第23話:【衝撃的な無差別殺人行動について思う】
【衝撃的な無差別殺人行動について思う】
  20世紀末から若者の「衝撃的な攻撃行動(殺人)」がマスコミを賑わせている。
強盗を除き殺人・放火・強姦などの少年犯罪は統計的には決してふえていないにも
関わらずである。そしてきまって社会学者や精神科医などが電波に乗って気楽な「
若者論」を語る。曰く「人を殺したくてスタンバっている脱社会的存在」(宮台真
治)、また曰く「解離」「日本人の劣化」(香山リカ)は典型的な自己満足、独り
よがりの考えで唖然とする。さらに紙上で便利に使われる「透明な存在」「心の闇
」に至っては言葉を弄んでいるだけで、何のことやらさっぱりわからない。
  ところで人間は他の動物たちとちがって大脳新皮質を発達させ、とくにその前頭
連合野において、思考、判断、推理、創造、意志、情操(喜び、悲しみ、妬み、う
らみ、怒りなど)、競争意識、欲望(物欲、名誉欲、権力欲)などの精神活動が営
まれている。そして人間は苦もなく互いに殺しあいをやる。時実利彦はその名著『
人間であること』(岩波新書、p.198-)のなかでつぎのように述べている。

   人類滅亡の危惧の念をいだかせるまでになった核エネルギーの解放という、す
  ばらしい物質文明を築きあげさせた新皮質系のシンボルである前頭連合野は皮肉
  にも、私たちを限りない競争意識にかりたて、他を否定し、相手を抹殺するとい
  う「殺し屋」の血潮を、私たちの血管のなかにたぎらせているのである。
  お互いに「たくましく」生きてゆくために、集団生活をいとなみがら、そのな
  かで、「よく」生きてゆく(創造行為)ために、お互いが、個を主張し他を否定
  しようとしている。
   人間の宿命としての集団と個の対立である。そしてまた、私たち人間は、個に
  徹するほど孤独になり、孤独をいやすために、個性をもった相手を求めようとし
  ている。ここにまた、「よく」生きてゆくために個を否定する前頭連合野が個を
  求めるという個と個との対決(葛藤)がくりひろげられている。一方では、私た
  ち人間は、「無限の生」の希求と、「有限の生」の諦観の葛藤のなかに、心のや
  すらぎを模索している。
  このように、私たち人間は、矛盾にみちた理屈で割りきることのできない精神
  によって、お互いに対立し、対決するように振舞わされているこよなく非合理的
  な存在者であって、これが、私たち「人間である姿」なのである。そして、私た
  ちが人間になろうとするほど、存在者としての非合理性はますます高まってゆく
  のである。・・・(中略)。
  私たちは、原子爆弾にこよない不安と恐怖をいだいているが、実は、それを作
  りだした前頭連合野そのものが、数百メガトンの水素爆弾以上の偉大な破壊力を
  もっているのである。

  そして時実利彦はさらに続けて保育・教育の二律背反性を述べる。「保育、教育
の究極の目的は人間形成である。すなわち、正しい判断力や創造性、豊かな情操や
強い意志力を育成しながら、同時にまた、子どもに、殺しの心を植えつけ、その芽
を伸ばしているのである」。
  筆者は思う。「脱社会的存在」「解離」「日本人の劣化」なぞは枝葉末節のこと
がらだ。「透明な存在」「心の闇」などありはしない。ヒトは誰しも「殺し屋」の
血潮が血管のなかで煮えたぎっているのだ。自分の思い通りにならないこと、ある
いは騙され、裏切られたことに起因する絶望や怒りや深い恨みと折り合うために、
ヒトはしばしば激しい攻撃性の発動を必要とするのだ。マスコミを賑わす若者の「
衝撃的な攻撃行動(殺人)」は人間としてのごく普通の情動発現なのだ。
  それでも我々はこれらの反社会的な情動発現を何とかして和らげ、出来るだけ少
なくしなくてはならない。残念ながら筆者にはそのための良い処方箋は浮かばない。
しかし、前頭連合野の我慢・忍耐に資する部分を鍛えること、貧困をなくすことで
攻撃性の振幅を小さくすること、(人と人の交わりを大切にしつつ)他者をいたわ
り攻撃性のもたらす結果を前もって発想豊かに予想できる力を涵養することが大切
なのではないかと思う。
  筆者がこのようなことを思っていたとき、タイムリーに「貧困」に関する素晴ら
しい考察があったので引用して紹介したい。

    私は貧困状態に至る背景には「五重の排除」がある、と考えている。
  第一に、教育課程からの排除。この背後にはすでに親世代の貧困がある。
  第二に、企業福祉からの排除。雇用のネットからはじき出されること、あるい
  は雇用のネットの上にいるはずなのに(働いているのに)食べていけなくなって
  いる状態を指す。非正規雇用が典型だが、それは単に低賃金で不安定雇用という
  だけではない。雇用保険・社会保険に入れてもらえず、失業時の立場も併せて不
  安定になる。かつての正社員が享受できていたさまざまな福利厚生(廉価な社員
  寮・住宅手当・住宅ローン等々)からも排除され、さらには労働組合にも入れず、
  組合共済などからも排除される。その総体を指す。
  第三に、家族福祉からの排除。親や子どもに頼れないこと。頼れる親を持たな
  いこと。
  第四に、公的福祉からの排除。若い人たちには「まだ働ける」「親に養っても
  らえ」、年老いた人たちには「子どもに養ってもらえ」、母子家庭には「別れた
  夫から養育費をもらえ」「子どもを施設に預けて働け」、ホームレスには「住所
  がないと保護できない」ーーその人が本当に生きていけるかどうかに関係なく、
  追い返す技法ばかりが洗練されてしまっている生活保護行政の現状がある。
  そして第五に、自分自身からの排除。何のために生き抜くのか、それに何の意
  味があるのか、何のために働くのか、そこにどんな意義があるのか。そうした「
  あたりまえ」のことが見えなくなってしまう状態を指す。第一から第四の排除を
  受け、しかもそれが自己責任論によって「あなたのせい」と片づけられ、さらに
  は本人自身がそれを内面化して「自分のせい」と捉えてしまう場合、人は自分の
  尊厳を守れずに、自分を大切に思えない状態にまで追い込まれる。ある相談者が
  言っていた。「死ねないから生きているにすぎない」と。周囲からの排除を受け
  続け、外堀を埋め尽くされた状態に続くのは、「世の中とは、誰も何もしてくれ
  ないものなのだ」「生きていても、どうせいいことは何一つない」という心理状
  態である。
  期待や願望、それに向けた努力を挫かれ、どこにも誰にも受け入れられない経
  験を繰り返していれば、自分の腑甲斐なさと社会への憤怒が自らのうちに沈殿し、
  やがては暴発する。精神状態の破綻を避けようとすれば、その感情をコントロー
  ルしなければならず、そのためには周囲(社会)と折り合いをつけなければなら
  ない。しかし社会は自分を受け入れようとしないのだから、その折り合いのつけ
  方は一方的なものとなる。その結果が自殺であり、また何もかもを諦めた生を生
  きることだ。(湯浅誠氏著『反貧困』岩波新書、pp.60-61)

  もう一度肝腎なことを繰り返しておく。
  人間というものには、貧困や不遇や思い通りにならないことに起因する絶望や怒
りや深い恨みと折り合いをつけ、それを我慢しつつ忘れ去るために、しばしば激し
い攻撃性の発動(衝撃的な攻撃行動)が不可欠なのだ。例えば女に振られたとき、
その女を一発張り倒さなければ溜飲が下がらぬように、あるいは詐欺で金を失った
時相手を叩きのめさなければ歯がゆさへの折り合いがつかないように。
  かくのごとく激しい攻撃性をもった反社会的行動は、たとえそれが身勝手な考え
に基づく行動であっても、社会に対する深い恨みへの復讐として簡単に発動し得る。
無差別殺人はその典型例である。
平成20年9月23日 鳥越恵治郎