岡山医学会と高坂駒三郎
本会報七十八号(一九九五)の歴史の広場欄に、第二解剖の村上宅郎教授が「関正次教授と日本組織学記録」を寄稿している。それによると『岡山医学会雑誌』は「この雑誌に掲載された論文は信用できぬ、とくに学位申請中の論文は審査が終わるまで印刷にまわしてはならぬ」とご難続きであり、また英語版の『Acta Medica Okayama』も、「役に立たぬから止めてしまえ」と批判の声があるという。医学の進歩と激流の情報化時代にあって、百年の歴史と伝統ある会誌をこれまでどうり継続するのか、この両誌はすでに使命を終えたのか、あるいは新たな役目を担ってさらに発展を期すべきか、ことの是非について門外漢が判断することは不可能であろう。そこでこれを機に、本学と岡山医学会ならびに『岡山医学会雑誌』の起源について回顧し、会の創設と会誌の創刊に情熱を注いだ一人の先人を紹介したい。
本学の前身である岡山県医学校が、国立の第三高等中学校医学部となったのは一八八八年(明治二十一)であり、岡山医学会はその翌年に発足した。当時は大学といえば東京大学医学部の一校だけで、岡山以外の高等中学校医学部は第一千葉、第二仙台、第四金沢、第五長崎の四校に過ぎなかった。岡山医学会の起源について『岡山医学会五十年史』(一九三九)には次のように記されている。
岡山医学会が創立される以前から、岡山県医学校の学生であった高坂駒三郎らが中心となって、有志の学生が高坂の下宿していた国清寺の書院に毎月一回集まり、まずドイツ語の講習から始まって、一般科学とくに医学に関連した問題について勉強会を開いていた。また同じ頃に学生の矢野恒太や岸美之三、石井十次、越智豊太郎、江良郁二らも医政問題を研究する会を開いていた。
八七年(明治二十)八月、文部省は告示第六号をもって全国五つの各高等中学校に医学部を設置し、それまでの府県立の医学校は廃止されることになった。そのため医学部誘致をめぐって岡山と、大阪および京都との間にはげしい競争となった。岡山県医学校の有志は一団となって理医学攻究会という会名のもとに団結し、第三学区の医学部は岡山へ設置すべしとの主張をかかげて運動を行った。その本部は高坂のいた国清寺におかれ、高坂の編集した機関誌も発行されていたが、十頁ほどの機関誌は二、三号で廃刊となり一部も残っていない。
矢野と岸は高坂の一年先輩で八九年の卒業生であり、矢野はのちに第一生命保険相互会社を創設し、卒業試験に失敗した石井は四年で中退して、岡山孤児院を設立し社会福祉の先覚者となっている。越智は高坂と同期で江良は雑賀魯逸と改名しているが、岡山医学同窓会の『会員名簿』にその名が見られない。高坂は名簿では高阪となっている。
第三高等中学校(本校は京都)の医学部が近畿・中国・四国の二府十四県の中で岡山に決まったのは、文部省御用掛から文部大臣になった森有礼が岡山医学校を視察した時、岡山が関西第一の医学校であると称賛して報告したことによるという。五十年史が引用している八五年(明治十八)の『東京医事新誌』第三八七号を見ると「岡山県医学校近況」と題する記事がある。
「先般森文部省御用掛は、学事視察のため四国および山陽の諸国巡回の途次岡山県に来着し、本県諸学校巡視の際同校にも来られ学事の実況を尋問し、また親しく生徒の授業を見聞し、授業法すべて宜しきに適うたるは賛賞もただならず。かつ本校をもって関西第一等の医学校とまで賞美せられたり」とあり、さらに「八月にはかたじけなくも聖上同校へ御臨幸遊ばされ、同校長菅氏は県令を経て同校の沿革書および祝詞を奉る。やがて御巡覧の上御還幸相成りたるよし。真に千載の一時、同校の光栄とは実にこの事をいうべきなり。因にいう。今回山陽道御巡回につき陛下みずから御臨幸遊ばされたるは、同校のみにして他校はすべて御代覧なりしとぞ」とある。
これらの記事からも、当時の岡山県医学校が他県の医学校より高く評価されていたことがわかる。八八年四月に第三高等中学校医学部が岡山に設置され、学生の運動を好意的に支援していた学校側も、研究発表機関の必要性から学生と協議して岡山医学会が設立された。
会則の初めに「医科に関する事項を研究しこの道の進歩を謀るをもって目的とす。会は岡山医学会と称し、会の目的を履行するため集会し雑誌を発行すべし」とあり、会員資格と会場、その他の細則を定めていた。菅医学部長や原田元貞教授と学生代表であった高坂らが推進人となり、高坂は最初の幹事に推され同時に会誌の編集も担当しており、岡山医学会の発足にあたって大きな役割を果たしていた。同じく五十年史に創立の思い出を記している。
「回顧するに今を去る五十年前後における吾が医学界は、ドイツ医学直輸時代、語を代えていえば翻訳時代または打診板時代というも全く不当にはあらざるべく、ただこの時期にあり日本医学と称すべき酵素は、日に月にうん醸(醸造)して、まさに成熟の機運に際せるは夙に識者の察知する所なり。
当時、余は岡山県医学校に学を修めしが、同志数輩(岡山医科大学教授荒木蒼太郎および医学博士疋田直太郎氏等)と余が寓居(小橋町国清寺)においてドイツ語学の講習を努めしが、日に月に同志増加し二十余名の多きに及び、したがって学業講習結果の交互報告より、一般科学とくに医学の帰趨するところの科目等につき、質疑論及等相行わるるに及び学会組織となり、毎月一回国清寺書院に開会、六、七十人の会合を見るに至り、会場の整理自然と困難になれるより、協議上、当時の校長菅之芳先生に事情を具申し講堂をもって会場に当てんことを乞いしに、校長は深く機運のおもむく所を察知せられ欣然として許可せらる。
ここにおいて医学校講堂において毎月一回あて開会、演説質疑等挙行せられ初めて学会の体裁をととのうに至れり。すでにして一層の進歩は、校長以下各教授交代に、また本校および病院に関係ある諸氏もこもごも参加せられ、さらに所在開業医諸氏の入会しきりに増加して、会の基礎ようやく強固発展の機運純熟するに至れり。先ずこれ会誌発行の議出で、余、不敏を顧みず万般の摂理に当たりしも、もとより学会創設の折柄といい、学生の身分のことなれば不完全はあえて陳弁するを俟たず。幸いに菅先生外諸教授、諸同志の懇切なる指導補助を得たるは今日なお感銘する所たり。
すでにして余、業を終え別れを本会に告ぐるに先立ち、桂田富士郎先生は東京大学病理学教室よりぬきんでて第三高等中学校医学部に赴任せられた。その卓抜せる才幹と研磨に倦むことなき学識とは、会長、会乾諸氏を輔翼して日本医学を我が岡山医学会に紹介せられ、本会を盛大ならしむると同時に、会誌の光輝を添えられたる偉大な功績を想起し、容易ならざる困難に遭遇せられたるを感謝せずんば非ず。なお我らが当時会を組織し会誌を刊行するに至りたるは、結果は学術上はさておき、学生間はもちろん学生と教授との交互意志の疎通親睦を増加し得たる利益の多大なりしことは、七十三老翁の今日記憶を新たにするものあり」
八九年(明治二十二)二月二十五日岡山医学会の最初の準備会が医学部講堂で開かれ、同年十二月十三日『岡山医学会雑誌』の第一号が発行された。それによると会長以外の最初の役員は、高坂をはじめ幹事と編集委員、会計はすべて学生であった。
会長 菅之芳
幹事 高坂駒三郎 江良郁二
林 武平
編集委員 高坂駒三郎 藤崎力松
林 武平 五十嵐辰馬
江良郁二
会計 越智豊太郎 北条寛平
編集委員と会計が協議して原田元貞と瀬尾原始教授を編集主幹に、熊谷省三教授を会計主幹に推薦している。会誌の冒頭には会長となった医学部長の創刊の辞がある。
「ここに明治二十二年十一月某日我岡山において、医学士、開業医、医科学生等諸君相謀り、岡山医学会を組織せし第一回を第三高等中学校医学部内に開かる。まことに慶すべき賀すべきのことなり。そもそも本会を創立せられたる、けだし偶然にあらざるを信ず。
およそ医学なるものは、頗る日進の学術にて一日一時たるも忽にすべからざるは勿論なりとす。故に広く有志等を募り互いに知識を交換し、これが日進の学理に遅れざらんことを努むるにあり。これ本会の創立せられたる起因なりとす。願わくは諸君とともに刻苦精励、彼我の長短を補い、もって本会の隆盛と医学の進歩を謀らんことを。開会に際しいささか祝辞に代う。菅之芳」
続いて六題の論説が掲載されており、その中の五題は、瀬尾原始(外科)、坂田快太郎(外科)、原田元貞(婦人科)、富永伴五郎(生理学)、吉村祥三(解剖学)らの教授であり、ただ一人の学生である高坂の、血族結婚の弊害を論じた「血族結婚および遺伝(未定稿)」が論説のトップに掲載されている。さらに雑録欄に「ワルダイエル氏が毛髪研究会に於いて述べたる報告」の抄録と、高阪句馬の名で「杏林蠡漁」(蠡漁はしみ、書物を食う虫、本を読んでも活用を知らない人)と題して、「医」という字の意義について解説している。
次いで第二号を見ると、五題の論説の最初に高阪子馬三郎の名でゲーテのファウストを引用して「医士の価値」を論じ、K・K生の名で後藤新平薯『国家衛生原理』の書評を書いている。この第二号によると、岡山医学会十二月例会の第一席で「ヒポクラテスに就いて」を口演しており、その要旨が第五号の「ヒポクラテスの事を記す」に掲載されている。その中でヒポクラテスの「生命は短く事業は長く判断は困難なり」という言葉を紹介している。
翌年四月に開かれた第一回総会に当たり、最初に管会長が開会の挨拶を述べ、次いで幹事の高坂が庶務報告を、熊谷教授が会計報告を行っている。このように岡山医学会の創立に当たって学生の高坂が中心となっており、全学生の代表として、幹事として、また編集委員として、会の運営と会誌の編集に驚異的な活躍をしていることがわかる。高坂は岡山医学会ができた翌九〇年に卒業しており、菅部長は卒業式において次のように祝辞を述べている。
「今ここに明治二十三年十二月十三日、本部第三回卒業証書授与式を挙行す。例により其の要を報告すること次ぎの如し。
そもそも今回の卒業諮問において、病気欠席者を除き受験者九十八名にして其の諮問を全うせしもの四十六名なり。この諸君は皆よく多年の勤労に耐え本部制定の学科を復習し、今ついに其の志を達せしものなり。自今なお進んで斯学の蘊奥(奥義)を究むると実業に就くとを問わず、其の目的を誤らざるは余の深く信ずる所なり」
これによれば当時の卒業試験はきびしく、卒業できたのは卒業予定者の半分以下であったことがわかる。岡山医学会の発足にあたって、立役者として活躍した高坂駒三郎はどのような人物であろうか。
日本医師会編集の『医界風土記−中国・四国篇』(一九九四)香川県の部に「高坂夜雨のこと」が掲載されている。原文は一九七八年(昭和五十三)の『日医ニュース』四〇二号に掲載されたもので、執筆したのは四国新聞の論説委員を勤めていた阪内駿司氏である。同氏はかつて昭和二十年代に高坂を取材したことがあるが、すでに引退して老境にあり、四十年以上も経過しているので確かな記憶がなく、取材メモもないので執筆した内容以上のことはわからないという。当時の高坂はたいへん耳が遠く、息子の嫁高坂藤子さんの通訳によって、どうにか話を聞くことができた。阪内氏の紹介により、高齢ながら藤子さんが大川郡引田町に健在であることが判明した。高坂駒三郎の人物像について、藤子さんから聞き得たことや阪内氏による記事、さらに『香川県医師会誌』(十四巻二号・一九六一)『高松市医師会史』(一九九〇)などから概略を知ることができる。
高坂は、一八六六年(慶応二)九月二十日、香川県香川郡上笠井村鬼無(現高松市)に医師であった那須資哲の三男として生まれた。資哲は武術のほか絵画、書道、俳諧などでも有名な人であり、那須家は源平屋島の合戦において名を残した那須与一の血を引く一族であるという。父の門人で親戚であった医師高坂柳軒の書生として入門し、のちに高坂の養子となって那須姓から高坂姓に変わっている。十六歳のときに上京してドイツ語学校に入ったが、間もなく健康を害して帰省した。おそらく最初は東京大学の医学部を目指していたのであろうが、その後に岡山県医学校に入学している。在学中の活躍ぶりについては前述したとおりで、早くからリーダーシップを発揮した行動派であったことがわかる。
九〇年に第三高等中学校医学部を卒業した高坂は、翌年に再び上京して外務省の嘱託になり、ドイツ語医書の翻訳を手がけていた。翻訳はすでに在学中から始めており、ヒルト薯『新纂衛生学』、フォーゲル薯『小児科全書』などを翻訳し、森鴎外に序文を依頼している。当時の東大では、ベルツやスクリバなどドイツ人教師によるドイツ語の講義があり、ドイツ医書を翻訳出版する学生がいたが、高坂のように高等中学校医学部の卒業生でドイツ医書を翻訳出版したのは驚くべきことである。高松の空襲で罹災する前には、書架に多数のドイツ語医書が並んでいたという。
『東京医事新誌』第七七九号(一八九三)に「記者嚢日(先日)高坂駒三郎君をその邸に訪い、談たまたま保険医学のことに及びし際、氏は先年来日本生命保険株式会社の嘱託審査医たる遠藤医学士の玉稿を紹介せらる。すなわち、本年一月来本誌に読載する<健康診断>と題する文これなり。しかるに今また久しく同社の嘱託審査医たりし矢野恒太氏の<保険医>と題する文を紹介せらる。矢野氏の文は本号より光彩を放たんとす」と編者が記している。これによると、学生時代の友人である矢野の医学雑誌への投稿の世話もしており、矢野との校友は生涯に及んでいた。また東京では藤野海南や重野安繹らについて漢詩を学んでおり、「夜雨」と号して高雅な詩風で新聞紙上を飾っていた。鴎外の他にも言論界の有名人であった陸羯南、政治家の古島一雄らと詩をつうじて親交があり、正岡子規ら高名な文人との交友も深かった。とくに脊椎カリエスを病んで病床にあった子規の世話をして、その時に香川出身の医師滝守永の「赤竜散」を使っており、開業後もこれを万病薬として用い「高坂のくろ薬」といって有名であった。
九八年(明治三十一)頃に高松に帰って北亀井町で「十全堂」小児科医院を開業し、丸に十字の黒紋つきを着て往診は人力車を用いていた。のち野方町に移転して野方の高坂さんと親しまれ、すでに明治の末には高松医学会(修交会)第三代会長に推されていた。一九四五年(昭和二十)七月の戦災後は、嫁の実家の大川町で、次いで引田町に移って開業した。詩作にはげんで漢詩では香川県随一と評価され、冷水摩擦を日課として健康に恵まれ亡くなる日まで現役の開業医であった。五三年(昭和二十八)四月六日、忽然として八十八歳の生涯を終え高松市の姥ガ池墓地に葬られた。没後に、残された千編以上の詩が『夜雨詩集』として十六冊にまとめられている。
高坂は本学の黎明期に在学し、指導力を発揮し最も活躍した学生リーダーであり、岡山医学会の発足や、会誌の発行に当たって抜群の貢献をした銘記すべき先人である。学生時代からドイツ語医書を翻訳しており、上京して著名な文人らと親交を結んでいた。郷里の香川に帰ってからは詩作を友とし漢詩人として令名高く、頑固一徹で信念を曲げない、ユニークな地域の開業医として長い生涯を終えた。『岡山医学会雑誌』の存在価値について疑義が提起されていることを知り、岡山医学会の起源を回顧し、会誌創刊の経緯とともに忘れられた高坂駒三郎先生を紹介した。
(阪内駿司氏、高坂藤子さん、香川県医師会理事前田道正氏のご協力をいただいた。)
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