筒井八百珠(やおじゅ)校長と『臨床医典』


 一九一三年(大正二)七月十四日、当時の千葉医学専門学校の有力教授であった筒井八百珠(一八六三〜一九二一)は、文部省より《差し支えなければ明日出省ありたし》との電報を受けとった。
 翌十五日に上京して、中四国における唯一の医育機関であった岡山医学専門学校の校長就任を受諾し、即日、辞令を交付され一日も早く赴任するよう要請されている。二日後の十七日には早くも千葉を出発し、途中で京都に一泊して十八日に岡山に着き、校長ならびに岡山県病院の院長に就任した。千葉の送別会は三ヶ月後に開かれており、生徒代表から次のようなことばを贈られている。

《送別の辞。菊花馥郁として露におごらんとするの頃、茲に我千葉医学専門学校校友会に於いて恩師筒井八百珠先生の訣別の式を挙ぐ。
 先生、天資聡明にして学に篤く、曾て萬斛(非常に多くの量)の偉図を抱いて遠く欧州に遊ばれ、帰来益々学界に雄飛して、明治四十一年、遂に医学博士の学位を贏ち得らる。而して、其の卓絶の才と深遠の学とを似って、早く既に斯界の重鎮たり。蓋し今日選に当りて、岡山医学専門学校長に栄転せられし所似なり。
 顧みれば明治二十三年(一八九〇)、先生の本校へ教授となられしより、春風秋雨実に二十有三年。其間、懇篤熱誠、寔に一日の如く学生の薫育につとめ、傍ら幾多の生霊を救わる。先生の功や偉なりと云うべく、亦生等の深く感謝する処なり。
 光栄に満ち給う先生には今や猪台(学校所在地)を去らんとす。俄に先生と別るるに際し、生等衷心忍びざるものあり。然りと雖も先生の名誉ある桂冠を戴かるるを思えば、誰か慶賀せざるものあらんや。生等は唯其の壮なる前途を祝福して已まざると共に、又生等の為、長く指導の労を惜しみ給わざらんことを切に希うものなり。聊か蕪辞(粗辞)を述べて送別の辞に代う。
 十月十日 千葉医学専門学校生徒総代》
 このように惜しまれながら、あわただしく岡山に赴任したことがわかる。

 岡山医専の校長は、岡山県医学校時代から三十三年間も菅之芳(一八五四〜一九一四)がつとめていた。しかし日本住血吸虫を発見して学士院賞を受賞した病理学の桂田富士郎教授と衝突し、校長の文部省への上申によって桂田は休職となった。これに抗議して学生はストライキに突入し、その後も学内は騒然とした状態がつづいていたため、責任をとって校長が退陣することになった。日本中に有名となった岡山医専ストライキである。
 このときの医専学生の中に生存者がいる。笠井経夫(つねお)医師は一八九二年(明治二十五)に生まれ、一九一六年(大正五)卒業、耳鼻科の助教授をつとめたこともある。一〇二歳という稀にみる長寿で、同窓の最長老であり、岡山市医師会の文化財的存在である。
 一九一二年(大正一)九月に笠井が入学して間もなくストが始まった。全学生が集まって校長排斥の気勢をあげたこと、解決のため来岡の文部省の高官が人力車で校門を入ろうとしたとき、許可なく立ち入りを禁ずと、知らずに門衛が制止したエピソードもあったという。菅校長の辞任、新校長によるみごとな収拾など、最後の生き証人としての、おどろくほど明確な回顧談を聞くことができた。
 岡山医専のストライキの解決は、学校、地元岡山はもちろんのこと、文部省にとっても重要課題となっていた。菅の後任に指名されたのが筒井である。菅が辞任した後には筒井と東大同期であった舟岡英之助(生理学)、一年後輩の高橋金一郎(外科学、皮膚病学、黴毒学)らの先任の古参教授がいた。とくに高橋は専門が同じであったが、奇行が多く、ドイツ語辞典の編集に没頭して、菅院長より附属病院であった県病院での診療を拒否されていた。
 このような状況のもとで筒井が校長に起用されたのは、学者としての優れた業績と、持ちまえの行動力を評価されたものであろう。赴任後は、文部省の抜擢と内外の期待に応えて抜群の指導力を発揮し、校風の刷新と人心の融和につとめている。本会報七十四号(一九九三)に解剖学の村上宅郎教授が紹介しているように、新たに時の鐘を設けて「コンコルディアの鐘」と名づけ、この鐘の音とともに校内が、同心(Concordia)と平和に満ちていなければならないと強調した。
 また学生対策だけではなく、教授間の相互の融和のためにも、校長、院長として同心平和の精神が基本理念であった。こうして全国に有名となっていた学園紛争を解決し、危機的状況にあった本学の正常化に成功した。
 一九一五年(大正四)に、教授在職二十五年記念祝賀会が後楽園の鶴鳴館において盛大に挙行されており、この会のために祝歌がつくられ、全学生によって合唱されている。その後は医科大学への昇格に尽力し、予算の折衝にあたっては、文部省の係官を相手に目的を達するまでねばりぬいていた。学会でも積極的に活躍し、また多くの論文や著書を発表している。こよなく酒を愛して、豪放磊落、天真爛漫、しかも人情ゆたかな校長であったという。
 内山下から移った新校舎と病院が完成に近づいた一九二一年(大正十)一月二十八日、昇格を目前にして食道癌のために五十七歳で死去し、二月一日に鹿田の新校舎で学校葬がとり行われた。市内東山の墓地に葬られて岡山の土となり、古くからのローマ字論者であったことから墓碑もローマ字で刻まれている。筒井の在任は七年半に過ぎなかったが、本学の改革と待望の大学昇格に大きな役割を果した名校長であった。
 筒井は一八六三年(文久三)和歌山県新宮に生まれ、家は禄高三百石、代々新宮藩の剣道師範をつとめていた。十三歳で父が亡くなり、そのとき医師になる決心をしている。各県が競って医学校を設けていた時代であり、一八七七年(明治十)に律の三重県医学校に入学。しかし二年後に県命によって東大に進み、予備門を経て一八八九年(明治二十二)に医学部を卒業した。
 卒業後はスクリバ教授について外科学を学んでおり、当時の外科は皮膚科や泌尿器科はもちろん、耳鼻咽喉科や歯科までも含まれていた。翌年九月、千葉の第一高等中学校医学部(現在の千葉大学医学部)教授、ならびに千葉県病院副医長(のちに医長)に就任し、外科学、皮膚病学、花柳病学を担当した。
 この年すでにドイツ語の医書『Vienna clinic』を翻訳した『臨床医典』を出版している。当時は医学の黎明期で、現在では考えられないことであるが、在学中から西洋医学書を翻訳して出版する物も稀ではなかった。東大の予備門ではドイツ語を徹底的にきたえられ、ドイツ人教師によるドイツ語の授業もあり、学生のドイツ語のレベルが非常に高かったのである。とくに筒井は、予備門のとき教師のオット・セン方に寄寓して息子の家庭教師をしており、大学在学中は私立独逸語学校でアルバイト教師をつとめていた。
 臨床医典の外にも一八九六年『皮膚病学』(一九一七年に第六版)、一八九七年『花柳病学』(一九〇八年に第十版)、一九〇〇年『皮膚病図譜』(翌年再販)、一九〇四年『新選外科手術』、一九〇八年に『花柳病講話』と次つぎに精力的に出版しており、また数多くの先駆的な論文を発表している。
 この間一八九九年より二年間、文部省留学生としてドイツに留学して、ブレスラウ大学(現ポーランド領)で有名なミクリッツ、ナイセルの指導を受けた。帰国後の一九〇八年に医学博士の学位を授与されており、また東宮殿下(大正天皇)の千葉医専への行啓にさいしては、「化学療法剤サルバルサンについて」と題して御前講義の栄に浴している。
 著書のなかでも臨床医典は特筆すべきものである。初版は早くも卒業の翌年、一八九〇年(明治二十三)に発行されている。一般医家の座右の書として利用されるようにポケット版で刊行され、革張り表紙、本文四二四頁、附録を含めて五二七頁。縦組みABC順で項目数三一八、そのうち各種の中毒が六十でもっとも多く、約二十%を占めており、定価は九十銭であった。
 緒言のなかで、日本はドイツ医学を採用して高尚な学説には熱心であるが、実地医学に参考となる便利な医書が少なく、本書の原本は小冊子でありながら、毎年面目を改め実地に有益な本であると述べている。原本以外に疾患の原因、症状、予後の大略を記し、附録として医療に関する法律、局法薬品が追加されている。以後、毎年のように増補改訂されており、ポケットブック医書の先駆となり、多くの需要にささえられた超ロングセラーであり、ベストセラー医書であったという。
 筒井については、一九九〇年に岡山ではじめて開かれた第九十一回日本医史学会総会で、大阪の長門谷(ながとや)洋治氏が「筒井八百珠−その生涯と業績」を発表しており、臨床医典は一九二四年(大正十三)に三十一版が発行されたと述べている。
 筒井の曾孫である研氏(本学分子細胞医学研究施設の病態分子生物学部門助教授)のご好意により筒井家旧蔵の臨床医典などを見ることができた。そのなかに一九三五年(昭和十)に発行された三十八版があり、これによって没後十四年が経過してもなお出版が続けられていたことを知った。「筒井本」は、初版、二、三、六、九、十一、十四、十五、十七、二十、二十三、三十六、三十八版である。また国立国会図書館には、十五、十九、二十、二十一、二十二、三十、三十八版が収蔵されている。
 ところが、医学部図書館の冨岡絹代主事によると、「岡大本」は、初版、十三、十八、二十、二十四、二十五、三十版の外にも、一九四二年(昭和十七年)に四十五版、一九四四年(昭和十九)に四十六版(二千部)が発行されていることが判明した。初版が出版されて以来じつに五十四年間、四十六回の版を重ねていることはまさに驚異的といってもよい。
 四十六版は一〇七四頁、項目数は初版の二倍以上で、横組みイロハ順で活字は小さく、そのため内容は比較にならないほど多くなっており、定価は七円九十五銭である。南江堂によると、この四十六版を最後に絶版となった。
 筒井が亡くなったのは一九二一年(大正十)で、それまでの三十一年間にすでに二十九版が出版されている。さらに死後も二十三年間にわたり、筒井の遺志をついで長男の徳光(よしみつ)(東大卒、岡大眼科助教授から熊大教授、のち岡山で開業。その長男の純は川崎医大の前眼科教授)によって出版が続けられた。一九三五年の三十八版以降の増補改訂にあたっては、北山加一郎、小田大吉、武田俊光ら、当時の岡大の新進スタッフの協力を得ていることが記されている。
 残されている契約書を見ると、一九一七年(大正六)の二十六版は二千部出版、印税が八六六円八十銭であった。また亡くなった翌年一九二二年(大正十一)の三十版は四千部出版され、その印税は四,七六四円という高額に達しており、臨床医典が莫大な収入をもたらしていたことも判明する。
 大学昇格後の一九二三年、菅と筒井の前校長の功績を永く顕彰するため、募金によって本館正面に鑄像費三,二〇〇円、台座建設費二,四〇〇円という大金をかけて二人の胸像が建てられた。写真によると、りっぱな台座にすえられた胸像であるが、惜しくも戦時中の一九四三年(昭和十八)、金属供出の国策に応じて撤去された。戦争のためとはいえ貴重な歴史と功労者が姿を消してしまったのである。今では一九六六年に宮本隆によって新たに作られた胸像が、資料室にむなしく埋もれているのは残念であり、申し訳ないことである。
 医師を育てる教育者としての信条は《職業に貴賤ははない。ただしかし、医師は尊い人命をあずかる崇高な職業であることを忘れてはならない》《よき人間のみが、よき医師たり得る》であった。
 筒井は本学の歴史をかざる校長であり、その名を銘記すべき功労者である。それだけではない。学生時代から早くも医書の翻訳を始めており、生涯にわたって情熱を注いだ名著『臨床医典』が信じられないほど長い命脈を保っている。医専校長として、教授として、著者として、岡山と千葉だけでなく、筒井八百珠は長く医界に貢献した。