の方では、人権な
  んか余り考えてなかったような気がします」
     (朝日新聞、H10.12.2朝刊より)
 
   ※ 絶叫でもなく、悲鳴でもない。動物の呷きにもにた男の声
   が残った。暴れる男は太い幹にくくりつけられた。何が始ま
   るのか初年兵全員が分かっていた。・・・「突け!」。剣のつ
   いた小銃を持った初年兵が木に向けて走った。・・・約50人
   の初年兵が次から次へと突いた。男の内蔵は裂け、ぼろぞう
   きんのようになった。体はどす黒い血の塊となって木の下に
   崩れた。(朝日新聞、H10.12.1日朝刊より)
 
   ※ 私は既に日本の勝利を信じていなかった。私は祖国をこん
   な絶望的な戦いに引きり込んだ軍部を憎んでいたが、私がこ
   れまで彼等を阻止すべく何事も賭さなかった以上、今更彼等
   によって与えられた運命に抗議する権利はないと思われた。
   一介の無力な市民と、一国の暴力を行使する組織とを対等に
   おくこうした考え方に私は滑稽を感じたが、今無意味な死に
   駆り出されて行く自己の愚劣を笑わないためにも、そう考え
   る必要があったのである。
   しかし夜、関門海峡に投錨した輸送船の甲板から、下の方
   を動いて行くおもちゃのような連絡船の赤や青の灯を見て、
   奴隷のように死に向かって積み出されて行く自分の惨めさが
   肚にこたえた。(大岡昇平氏『俘虜記』より)
 
   ※ 師団長や参謀たちが何だというのだ。彼らは私にとって、
   面と向かって反抗できない存在だ。その点では班長や下級将
   校も同様だが、班長や下級将校は、私たちと同様に彼らに使
   われているのだ。あいつらやあいつらよりもっと上の連中た
   ちが、こんな馬鹿げた戦争をしているのだ。ああいう連中に
   なりたがっている連中もいるわけだが、しかし、私は、結局
   は、あいつらに使われる状態から逃れられないのだ。
   私は、彼らに対して、そう思っていた。挙国一致だと。糞
   食らえだ。尽忠報国だと。糞食らえだ。心中ひそかに悪態を
   ついてみたところで、もうどうなるものでもない、と思いな
   がら、私は悪態をついていたのだ。
   気力なし、体力なし、プライドなし、自信なし、希望なし。
   悪態はついても、恨みも不平もなかった。私は、もう、なに
   がどうでもいいような気持になっていたのだ。
   龍陵の雨を、寒さを、漆黒の闇を、草を、木を、土を、空
   を、星を、運を、思い出す。その中で、常時、死と体のつら
   さに付き合っていたことを思い出す。歩けないのに歩かなけ
   ればならないときの苦しさを思い出す。
   (古山高麗雄氏『龍陵会戦』(文春文庫)p.52)
 
  ★特攻隊攻撃:扇動の欺瞞でなければ、おそるべき無責任(中野好夫)
  軍部にみる残酷さと卑怯さの象徴(発案は服部卓四郎、源田実、大西瀧治
  郎(直属部下:玉井浅市、猪口力平、中島正)、富永恭次ほかの悪魔ども)。
 
  初めて行われたのは比島沖海戦の翌日の昭和19年10月25日で、敷島
  隊がレイテ湾の米軍艦に体当たりを敢行。 敗戦までに実に2367機が
  出撃した。(因に潜水「魚雷」は海軍大将黒木博司により別に考案さ
  れ最初の出撃は昭和19年11月だった)。
  青年達(海軍の飛行予科練習生と学徒兵)に下士官の軍服を着せて
  飛行機に乗せ、未熟な操縦技術ながら敵に体当たりさせた。皮肉にも
  この特攻隊攻撃が原爆投下を米英に決断させることになった。
 
   ※ おそるべき無責任(再掲)
   英文学者の中野好夫は、特攻を命令した長官が、若いパイ
   ロットたちに与えた訓辞を引用して、1952年にこう述べてい
   る。
   「日本はまさに危機である。しかもこの危機を救い得る
   ものは、大臣でも大将でも軍令部総長でもない。勿論自分
   のような長官でもない。それは諸子の如き純真にして気力
   に満ちた若い人々のみである。(下略)」
   この一節、大臣、大将、軍令部総長等々は、首相、外相、
   政党、総裁、代議士、指導者−その他なんと置き換えても
   よいであろう。
   問題は、あの太平洋戦争へと導いた日本の運命の過程に
   おいて、これら「若い人々」は、なんの発言も許されなか
   った。軍部、政治家、指導者たちの声は一せいに、「君ら
   はまだ思想未熟、万事は俺たちにまかせておけ」として、
   その便々たる腹をたたいたものであった。しかもその彼等
   が導いた祖国の危機に際しては、驚くべきことに、みずか
   らその完全な無力さを告白しているのだ。
   扇動の欺瞞でなければ、おそるべき無責任である。
  (小熊英二氏著『<民主>と<愛国>』新曜社、pp61-62)
   ※ 死へのカウントダウン
     学徒兵たちは、自分たちの政府に「殺される」出撃の最期の
    瞬間まで読書と日記を続けた。どんな時代や国においても、死
    とは孤独なものである。こうした若者は人生の早い段階で死刑
    宣告を受けていたも同然で、ただでさえ短かった人生を、死の
    影の中で生きねばならなかった。そのため、彼らの人生には常
    にこのうえない淋しさが付きまとっていた。だが、潔く死ぬこ
    とを当然祝された若き学徒兵たちは、こうした感情を公にする
    ことはできなかった。残された手記は、自らの行為に納得のい
    く意味を見出そうとするものの、最期の瞬間まで苦悩し続け、
    悲壮なまでの孤独感に覆われた胸中をありありと見せている。
    1940年11月の日記に、林尹夫は「死にたくない!… 生きたい!」
    と書き連ねていた。中尾武徳は、1942年9月に「静寂」という
    題の詩を書き、多くの若者たちが感じていた時間の経過に対す
    る焦燥感を表現している。刻々と時を刻む時計の針の音は、彼
    らにとって死へのカウントダウンの音でもあったのである。
     中尾や他の学徒兵の手記は、人生そのものを含め、彼らが失
    ったすべてのものへの嘆きの声で満ちている。
     (大貫恵美子氏著『学徒兵の精神誌』岩波書店、pp.34-35)
   ※ 学徒兵は政府によって「殺された」。
     戦争の最大の皮肉は、若者たちが最期の瞬間が近づくにつれ
    て、ますます愛国心を失ってゆくという事実である。入隊後の
    基地での生活を通じて、日本の軍国主義の真相を目のあたりに
    した若者たちは、情熱も気力も失いながら、もうどうしようも
    なく、死に突入して行った。・・・隊員やその遺族が証言する
    ように、彼らは政府によって「殺された」のである。
   (大貫美恵子氏著『学徒兵の精神誌』岩波書店、pp.35-36,49)
   ※ 驚くべきことに、悪魔らが特攻作戦を創設した際、陸海軍
   兵学校出身の職業軍人の中から志願したものは一人もいなか
   った。(大貫恵美子『ねじ曲げられた桜』岩波書店)
   ※ 関行男大尉(23歳、第一次神風特別攻撃隊、敷島隊)
   「日本もおしまいだよ。僕のような優秀なパイロットを殺
   すなんて。僕なら体当たりせずとも敵空母の飛行甲板に500
   キロ爆弾を命中させて還る自信がある」。
   ※ 源田実はのうのうと生き続けて、戦後は自衛隊に入り、最
   後には参議院議員にまでなった。つまり戦没した特攻隊員に
   恥じることも殉ずることもなかったのである。
   ※ 上原良司特攻隊員(20年5月11日、沖縄嘉手納湾の米国機
   動部隊に突入し戦死)
   いわゆる軍人精神の入ったと称する愚者が、我々に対し
   ても自由の滅却を強要し、肉体的苦痛もその督戦隊として
   いる。しかしながら、激しい肉体的苦痛の鞭の下に頼って
   も、常に自由は戦い、そして常に勝利者である。我々は一
   部の愚者が、我々の自由を奪おうして、軍人精神という矛
   盾の題目を唱えるたびに、何ものにも屈せぬ自由の偉大さ
   を更めて感ずるのみである。
   偉大なるは自由、汝は永久不滅にて、人間の本性、人類
   の希望である。
   ※ 何が愛国だ? 何が祖国だ?(佐々木八郎、1945年特攻にて戦死、
     享年22歳、1941.9.14の日記より)
   戦時下重要産業へ全国民を動員するとか。全国民のこの
     苦悩、人格の無視、ヒューマニティの軽視の中に甘い汁を
     吸っている奴がいる。尊い意志を踏みにじって利を貪る不
     埒な奴がいるの だ。何が愛国だ? 何が祖国だ? 掴み
     所のない抽象概念のために幾百万の生命を害い、幾千万、
     何億の人間の自由を奪うことを肯んずるのか。抽象概念の
     かげに惷動する醜きものの姿を抉り出さねばならぬ。徒ら
     に現状に理由づけをして諦めることはやめよう。
     (大貫美恵子氏著『学徒兵の精神誌』岩波書店、p.83)
   ※ 特攻隊員たちの生活
   一方、多くの士官は鬼のように振る舞った。職業軍人たち
   は、自分より階級の低い学徒兵の些細な行動を不快に思う度、
   それを行なった本人のみでなく、隊全員に苛酷な体罰を加え
   た。色川(歴史家色川大吉氏、土浦基地元学徒兵)は、学徒
   兵を待ち受けていた「生き地獄」について、まざまざと語っ
   ている。
    「土浦海軍航空隊の門をくぐってからは、顔の形が変
   るほど撲られる「猛訓練」の日がつづいた。一九四五年
   一月二日の朝は、金子という少尉に二十回も顔中を撲ら
   れ、口の中がズタズタに切れ、楽しみにしていた雑煮が
   たべられず、血を呑んですごした。二月の十四日は、同
   じ隊のほとんど全員が、外出のさい農家で飢えを満たし
   たという理由で、厳寒の夜七時間もコンクリートの床に
   すわらされ、丸太棒で豚のように尻を撲りつけられると
   いう事件が起こった。
   私も長い時間呼出しを待ち、士官室に入ったとたん、
   眼が見えなくなるほど張り倒され、投げ飛ばされ、起き
   直ると棍棒をうけて「自白」を強いられた。頭から投げ
   飛ばされた瞬間、床板がぬけて重態におちいり、そのま
   ま病院に運ばれ、ついに帰らなかった友もあった。これ
   をやったのは分隊長の筒井という中尉で、私たちは今で
   もこの男のことをさがしている」。
  
   学徒兵たちは、しばしば叩き上げの職業軍人の格好の的と
   された。彼らは大学どころか高等学校にさえ在籍することの
   叶わなかった自らと比較し、学生たちを、勉学に専心するこ
   との許される特権階級の出身者として見ていたのも一つの理
   由である。(大貫恵美子氏著『ねじ曲げられた桜』岩波書店)
   ※ 出撃前夜の様子
     ガンルームでの別離の酒宴席設営。明日出撃の若き士官の
    冷酒の酒盛り、一気飲み!! ガブ飲み!! 果ては遂に修羅場と
    化して、暗幕下の電灯は刀で叩き落され、窓硝子は両手で持
    ち上げられた椅子でガラガラと次ぎつぎに破られ、真白きテ
    ーブル掛布も引き裂れて、軍歌は罵声の如く入り乱れ、灯火
    管制下の軍隊でこゝガンルームでの酒席は、”別世界”。あ
    る者は怒号、ある者は泣き喚き、今宵限りの命……。父母、
    兄弟、姉妹の顔、顔、姿。そして恋人の微笑の顔、婚約者と
    の悲しき別れ。走馬灯の如く巡り来り去り来る想いはつきず
    に。明日は愈々出撃、日本帝国の為、天皇陛下の御為にと、
    若き尊い青春の身命を捧げる覚悟は決しているものの、散乱
    のテーブルに伏す者、遺書を綴る者、両手を組みて瞑想する
    者。荒れ果てた会場から去る者、何時までも黙々と何かを書
    き続ける者、狂い踊りをしながら花壇を叩き毀す者。この凄
    惨な出撃前のやり場の無い、学徒兵士の心境は余りにも知ら
    されていません。……早朝飛行場に走り昨夜水盃ならぬ冷酒
    の勇士は日の丸のはち巻も勇ましく爆音高く出撃!! 
     私は……英霊に成られし方々の日常を知り尽くしておりま
    す。私同様激しい教練の後にお定まりの制裁のシゴキが続け
    られていました。
    (大貫美恵子氏著『学徒兵の精神誌』岩波書店、pp.15-16)
   ※ 特攻生き残り隊員への罵声
   「貴様たちはなぜ、のめのめ帰ってきたのか、いかなる理
   由があろうと、出撃の意思がないから帰ったことは明白であ
   る。死んだ仲間に恥ずかしくないのか!」
   「あの時の参謀の迎え方で、われわれは司令部の考え
   ていたことがすべて分かりました。われわれは帰って来
   てはいけなかったのです。無駄でもなんでもいい、死な
   なければならなかったのです。生きていては困る存在だ
   ったのです」(佐藤早苗氏著『特攻の町知覧』より)
 
  我々は故意に歪められた歴史と、その過程における 政治の役割に
  もっと注意を払うべきである。特攻隊員 たちは自分たちで語ること
  はもはやできない。もし、「死者でさえ敵から安全ではない」(ベン
  ジャミン)ならば(この場合敵とは日本と欧米諸国のとの政治権力の
  不平等、日本国内における政治への無関心である)、彼らはポール・
  クレーの絵の中のような、青ざめた歴史の天使が彼らを目覚めさせ、
  人間性と歴史の中に彼らの場所を確保してくれるのを待っているので
  ある。      
  いかなる歴史的過程においても、全体主義政権の指導者のような歴
  史的エージェントは、他の者よりはるかに大きな影響力を持っていた。
  こういう者が人間性に対して犯した罪は決して許されるべきものでは
  ない。
  隊員たちの日記は、夢と理想に溢れた若者たちを死に追いやった日
  本帝国主義の極悪非道の行為を証明するものである。  
    (大貫恵美子氏著『ねじ曲げられた桜』岩波書店)
 
  ★「玉砕戦法」
  昭和20年8月8日夜、ソ連軍の参戦。本土防衛のため国境(ソ連-満州)
  付近にいた精鋭部隊は帰国しており無防備状態。予備士官学校生も急
  きょ防衛隊を編成したが満足な武器はなかった。塹濠から爆弾を抱えて
  戦車に突進する以外に有効な手段はなかった。(「戦後50年『あの日
  ・・・どう語り継ぐ』」山陽新聞朝刊(H6.8.16)より)
 
  ★敗戦の真相、戦争の回想、戦争から学ぶべきことなど
  ●そのうえに日本にとって最も不幸だったことは、以上申し述べた
  ような諸種の事情が、日本有史以来の大人物の端境期に起こった
  ということでありまして、建国三千年最大の危難に直面しながら、
  如何にこれを乗り切るかという確固不動の信念と周到なる思慮を
  有する大黒柱の役割を演ずべき一人の中心人物がなく、ただ器用
  に目先の雑務をごまかしていく式の官僚がたくさん集まって、わ
  いわい騒ぎながら、あれよあれよという間に世界的大波瀾の中に
  捲き込まれ、押し流されてしまったのであります。
  これは必ずしも、北条時宗の故事に遡らずとも、〔明治〕維新
  当時、日本の各地に雲のごとく現れた各藩の志士、例えば一人の
  西郷隆盛、一人の木戸孝充、一人の大久保利通のごとき大人物が
  現存しておったなら、否、それほどの人物でなくても、せめて日
  清、日露の戦役当時の伊藤博文、山県有朋のごとき政治家、また
  軍人とすれば陸軍の児玉源太郎、降って、せめて加藤高明、原敬、
  あるいは一人の山本条太郎が今日おったならば、恐らく日本の歴
  史は書き換えられておったろうと思われるのです。支那事変から
  大東亜戦争を通じて、日本の代表的政治家は曰く近衛文麿、曰く
  東条英機、曰く小磯国昭、曰くなにがしであり、これを米国のル
  ーズベルト、英国のチャーチル、支那の蒋介石、ソ連のスターリ
  ン、ドイツのヒトラー、イタリアのムッソリーニなど、いずれも
  世界史的な傑物が百花繚乱の姿で並んでいることに思いを致して
  みると、千両役者のオールスターキャストの一座の中に我が国の
  指導者の顔ぶれの如何に大根役者然たるものであったかを痛感せ
  ざるを得ないでしょう。
   また、民間の代表的人物といいますと、三井財閥では住井某、
  三菱財閥では船田某など、いずれも相当の人柄でしょうが、これ
  を一昔前の渋沢栄一、井上準之助などに比べると、いかにも見劣
  りせざるを得ない。その他、政党方面に誰がいるか、言論文化の
  方面には誰がいるか、どの方面も非常な人物飢饉であり、そのた
  めに本筋の大道を見損なって、とんでもない方面に日本国民を引
  っ張っていく一つの大きな原因になったと思われます。
  (昭和20年、永野護氏『敗戦真相記』、バジリコ.2002;p.27-28)
 
  ●日本のジャーナリズムには、戦争を客観的に見つめる目はなく、
  あったとしても検閲が強化され、紙面に反映させることはできず、
  各新聞は競って特攻を礼賛し、本土決戦を訴えた。
  (星亮一氏著『戦艦「大和」に殉じた至誠の提督 伊藤整一』)
 
  ●古山高麗雄氏の回想(作家案内ーー「吉田満 寡言の人」より)
   散華の世代の者の責任として、いや、人間として、戦後、自分
  は何をしなければならないのか、どのように考えなければならな
  いのか、を追究する。英霊を犬死ににさせてはならぬ、そのため
  には、この国を誇りある社会にしなければならぬ、と吉田さん
  (鳥越注:吉田満氏)は言う。
   私も、この国が誇りある社会になれば、どんなにいいだろう、
  とは思うのだが、けれども私には、英霊を犬死ににさせないため
  身を粉にして、誇りある社会づくりに身を投じようという気はな
  い。散華だの、犬死にだの、玉砕だの、英霊だの、という言葉が
  私にはない。私は、戦死者も、生存者も、その自己犠牲も、善意
  も、まったく報いられずに終わるかも知れぬ、と思っている。そ
  れを、私たちはどうすることもできない、と言ったら吉田さんは、
  またまた澱のようなものが溜まるような気持になるであろう。
   (吉田満氏著『戦艦大和ノ最期』講談社文芸文庫、p198)
 
  ●国民は家畜並。軍隊というのは最低最悪の組織だ。
   支那事変が拡大して、大東亜戦争になりますが、大東亜戦争で
  も、まず集められ、使われたのは、甲種合格の現役兵です。人間
  を甲だの乙だのにわけて、甲はガダルカナル島に送られて、大量
  に死にました。
   敗戦後、わが国民は、二言目には人権と言うようになりました
  が、戦前の日本には、人権などというものはありませんでした。
  国あっての国民、国民あっての国、昔も今も、そう言いますが、
  藩政時代も、明治維新以降も、日本は民主の国ではありませんで
  した。忠と孝が、人の倫理の基本として教育される。孝は肉親愛
  に基づく人間の自然な情ですが、忠は為政者が、為政者の受益の
  ために、人の性向を利用し誘導して作り上げた道徳です。自分の
  国を護るための徴兵制だ、国民皆兵だと言われ、法律を作られ、
  違反するものは官憲に揃えられて罰せられるということになると、
  厭でも従わないわけには行きません。高位の軍人は政治家や実業
  家と共に、国民を国のためという名目で、実は自分のために、家
  畜並に使用しました。私の知る限り、軍隊ぐらい人間を家畜並に
  してしまう組織はありません。貧しい農家の二男、三男の生活よ
  り、下士官の生活の方がいい、ということで人の厭がる軍隊に志
  願で入隊した人を、馬鹿とは言えません。しかし、国の為だ、天
  皇への忠義だ、国民なら当然だ、と言われても、人間を家畜と変
  わらないものにしてしまう組織は憂鬱な場所です。けれども、そ
  こからのがれる術はありません。・・・
   軍隊というのは、私には最低最悪の組織です。
   (古山高麗雄『人生、しょせん運不運』草思社137-138)
 
  ●軍隊はpassionを殺し、machine(機械)の一歯車に変ずるところ
   なのだ。(林尹夫(1945年7月28日戦死、享年24歳)の日記より)
    「家に帰れなかったら、そして、この海兵団から足を洗えなか
   ったら、気が狂ってしまいそうだ」と言う。「いまおれは、ゆっ
   くり本が読みたい。このぶんでは、とても戦争に行けない。”死”
   なぞいまのおれにとって思案の外の突発事)だ」、「…いまのおれ
   にはそのようなパッションも気力もない。無関心、どうでもなれ
   という自己喪失。そうだ、なにが苦しいといって、いまのような
   自己喪失を強制された生活、一歩動くとすぐにぶつかってくると
   いう障、なのだ。生のクライマックスで生が切断される。人生の
   幕がおりる。 あるいは、それは実に素晴らしい。ましてクライ
   マックスのあとに、静かなる無感覚がつづき、そのあと死の使者
   がくる」、「それはなおすばらしい筋書だ。だが生活に自己を打
   ち込めぬ、そして自己を表現する生活をなし得ぬままに死んでし
   まうとしたら、こんな悲惨なことが、あろうか」と追いつめられ
   た、極度に悲惨な心情を書き下す(1944年1月23日)。
    この3日後の1944年1月26日には、海軍航空隊の飛行機搭乗員の
   選抜発表を翌日に控え、選ばれることを願っている。そして林は、
   飛行専修予備学生予定者に決定し、1944年1月28日に、兵士の待遇
   の過酷なことで知られていた土浦海軍航空基地に配置されること
   になった。
    土浦に配属されて問もないころの日記には次のように書いている。
    学校にいたときの、あのPatriotismus(祖国愛)の感激、
    一歩一歩後退を余儀なくされているときの緊迫感、そういう
    ものは、もういまは全然ない。だいたいpassionというものは、
    もう消えてしまった。軍隊はそういうpassionを殺し、人間を
    indifference(無関心)にし、惰性的に動く歯車に代えてしま
    うところだ。
   (大貫美恵子氏著『学徒兵の精神誌』岩波書店、pp.130-131)

  ●阿呆と家畜のオンパレード
   それにしても、名誉の出征に、名誉の戦死。聖戦という言葉も
  使われました。聖戦は鬼畜米英にホリーウォーと訳されて噂われ
  ましたが、アラヒトガミだとか、いざというときには大昔の蒙古
  襲来のときのように神風が吹く、なぜならわが国は神国だから、
  だとか。よくもまあ国の指導者があれほど次から次に、阿呆を阿
  呆と思わずに言い、国民もまた、その阿呆にあきれていた者まで、
  とにかく、権力者たちに追従したのです。
   あれは、全体主義国家の国民としては、やむを得ない生き方で
  あり、世界に冠たる大和民族の性癖でもあるのでしょう。世界に
  冠たる大和民族は、天皇を担ぐ権力者たちに押し付けられた言葉
  や考え方を否でも応でも、とにかく受け入れ、追従する者も、便
  乗して旗を振っている者も、みんな家畜になりました。
  (古山高麗雄『人生、しょせん運不運』草思社、p.144)
 
  ●戦前の日本は、嘘八百の国であったが、嘘八百ということでは戦
  後も同様である。
   戦前の嘘の第一は、天皇陛下のため、御国のため、というやつ
  だ。御国のために命を捧げる、というやつだ。本当に国を護るた
  めに、命をかけて戦うというのならいいが、あの戦争で国民が、
  国を護る戦争だと思い始めたのは、敗け始めてからである。本土
  が空襲で焼かれ、沖縄が占領されたころになって大東亜戦争は、
  侵略の戦争から、国を護る戦争に変わったのである。
   国民は、徴兵を拒むことはできなかった。軍の敷いた法律から
  逃れることはできず、軍の意のままに狩り出され、物品のように
  どんなところにでも送られて、殺し合いをやらされた。
   あの戦争は、米英仏蘭にはめられたということもあるだろうが、
  日本軍は、国を護るために支那大陸を侵略したのではない。東亜
  解放というのも、後追いの標語である。国民はそれを感じながら、
  しかし、ロを揃えて、天皇陛下のため、国のため、と言った。口
  先だけで言っていた者もいたが、そうだと思い込もうとした。そ
  う思わなければ、軍の奴隷になってしまうからである。
   フーコンでもインパールでも、おびただしい将兵が餓死した。
  それを本人も、遺族も、軍の奴隷の餓死だとは思いたくないので
  ある。国のための名誉の戦死だと思いたいのである。軍は、人の
  そういう心につけ込んだ。
   辰平はそう思っている。戦後は、天皇陛下のため、とは言わな
  くなったが、平和のために戦争を語ろう、などという嘘に満ちた
  国になった。戦争で最も苦しめられるのは、一番弱い女と子供だ、
  などという、甘言が幅を利かす国になった。(古山高麗雄氏著
  『フーコン戦記』、文藝春秋社)
 
  ●陸軍と海軍、足の引っ張りあい。大局観の喪失、ワンマン体制
   挙句の果てが、「陸軍」と「海軍」の足の引っ張り合いであっ
  た。……バカげたことに、それぞれが自分たちの情報を隠しあっ
  てしまう。
   「日本は太平洋戦争において、本当はアメリカと戦っていたの
  ではない。陸軍と海軍が戦っていた、その合い間にアメリカと戦
  っていた……」などと揶揄されてしまう所以である。
   陸軍と海軍の意地の張り合いは、「大本営発表」が最もいい例
  であろう。大本営「陸軍報道部」と「海軍報道部」が競い合って
  国民によい戦果を報告しようと躍起になっていた。やがてそれが
  エスカレートしていき、悪い情報は隠蔽されてしまう。そして虚
  偽の情報が流されるようになっていく。
   「大本営発表」のウソは、この時期からより肥大化が始まる。
   仕方ないのかもしれない、この当時、東條に向かって「東條閣
  下、この戦争は何のために戦っているのでしょうか」などと意見
  するような者がいたら、たちまちのうちに反戦主義者として南方
  の激戦地に転任させられてしまうのがオチである。
   危機に陥った時こそもっとも必要なものは、大局を見た政略、
  戦略であるはずだが、それがすっぼり抜け落ちてしまっていた。
  大局を見ることができた人材は、すでに「二・二六事件」から三
  国同盟締結のプロセスで、大体が要職から外されてしまい、視野
  の狭いトップの下、彼らに逆らわない者だけが生き残って組織が
  構成されていた。
   昭和17年の頃の日本は、喩えていえば台風が来て屋根が飛んで
  しまい、家の中に雨がザーザー降り込んできているのに、誰も何
  もいわない、雨漏りしているのに、わざと見ないようにして、一
  生懸命、玄関の鍵を閉めて戸締りなどに精をだしている……、そ
  んなようなものだった。
   だが、そうした組織の”体質”は、今を顧みても、実は、そう
  変わらないのかもしれない。
   昨今のNHKの、海老沢勝二元会長をめぐる一連の辞任騒動や西武
  グループの総帥、堤義明の逮捕劇など見ていると、当時の軍の組
  織構造と同じように見えてしまう。あれだけ大きな組織の中でワ
  ンマン体制が敷かれ、誰も彼に意見できず、傲慢な裸の王様の下、
  みな従順に飼い馴らされてきたのだ。そして、危機に直面すると、
  何の具体策もない精神論をふりまわす。
  (保阪正康氏著『あの戦争は何だったのか』新潮新書、pp.122-123)
 
  ●渡辺清氏著『砕かれた神』(岩波現代文庫)より
   東条英機大将が自殺をはかり未遂(九月十一日)。・・・
   それにしてもなんという醜態だろう。人の生死についてことさ
  らなことは慎むべきだと思っているが、余人ならいざ知らず、東
  条といえば開戦時の首相だった人ではないか。一時は総理大臣だ
  けでなく、同時に陸軍大臣や参謀総長も兼任していたほどの権力
  者だったではないか。そればかりではない。陸軍大臣だった当時、
  自ら「戦陣訓」なるものを公布して全軍に戦陣の戒めをたれてい
  たではないか。「生きて虜囚の辱を受けず、死して罪禍の汚名を
  残すこと勿れ」。これはその中の一節であるが、この訓令を破っ
  ているのは、 ほかでもない当の本人ではないか。
   軍人の最高位をきわめた陸軍大将が、商売道具のピストルを射
  ちそこなって、敵の縄目にかかる。これではもう喜劇にもなるま
  い。東条はこの失態によって、彼自身の恥だけでなく、日本人全
  体の恥を内外にさらしたようなものだ。おれは東条大将だけは連
  合軍から戦犯に指名される前に潔く自決してほしかった。あの阿
  南陸相のように責任者なら責任者らしく、それにふさわしい最期
  を遂げてほしかったと思う。(p.23-24)
     ***********
   「出てこいニミッツ、マッカーサー」と歌にまでうたわれてい
  た恨みのマッカーサーである。その男にこっちからわざわざ頭を
  下げていくなんて、天皇には恥というものがないのか。いくら戦
  争に敗けたからといって、いや、敗けたからこそ、なおさら毅然
  としていなくてはならないのではないか。まったくこんな屈辱は
  ない。人まえで皮膚をめくられたように恥ずかしい。自分がこの
  ような天皇を元首にしている日本人の一人であることが、いたた
  まれぬほど恥ずかしい。(p.36)
     ***********
   夜新聞を読んでいて感じたことだが、この頃の新聞の豹変ぶり
  は実にひどい。よくもこうまで変われるものだ。これはラジオも
  同じだが、ついせんだってまでは、「聖戦完遂」だの「一億火の
  玉」だの「神州不滅」だのと公言していたくせに、降伏したとた
  んに今度は「戦争ははじめから軍閥と財閥と官僚がぐるになって
  仕組んだものであり、聖戦どころか正義にもとる侵略戦争であっ
  た」などとさかんに書いたり放送したりしている。
   まったく人を馬鹿にしている。それならそれでなぜもっと早く、
  少なくとも戦争になる前にそれをちゃんと書いてくれなかったの
  か。事実はこれこれだと正直に報道してくれなかったのか。それ
  が本来の新聞やラジオの使命というものだろう。それを今ごろに
  なってズボンでも裏返すように、いとも簡単に前言をひっくりか
  えす。チャランポランな二枚舌、舞文曲筆、無責任にもほどがあ
  る。いつだったか「新聞で本当なのは死亡広告だけだ」と言って
  いた人がいたが、おれももう金輪際、新聞やラジオなるものを信
  用しない。というのは、いま言ったり書いたりしていることが、
  いつまた同じ手口でひっくり返されるかわからないからである。
       (p.46-47)
     ***********
   三菱財閥がかつて東条大将に一千万円を寄付したということが
  新聞に出ている。これをみると、「戦争中軍閥と財閥は結託して
  いた」というのはやはり事実のようだ。それにしてもこんな気の
  遠くなるような大金を贈った三菱も三菱だが、それを右から左に
  受けとった東条も東条だ。
   表では「尽忠報国」だの「悠久の大義」だの「聖戦の完遂」だ
  などと立派なことを言っておきながら、裏にまわって袖の下とは
  あきれてものも言えない。まったくよくもそんな恥知らずなこと
  ができたものだ。むろんこれは氷山の一角かもしれない。首相の
  東条さえこうなのだから、ほかのお偉方もわかったものではない。
  天皇にもそれ相応の寄進があったのではないかと疑いたくもなる。
   いずれにしろ、おれたちが前線で命を的に戦っていた最中に、
  上の者がこんなふらちな真似をしていたのかと思うと、ほんとに
  腹がたつ。と同時に、これまでそういう連中をえらい指導者とし
  ててんから信じきっていた自分がなんともやりきれない。(p.87)
 
  ●木村久夫の場合
   私は死刑を宣告せられた。誰がこれを予測したであろう。
   年齢三十に至らず、かつ、学半ばにしてこの世を去る運命を誰
  が予知し得たであろう。波瀾の極めて多かった私の一生は、また
  もや類まれな一波瀾の中に沈み消えて行く。我ながら一篇の小説
  を見るような感がする。
   しかしこれも運命の命ずるところと知った時、最後の諦観が湧
  いて来た。大きな歴史の転換の下には、私のような蔭の犠牲がい
  かに多くあったかを過去の歴史に照して知る時、全く無意味のよ
  うに見える私の死も、大きな世界歴史の命ずるところと感知する
  のである。
   日本は負けたのである。全世界の憤怒と非難との真只中に負け
  たのである。日本がこれまであえてして来た数限りない無理非道
  を考える時、彼らの怒るのは全く当然なのである。今私は世界全
  人類の気晴らしの一つとして死んで行くのである。これで世界人
  類の気持が少しでも静まればよい。それは将来の日本に幸福の種
  を遺すことなのである。
   私は何ら死に値する悪をした事はない。悪を為したのは他の人
  々である。しかし今の場合弁解は成立しない。江戸の仇が長崎で
  討たれたのであるが、全世界から見れば彼らも私も同じく日本人
  である。彼らの責任を私がとって死ぬことは、一見大きな不合理
  のように見えるが、かかる不合理は過去において日本人がいやと
  いうほど他国人に強いて来た事であるから、あえて不服は言い得
  ないのである。彼らの眼に留った私が不運とするより他、苦情の
  持って行きどころはないのである。日本の軍隊のために犠牲にな
  ったと思えば死に切れないが、日本国民全体の罪と非難とを一身
  に浴びて死ぬと思えば腹も立たない。笑って死んで行ける。
   ・・・・・
   私は生きるべく、私の身の潔白を証明すべくあらゆる手段を尽
  した。私の上級者たる将校連より法廷において真実の陳述をなす
  ことを厳禁せられ、それがため、命令者たる上級将校が懲役、被
  命者たる私が死刑の判決を下された。これは明らかに不合理であ
  る。私にとっては、私の生きる事が、かかる将校連の生きる事よ
  りも日本にとっては数倍有益なる事は明白と思われ、また事件そ
  のものの実情としても、命令者なる将校連に責が行くべきは当然
  であり、また彼らが自分自身でこれを知るがゆえに私に事実の陳
  述を厳禁したのである。ここで生きる事は私には当然の権利で、
  日本国家のためにもなさねばならぬ事であり、かつ、最後の親孝
  行でもあると思って、判決のあった後ではあるが、私は英文の書
  面をもって事件の真相を暴露して訴えた。判決後の事であり、ま
  た上告のない裁判であるから、私の真相暴露が果して取り上げら
  れるか否かは知らないが、とにかく最後の努力は試みたのである。
  初め私の虚偽の陳述が日本人全体のためになるならばやむなしと
  して命令に従ったのであるが、結果は逆に我々被命者らに仇とな
  ったので、真相を暴露した次第である。もしそれが取り上げられ
  たならば、数人の大佐中佐、数人の尉官連が死刑を宣告されるか
  も知れないが、それが真実である以上は当然であり、また彼らの
  死によってこの私が救われるとするならば、国家的見地から見て
  私の生きる方が数倍有益である事を確信したからである。美辞麗
  句ばかりで内容の全くない、彼らのいわゆる「精神的」なる言語
  を吐きながら、内実においては物慾、名誉慾、虚栄心以外の何も
  のでもなかった軍人たちが、過去において為して来たと同様の生
  活を将来において続けて行くとしても、国家に有益なる事は何ら
  為し得ないのは明白なりと確信するのである。日本の軍人中には
  偉い人もいたであろう。しかし私の見た軍人中には偉い人は余り
  いなかった。早い話が高等学校の教授ほどの人物すら将軍と呼ば
  れる人々の中にもいなかった。監獄において何々中将、何々大佐
  という人々に幾人も会い、共に生活して来たが、軍服を脱いだ赤
  裸の彼らは、その言動において実に見聞するに耐えないものであ
  った。この程度の将軍を戴いていたのでは、日本に幾ら科学と物
  量があったとしても戦勝は到底望み得ないものであったと思われ
  るほどである。殊に満州事変以来、更に南方占領後の日本軍人は、
  毎日利益を追うを仕事とする商人よりも、もっと下劣な根性にな
  り下っていたのである。彼らが常々大言壮語して言った「忠義」
  「犠牲的精神」はどこへやったか。終戦により外身を装う着物を
  取り除かれた彼らの肌は、実に見るに耐えないものだった。
   しかし国民はこれらの軍人を非難する前に、かかる軍人の存在
  を許容し、また養って来た事を知らねばならない。結局の責任は
  日本国民全体の知能程度の浅かった事にあるのである。知能程度
  の低い事は結局歴史の浅い事だ。
   二千六百余年の歴史があるというかも知れないが、内容の貧弱
  にして長いばかりが自慢にはならない。近世社会としての訓練と
  経験が足りなかったといっても、今ではもう非国民として軍部か
  らお叱りを受けないであろう。
   私の学生時代の一見反逆的として見えた生活も、全くこの軍閥
  的傾向への無批判的追従に対する反撥に外ならなかったのである。
  (『新版 きけわだつみのこえ』岩波新書、pp.444-467)
 
  ●加藤周一の怒り(『天皇制を論ず』、1946年3月)
   加藤周一も、1946年3月に「天皇制を論ず」という論考を発表し、
  「恥を知れ」と保守派を非難した。加藤はその理由を、後年こう
  述べている。
 
    1945年、敗戦が事実上決定した状況のもとで、降伏か抗戦
   かを考えた日本の支配者層の念頭にあったのは、降伏の場合
   の天皇の地位であって、抗戦の場合の少くとも何十万、ある
   いは何百万に達するかもしれない無益な人命の犠牲ではなか
   った。彼らにとっては、一人の天皇が日本の人民の全体より
   も大切であった。その彼らが、降伏後、天皇制を廃止すれば、
   世の中に混乱がおこる、といったのである。そのとき彼らに
   向って、無名の日本人の一人として、私は「天皇制を論ず」
   を書き、「恥を知れ」と書いた。日本国とは日本の人民であ
   る。日本の人民を馬鹿にし、その生命を軽んじる者に、怒り
   を覚えるのは、けだし愛国心の然らしめるところだろうと思
   う。
 
   ここでいう「人命の犠牲」は、敗戦直後の人びとにとって、抽
  象的な言葉ではなかった。敗戦時に26歳だった加藤は、同年輩の
  友人の多くを戦争で失っていた。加藤によれば、「太平洋戦争は
  多くの日本の青年を殺し、私の貴重な友人を殺した。私自身が生
  きのびたのは、全く偶然にすぎない。戦争は自然の災害ではなく、
  政治的指導者の無意味な愚挙である、と考えていた私は、彼らと
  彼らに追随し便乗した人々に対し、怒っていた」。
   こうして加藤は46年の「天皇制を論ず」で、天皇制を「個人の
  自由意志を奪い、責任の観念を不可能にし、道徳を頑廃させ」る
  原因だと批判したのである。
   (小熊英二氏著『<民主>と<愛国>』新曜社、p134)
 
  ●前線の兵士の飢えと難渋(現在:国民の耐乏生活と企業努力)を
  大本営(現在:政府)は無視し、「大和魂」や「神風」などの戯
  言をもってごまかし続けた。(この戦争の中に、現在の日本の姿
  が全て凝縮されていると感じているのは筆者だけだろうか?)
 
   はじめ第十五軍の隷下にあった龍兵団が、後にビルマ方面の直
  属隷下部隊となり、さらに昭和十九年に、新設された第三十三軍
  の隷下に移ったといったようなことも、当時の芳太郎は、知らな
  かった。師団の上に軍があり、その上にビルマ方面軍があり、そ
  の上に南方総軍があり、そのまた上に大本営があるといったぐら
  いのことは知っていたが、自分の部隊が十五軍の下であろうが三
  十三軍の下であろうが、どうでもよかった。奥州町の萩原稔は、
  上の者がちっとばかり異常であったり馬鹿であったりしたら、そ
  れだけでたちまち何千何方の者が殺されるのが戦争だと言う。大
  東亜戦争はちっとばかりの異常や馬鹿ぐらいでやれるものではな
  く、あれはもう大異常の大馬鹿だが、軍司令官だの師団長だのが、
  自分にできることで、ほんのちょっとでも異常や馬鹿から脱すれ
  ば、どれだけの人間の命が救われるかわからない。その良いほう
  の見本が水上源蔵少将であり、悪いほうの見本が、たとえば第十
  五軍司令官の牟田口中将だと萩原は言った。
   (古山高麗雄氏『断作戦』(文春文庫) p.140)
 
   (龍陵会戦(S19.4〜10)撤退のしんがりをつとめながら生き残
  った大竹さんはその手記のなかで・・・)
   守備隊の兵士たちは、マラリアや赤痢にかかり、連日連夜戦い
  続け、飢え、気力も体力も限界の状態にあった。眼は開いていて
  もよく見えない、自分ではせいいっぱい走って突撃しているつも
  りでも、実はヨタヨタ歩きをしているのであって、喚声を上げた
  つもりが、声が出ていない。そんなふうになっている兵士たちに、
  何時までにどこそこの敵陣地を占領せよ、と簡単に命令を出す上
  官が、不可解であった、と書いているが、許せないと憤っていた
  のではないだろうか。勝算もないのに攻撃命令が出され、そのた
  びに戦死傷者をつくった。肉薄攻撃をする敵なら、反撃するが、
  砲爆撃には手の打ちようもなく、ただ耐え忍ぶだけである。一兵
  卒には、防禦の方法も攻撃の方法もない。そのような状態が長期
  間続き、兵士たちは、外見が幽鬼のような姿になったばかりでな
  く、中身も異常になっていた。なぜ、そのような戦闘を続けなけ
  ればならなかったのだろうか。
   断作戦(鳥越注:S19.7、中国雲南省の援蒋ルート遮断作戦。
  またしてもキチガイ辻政信の愚劣な発想)が発動されて、私が龍
  陵周辺高地に着いたころには、守備隊の苦痛は限界に達していた
  のだ。もうこれ以上はもちこたえられない。これが最期だと、守
  備隊の兵士たちが覚悟をしていたギリギリの状態だったのである。
    (古山高麗雄氏『龍陵会戦』(文春文庫) p.270)
 
  ●小田実の回想
   小田がうけた「致命的な傷」とは、1945年8月14日の大阪空襲
  だった。当時は中学一年生だった小田は、恐怖の時間を粗末な
  防空壕で過ごしたあと、米軍機がまいた、日本の無条件降伏を
  告げるビラを拾った。そして翌日の正午、降伏を告げる放送が
  あったときの心情を、小田はこう回想している(『小田実全仕
  事』第8巻64頁)。
 
   私は疲れきっていた。虚脱状態だった。火焔から逃げる
   のにふらふらになっていたといっていい。何を考える気力
   もなかった。それに、私は、あまりにも多くのものを見す
   ぎていた。それこそ、何もかも。
   たとえば、私は爆弾が落ちるのを見た。…渦まく火焔を
   見た。…黒焦げの死体を見た。その死体を無造作に片づけ
   る自分の手を見た。死体のそばで平気でものを食べる自分
   たちを見た。高貴な精神が、一瞬にして醜悪なものにかわ
   るのを見た。一個のパンを父と子が死に物狂いでとりあい
   したり、母が子を捨てて逃げていくのを見た。人間のもつ
   どうしようもないみにくさ、いやらしさも見た。そして、
   その人間の一人にすぎない自分を、私は見た。
 
   小田によれば、そこには「輝かしいものは何もなかった。す
  べてが卑小であり、ケチくさかった。たとえば、死さえ、悲し
  いものではなかった。悲劇ではなかった。街路の上の黒焦げの
  死体ーーそれは、むしろコッケイな存在だった。私は、実際、
  死体を前にして笑った」(8巻65-66頁)。
   空襲の極限状況は、人間のあらゆる醜悪さを露口王させた。
  小田がみた死は、ロマンティックでも勇壮でもないのはもちろ
  ん、「悲しみ」や「苦しみ」などといった抽象的な形容をもこ
  えた、言語を絶した「もの」だった。
  (小熊英二氏著『<民主>と<愛国>』新曜社、p753)
 
  ●「軍神」とか「作戦の神様」とか、何を根拠に賞賛したのであろ
  うか?。
   暗号は悉く盗聴、解析され事実上作戦などはなきに等しかった。
  いい気なものである。
 
  ●日本がましな国だったのは、日露戦争までだった。あとはーー特
  に大正七年のシベリア出兵からはーーキツネに酒を飲ませて馬に
  乗せたような国になり、太平洋戦争の敗戦で、キツネの幻想は潰
  えた。(司馬遼太郎氏著『アメリカ素描』)
 
◎1945年(昭和20年):大東亜戦争(太平洋戦争)終結(以下敗戦前後の補遺)
  ●ヤルタ会談(1945.2.4〜)
   ルーズベルト、チャーチル、スターリンの密約でソ連の参戦
  (8.9)が決定された。
  ●ポツダム宣言(1945.7.26)
   天皇:「わたしのことはよい。それよりも和平の道がひらか
   れたのが喜ばしいと思う。戦争を継続すれば、空襲など
   もあって罪のない国民が傷つく。受諾の方向で動いてほ
   しい」。
   参謀総長梅津美治郎、軍令部総長豊田副武、陸相阿南惟幾は
  受諾反対、本土決戦を主張。戦争を知らないアホウばかりであ
  った。
  ●8月14日正午御前会議において日本の無条件降伏が決定された。
  陸軍若手皇道派のクー・デタ計画は宮城占拠まで至ったが、
  間一髪のところで阻止。(阿南陸相自決)
 
  ★「一億総懺悔」:東久邇稔彦(首相)のフザけた戦争責任論
   一般国民の戦争責任については、敗戦直後の首相だった東久邇稔彦
  が、「一億総懺悔」を訴えた経緯があった。・・・1945年8月28日の記
  者会見で、東久適は敗戦の原因の一つとして、闇経済に代表される
  「国民道義の低下」を挙げ、「一億総懺悔をすることがわが国再建の
  第一歩」だと唱えた。しかしこの「一億総懺悔」論は、人びとの反発
  を買った。たとえば、『毎日新聞』への1945年9月8日の投書は、こう
  述べている。
 
   「一人残らず反省」とか、「一人残らず懺悔」とか、一体
  それは国民の誰に向かっていったのか。……終戦の聖断が下
  るまで自分は頑張り通して来た。配給上の不公正や各種事業
  にたいする急・不急の誤認、あらゆる窓口の不明朗など、戦
  力低下に拍車をかけたのはみな官吏ではないか。貴官達はど
  の口で、誰に向って「反省しろ」だの「懺悔しろ」だのとい
  えるのか。自分は涙をもって問う。特攻隊その他戦死者の遺
  族、工場戦死者の遺族も、罪深き官吏と一緒に懺悔するのか。
  反省するのか。
  (小熊英二氏著『<民主>と<愛国>』新曜社、p105)
 
  ★敗戦前後の軍事物資の消滅
 8月20日、マニラの米軍は日本の降伏使節に「一般命令第一号」
  を手渡し、日本軍の全資産は手を付けず保管せよと命じた。東久邇
  宮新内閣は、この命令を無視した。マッカーサー元帥が到着する予
  定日の二日前、日本政府は前述の秘密の処分命令(「陸機三百六十
  三号」:すべての軍事物資の処分を地方部隊の司令官の手に委ねる)
  を取り消したが、すでに処分された資産の所在を確認し回収しよう
  とする努力はまったく行われなかった。当然のことながら、これら
  の物資の所在に関する記録は、もはや簡単には入手できなくなって
  いた。これと同じ時期、日本銀行は「平和的」な生産に転換させる
  という表向きの目的の下に、軍需関係の業者に対して膨大な融資を
  行うことに力を注いでいた。後日行われた調査記録を読むと、影響
  力をもつ人々の非常に多数が、天皇の放送が行われた後の二週間の
  混沌の間に軍の倉庫から勝手に物資を持ち出し、軍事予算や日本銀
  行から急いで代金を支払ってもらえるよう軍需業者や旧友のために
  手を打ったり書類を破棄することに、目が覚めている時間のほとん
  どをあてていたとの印象は拭えない。日本史上最大の危機のただ中
  にあって、一般民衆の福利のために献身しようという誠実で先見性
  ある軍人、政治家、官僚はほとんどいなかった。旧エリートたちか
  らは、賢人も英雄も立派な政治家も、ただの一人も出現しなかった
  のである。
  その後の調査によれば、帝国陸海軍が保有していた全資産のおよ
  そ70%が、この戦後最初の略奪の狂乱のなかで処分された。もとも
  とこれは、本土約500万人と海外300万人余りの兵士のためのもので
  あった。だが、話はこれで終わったわけではなかった。降伏から数
  か月後、占領軍当局は、それまで手付かずできちんと管理されてい
  た軍の資財の大半を、公共の福祉と経済復興に使用せよとの指示を
  つけて、うかつにも日本政府に譲渡してしまったのである。これら
  物資の大半は、建設資材と機械類であり、内務省は財閥系企業の五
  人の代表からなる委員会にその処分を委任した。その総価値はおよ
  そ1000億円と見積もられたが、これらの資財もすぐにほとんど跡形
  もなく消えうせた。1947年8月、国会がこの一連の不祥事に関する
  遅まきながらの調査委員会を開いたとき、証言に立った1946年当時
  の大蔵大臣・石橋湛山は、「1000億円の価値があるものがどこに行
  ったのか知る者は一人もいない」と残念そうに述べている。
 (ジョン・ダワー(増補版)『敗北を抱きしめて<上>』三浦洋一
  ・高杉忠明訳、岩波書店、pp.124-125より)
 
  ●結局GHQの日本占領は約6年8か月(1945.8.15〜1952.4.28)続いた。
  ●9.11、東条英機自殺未遂。 不細工、ここに極まれり!!
  ●大本営廃止(昭和20年9月13日)
  ●天皇のマッカーサー訪問(9月27日)
   例の歴史的に有名な「気楽なマッカーサーと卑屈な天皇」
  の写真が撮影された。40分の会見は全くの秘密にされた。
  ●陸軍参謀本部、軍令部消滅(11月30日)
  ●陸軍省と海軍省は昭和20年(1945年)12月1日にその歴史の
  幕を閉じた。70余年の歴史のあっけない幕切れだった。
  ●第二次世界大戦が終わって、政府の形を保ったまま戦争を
  終えたのはアメリカ合衆国、イギリス、ソ連、中国だけだった。
 
  ★政党が弱いから軍部官僚の一撃に遭うて直ちに崩壊してしもうた。
  夫れのみではない。吾々は吾々の力に依って、軍国主義を打破
  することができなかった。ポツダム宣言に依って、初めて是れが
  打破せられた。吾々は吾々の力に依って言論・集会・結社の自由
  すら解放することができなかった。ポツダム宣言に依って、初め
  て其の目的を達することが出来た。尚又、吾々は吾々の力に依っ
  て民主政治を確立することができなかった。ポツダム宣言によっ
  て、漸く其の端緒を開くことができた。凡そ此等の事実は、吾々
  に向かって何を物語っているか、遺憾ながら吾々日本政治家の無
  力を物語るのほか何者でもない。・・・将来は再び是れを繰り返
  してはならぬ。(斎藤隆夫)
 
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 国家権力は国民に対する暴力装置であり、その性格は佞奸邪知。その行動原
則は国民をして強制的、徹底的に情報・言論・行動・経済の国家統制の完遂を
目論むことである。従って異論や権力に不都合な論評や様々な活動は抹殺、粛
清される。畢竟、国家権力とは、国民を蹂躙・愚弄・篭絡する「嘘と虚飾の体
系」にほかならないということになる。
 さらに言えば「戦争」は権力に群がる化物どものオモチャであり退屈凌ぎで
ある。犠牲者は全てその対極に位置するおとなしい清廉で無辜の民。私たち平
民は決して戦争に参加してはならないことを永遠に肝に銘じておかなければな
らない。

 我々は、ヒットラーやその部下、それに多くの若者を無駄死にさせた東条
 英機や大西瀧治郎など軍の上層部が犯した人道に対する大罪を免責すること
 はできない。しかしながら同時に、我々はこうした全体主義的で破壊的な作
 戦に気づかぬうちに加担してしまう我々自身の脆弱さを認識しておく必要が
 ある。戦争に加わった学徒兵やその他大勢の人々だけでなく、我々自身もま
 た、軍事政権の操作を見抜けずに、その巧みな操りにいとも簡単に翻弄され
 得ることを深く認識する必要がある。人々を人類史上の大惨事へと引き込み、
 その政略を誤認させ、気づかぬうちにそれを受容させる歴史の力に対して、
 私たち一人ひとりがいかに脆弱であるか、・・・彼ら(筆者注:学徒兵)の
 本当の姿を、人間性を剥奪された戯画化されたイメージから救い出し、我々
 の知識にすえ直す必要がある。
     (大貫美恵子氏著『学徒兵の精神誌』岩波書店、p.52)
平成19年4月1日  鳥越恵治郎