放射線医学の草分け 藤浪剛一
一九二〇年(大正九)、慶応大学医学部がわが国で最初の私立の医科大学として発足したとき、教授陣のなかに二人の本学出身者がいた。一人はサルバルサン(梅毒治療剤)のエールリッヒ・秦として世界的に名声が高かった細菌学の秦佐八郎教授(一八七三〜一九三八・一八九五卒)であり、もう一人が理学的診療科を担当した藤浪剛一(こういち)教授である。慶応病院の開院にあたって十一診療科が開設されたが、この理学的診療科は日本における最初の独立した診療科であった。 一九九二年十一月二十一日、慶大放射線科学教室の同門の会である葆光(ほこう)会(葆光は慈悲の光)と、日本医史学会との共催によって「藤浪剛一先生没後五十年祭記念講演会」が開かれた。会は慶大放射線診療部長が司会をつとめ、葆光会会長の開会の辞で始まった。ついで慶応を代表して細田医学部長が、医史学会を代表して蒲原(かんばら)理事長(中山沃(そそぐ)名誉教授の実兄)があいさつし、その後に藤浪をしのぶ講演が行われた。 藤浪は一八八〇年(明治十三)六月七日、医師藤浪万徳の第五子四男として名古屋で生まれた。藤浪家は代々尾張藩の藩医をつとめた家で、長兄の鑑(あきら)は京都大学の初代の病理学教授であり、桂田富士郎(岡山の最初の病理学教授)とともに日本住血吸虫の研究によって学士院賞を受賞している。 藤浪は愛知一中、独協中学を経て一九〇六年(明治三十九)の岡山医学専門学校を卒業した。初めは病理学教室で病理学を、翌年上京して兄の友人であった東大の土肥慶蔵教授について皮膚科を学び、ついで一年後に伝染病研究所に移り助手に採用された。当時の伝研は日本一の医学研究所であり、所長の北里柴三郎に認められ、このことが慶応に医学部を創設して学部長となった北里によって、のちに慶応の教授に抜擢される機縁となった。 伝研に移って一年後の一九〇九年(明治四十二)ウィーンに留学した。当時のウィーン大学にはヨーロッパ諸国はもちろん、アメリカなどからも多くの留学生が集まっており、ホルツクネヒト教授のもとでレントゲン学を専攻した。ここで空腹時の胃液の量をレントゲンで推定する方法を考案し、今から思うと簡単なことであるが、この検査法が国際的な評価を受け、帰国後の主論文になっている。 またウィーン留学中にレントゲン専門誌に「手根骨の化骨」の論文を投稿しており、ドイツのレントゲン学会でも発表している。これは手根骨だけでなく、それに隣接する前腕骨の遠位骨端核がX線で年齢とともに出現する過程を示しており、骨年齢に関する基礎的な研究であった。現在でも発育障害のある患者などに実施される簡単な検査で、しかも同一人で年を追って追究できるX線診断法の基礎を、すでに八〇年前につくった画期的な業績であるといえる。また兄の影響もあって早くから医学史に深い関心をもっており、『Schweiz. Rundschau fuer Medizin』(スイス医事評論)に「日本の医学」と題してドイツ語の論文を発表している。 一九一二年(明治四十五)に帰国して順天堂医院にレントゲン科を開設し、ヨーロッパの新知識を身につけた、聴診器もメスもつかわない、レントゲン専門医としての名声が次第に高まった。一九一三年、東京レントゲン研究会の設立に加わって講習会を開き、その翌年に名著『れんとげん学』を出版した。この本は藤浪が亡くなるまで増補改訂して出版がつづけられ、ながく医学界に用いられた。 一九二〇年、すでに述べたように新設の慶応医学部に迎えられたが、理学的診療科という名称はレントゲンの診断と治療のほかに、光線療法、マッサージ、水治療法などが含まれていた。放射線医学を主体とした講座が日本で開かれたのは初めてのことであった。 慶応の教授として二十二年間にわたって、レントゲン学、光線療法学、温泉医学などの、臨床、研究、教育に従事して多くの業績を残しており、また多数のすぐれた専門医を育てている。指導にあたっては懇切であるが厳しく、藤浪のもとで修業をつめば、どこへ行っても困ることはないといわれていた。教室員の原稿を真っ赤になるほど赤ペンで訂正したが、研究に対しては《きみの考えでやりなさい》と自主性を尊重する方針をとっていた。 また医史学の領域でも、積極的に調査研究を行って多くの論文を発表している。慶応では早くから、医史学会理事長の富士川游を招いて医史学の講義を行っており、今でもつづいている医史学研究室を設け、大島蘭三郎のような専門の医史学者を育てている。温泉学については、ヨーロッパではクアハウスのある温泉が保健や医療に利用されているのに、日本は温泉に恵まれているが、温泉がもっぱら遊興と飲食の場になっていることを嘆き警告していた。 学会活動としては一九二三年(大正十二)日本レントゲン学会、一九二七年(昭和二)日本医史学会、一九三〇年日本温泉協会、一九三五年の温泉気候学会などの設立に参加している。一九三三年にレントゲン学会が分裂したとき、日本放射線学会の第一回と第四回の会長に就任しており、一九四〇年には合同して日本医学放射線学会が結成され、第二回の会長をつとめている。同じこの年に富士川が亡くなったため、そのあとの医史学会の理事長にも就任している。 著書として、さきに紹介した「れんとげん学」以外にも、『医家先哲肖像集』(一九三六)、死去前後に発表された『紫外線療法』(一九四一)、『日本衛生史』(一九四二)、『光と生物』(一九四三)などがある。画像医学における先達であった藤浪が、医学史の分野でとくに先人の肖像画につよい関心を持っていたことがわかる。 没後、長年にわたって収集した古医薬書を中心とする蔵書の目録が、和子夫人によって『乾々斎架蔵目録』と名づけて発行され、現在は武田科学振興財団の杏林書屋にその蔵書が収蔵されている。このほかにも夫妻で同志とともに東京名墓顕彰会を設立し、りっぱな仕事をした人の埋もれた墓を探しだし、あるいは掃苔供養する「掃苔会」を開き、さらに十数年にわたって雑誌『掃苔』を発行していた。 一九三九年(昭和十四)五月七日、岡山医科大学第一講堂において岡山医学会創立五〇周年記念式典が盛大に開かれ、つぎの三つの特別講演が行われた。 一.回顧談 荒木寅三郎
荒木は第三高等学校医学部時代に最初の生理学教授をつとめ、のちに京大生化学教授、総長、学習院長、枢密顧問官などを歴任して位人臣を極めた学者であり、佐伯矩(明治三十一年卒)は国立栄養研究所長をつとめた養学者として有名な同窓生であった。藤浪は講演の最後で次のように述べている。 《歴史学は、医学の歴史を科学的方法にて研究する学科である。疾病の認識、治療の史観、ならびに医学的理論の、実際にわたる変遷を叙述するをもって医史学の本質とせねばならぬ。歴史上における医学の事実を、当時の社会の心像とあい関聯して考察し、その時代の医学知識が社会に及ぼしたる、また社会から受けたる影響を討究し、次時代への進歩の行路を明らかにしなければならない。国民の文化と医学史とは、あい離るることはできないものである。 かかる重要性をもつ医学史が、なぜ我が医育上で等閑視せらるるかは大いに疑問とするところである。哲学に哲学史あり、美術に美術史があるごとく、医学にこれを欠く我が医学教育は唯物的科学に偏重した弊である。泰西の医科大学にはそれぞれ医史学の講座があり、研究室があり、付属博物館がある。ポーランド、ルーマニアが、欧州大戦後に一国の独立には、その国の学術の進歩発達を知らざる可からざるにありしと、医史学の講座を設置したことは我が大学の頂門の一針である》 母校の祝賀会に特別講演の講師として招待されたとき、このように医史学の重要性について講演している。それから三年後に再三にわたって狭心症の発作におそわれ、一九四二年(昭和十七)十一月二十九日、放射線医学と医史学をライフワークとした六十二歳の生涯を閉じた。 |