生命保険の先覚者 矢野恒太

 「矢野恒太翁蒼梧と号す。慶応元年十二月二日上道郡角山村新城山麓に生まる。父三益母伊勢、父祖十六代悉く医家たり。翁亦岡山医学校に学び、後其生涯を生命保険に捧ぐ。夙に非射利(非営利)主義相互組織の実現普及を念願し為に独逸へ留学。後官に就き保険業法の起草に参し、明治三十五年、我国最初の相互会社第一生命保険相互会社を創立す。昭和二十一年取締役会長を辞する迄、広く公共の為に尽瘁す。晩年、国民数表の著述に専念す。翁名利に恬淡、直言清行、数理に長じ文筆に達し名著多し。郷党の為に三徳塾を起し後岡山県に贈る。昭和二十六年九月二十三日八十五歳を以て東京に没す。功により従五位勲三等に叙せらる。茲に郷党知友相謀り翁顕彰会を作り、特に故山の石を用いて顕彰の碑となす。

和二十九年四月
    岡山県知事 三木行治撰
      「桂南大原専次郎書」

 これは岡山市竹原の三徳園にある矢野恒太の顕彰碑で、碑文を書いたのが時の岡山県知事であった三木行治(一九二九年本学卒)である。第一生命を創設した矢野は、『岡山大学医学部百年史』(一九七二)に「回想幾星霜−異色の教官および卒業生」の一人として紹介されている。矢野は一八六五年に矢野三益の長男として竹原で生まれた。竹原は吉井川西岸の岡山市東部にあり、家は代々の医家で、父の三益は教育熱心で息子の成長の記録を残しており、産科が得意で地域から尊敬されていた医師であった。
 七八年(明治十一)、矢野は家業を継ぐため本学の前身である岡山医学教場に入学した。七〇年(明治三)四月、岡山藩は上道郡門田村に医学館と病院を開設し、翌年七月、市内中之町に小病院を設けて医学館を医学所と改称し、七二年七月、病院を合併して中之町に移し医学教場ができた。七九年に、病院は弓之町に移って岡山県病院と名称が変わり、矢野が入学したとき病院は建設中で国清寺が仮校舎となっていた。
 八〇年(明治十三)三月、親にも学校にも下宿にも無断で退学し、上京して東京ドイツ学校に入り、東大医学部を目指して同年十一月東大予備門に入学した。予備門に入ったが学資が続かなかったために進級できず、八二年六月に中途退学して帰郷し、翌年一月に岡山県医学校に再入学した。
 在学中の八七年(明治二十)に中学校令が公布され、全国を五区に分けて岡山は第三区に属し、高等中学校は京都に置かれた。高等中学校医学部の設置については、大阪、京都、岡山の三つの医学校の間で激しい誘致合戦が行われ、学生の運動もまた激烈で矢野は急先鋒の一人であったという。八八年(明治二十一)四月に、岡山県医学校は廃止され国立の第三高等中学校医学部が創設され、これ以後は就学年限は四年となった。矢野は四月に三年級に編入され七月の試験に及第して四年級に進級し、昇格した医学部第一期生として八九年(明治二十二)十二月に卒業した。その時二十四歳であった。
 在学中の矢野は服装がハイカラで雄弁で、同級生の中で際立った存在であり、早くから指導力を発揮していたという。クラスの世話役となって、成績は最上位ではないのに同輩の人望はきわめて高かった。そのため三年の組長選挙で当選しており、早口でノートのとりにくい先生の講義を記録し、模範ノートを作りプリント配布している。当時は大日本私立衛生会岡山支部の主催によって、寺院や劇場などで衛生についての講演会が月一回開かれていた。講師は医学校の教師が多く、予定されていた講師に差し支えができ、矢野が代理で演壇に上がり見事な演説をして聴衆を魅了したこともあった。
 また学内には高坂駒三郎を代表とするドイツ語や医学の勉強会と、矢野や、岡山孤児院を創設し社会福祉の先覚者となった石井十次などが指導した医政問題の研究会があった。この二つの会が一体となって、さらに研究発表機関の必要を痛感していた教授陣の協力によって岡山医学会が誕生したのである。
 「          矢野恒太君
  本会幹事ニ当リ能ク其任ヲ尽セリ
  今任期満ルニ及ヒテ余之ヲ証ス
       岡山医学会長 菅之芳
   明治二十二年六月     」
 卒業直前に開かれた岡山医学会十二月例会で、矢野は「アルコホールに就て」と題して口演している。岡山医学会の例会で口演したのはクラスで矢野がただ一人である。半世紀後の『岡山医学会五十年史』(一九三九)によると、八九年(明治二十二)二月二十五日に始まる『岡山医学会会員入会簿』の第一番に矢野の名が記載されている。また岡山医学会の起源について「御断り」と題して、当時七十五歳の矢野は次のように回想している。
 「創立五十年記念会を催さるるにつき、余の記憶するかぎり創立当時の事情を話すよう請求あり。余の天性随分出しゃばり屋で、とくに壮年の在学時代には学校に起こりたる諸問題には大抵みな関係していたから、余に聴いたら本会の創立にも何らか関係があったろうと考えられたものらしい。
 誠に面目次第もないが、実はほとんど当時の記憶がないのである。両三年前、山口県長府の雑賀魯逸君から、本会創立当時の書類で君の処に残っていたものを贈られた。これはソックリ本会へ寄付したから本会で保存されておるかも知れぬが、これを見ると大体自分の手筆であって、当時本会の発起人とか幹事のようなことに差出ていたらしいのです。
 しかるに本会創立の明治二十二年秋が丁度小生等卒業の年に当たっている。したがって二十二年卒業生が比較的本会創立に関係していないようだ。小生も卒業後間もなく大阪へ出て清野先生の推薦で日本生命に入り、爾来同社医局の仕事をしたり地方へ出張したりして、同社を退いてからも専ら生命保険事業に没頭し、全く医学の方から脱線してしもうたのである。返すがえすも恥じ入るが本会のことは全く頭の中になくなったから、今さら申し上げる材料もないのである。このことではかつて菅先生から叱られた。お前も石井十次も折角医者にしてやったのに脱線してしもうたと」
 卒業したとき父は健在で、すぐ家に帰って開業する気持ちもなく、数年間は修行するつもりで大阪に行って恩師の清野勇を訪ねた。岡山の校長から大阪府医学校の校長に転任していた清野は、大阪府立病院長を兼任し日本生命の顧問医となっていた。そのとき日生で社医を探しており清野に同社への就職をすすめられた。  『東京医事新誌』(第七八二号・一八九三)に投稿した「保険医」に「明治二十二年九月下旬、大阪に日本生命会社を興すものあり。その年十二月清野医学士の紹介を以て余を聘して同社専属の診査医たらしめんとせり。当時余は全国漫遊に志ありしを以て、少しもその事業の如何を問わずして之を諾せり」と就職について記している。
 これが保険界へ入る機縁となり、九〇年(明治二十三)に日生に入社して生命保険の審査を始めた。研究心が旺盛な矢野は保険制度について研究し、保険募集でも優れた手腕を発揮した。しかし経営陣と意見の相違から三年後に退社し、この時から郷里に帰って開業医となる方針を大きく転換して、ひたむきに保険の研究に没頭した。
 当時は保険会社は小資本でもできる有利な事業であるというので、全国的に会社設立の機運が高まっていたが、経営が不安定なものが多かった。矢野は内外の文献を読んでワグナーの保険論や、ゴータにあるドイツ最大の保険会社を知った。その組織は日本にはない会員組織であり、保険会社に最もふさわしいと確信するに至った。そのため相互主義保険会社の実現に一生を賭けようという決心が固まった。卒業して四年後のことである。
 独力で生命保険理論について研究し『東京経済雑誌』『東京医事新誌』『医海時報』へ「生命保険会社の責任積立金に就いて」「応用医学の一新領地」「日本人の命数」など、十六編の先駆的な論文を発表している。矢野が提唱した相互保険に安田財閥の創始者である安田善次郎が注目し、共済生命の設立に参画した。九五年(明治二十八)にドイツに留学し、ゴータの生命保険で実務を学び、二年後に帰国し総支配役に就任した。九七年に退社して、農商務省の岡野敬次郎のすすめによって同省嘱託となり、保険業法の起草に参画し初代の保険課長になっている。
 しかし自分の理想とする保険会社を創るため一九〇一年(明治三十四)に辞任し、その翌年、確実、低廉、親切をモットーとして日本最初の相互会社である第一生命を創業した。相互会社とは、契約者が保険契約の当事者となると同時に、社員となって会社の運営にあたる仕組みの会社である。良心的に経営すれば採算がとれ、利益を契約者に戻すという理想を抱いて、小口の契約は扱わず高額契約を専門として出発した。契約者の保護に主力を注ぎ、契約の選択はきびしく契約金の支払いは寛大にし、いわば入学を巌にして卒業をゆるやかにしたのである。
 契約をあせらずファンの紹介により社員が社員を増やす方法に重点をおき、余分な経費を惜しみ代理店をおかず初めは外務員も使わなかった。確実第一と他社にないサービスを目指し、外国の死亡表ではなく日本人の死亡率を基礎とし、保険料は一般より高かったが余剰金は返戻し結局は安くなるようにした。五年目からは払込保険料に対して毎年三%の配当を実行している。それまで保険は死ななければ損だといわれていたが、それを変えて長生きをするほど得な保険を提供することにしたため、これらは日本の生保業界に大きな影響を与えた。
 矢野は経営に全力を傾け、相互主義生命保険の普及と社業の視察のために毎年自ら全国各地を遊説していた。初代の社長は柳沢保恵伯爵に依頼し、先ず専務に就任し、一五年(大正四)から三八年(昭和十三)まで二十三年間にわたって社長を、次いで四六年(昭和二十一)まで会長を勤めていた。さらに生命保険協会の理事長、日本アクチュアリー(保険統計)会長、日本保険医学協会副会長として業界の発展に大きく寄与している。政府の小口保険官営化の動きに対して反対の論陣を張るなど、保険業界に何事かあると意見をまとめて外部と折衝するのは、いつも矢野の役目になっていた。また相互貯蓄銀行頭取や三井信託取締役、田園都市会社社長、東横電鉄社長、目蒲電鉄社長なども勤めていた。第一生命の社長を退くとき後継者として石坂泰三を指名した。任された石坂は期待に応えて健全経営を行い、のちに経団連の名会長となって財界総理と称された。
 矢野は保険業界だけでなく社会的にも大きく貢献している。かつて結核は国民病といわれており、とくに青壮年の罹患が多くその死亡の三分の一を占めていた。保険金支払事由で最も多かったのは結核で、生保会社にとって最大の強敵であったといえる。結核予防協会理事であった矢野は結核の恐ろしさを警告して予防事業に乗り出し、三四年、三六年には早期発見と治療のために、第一生命が当時の大金である二〇〇万円を出している。結核予防会が誕生するまで、第一生命の設立した療養施設の「保生会」は結核対策に先駆的な使命を果たしていた。
 矢野は健筆で、日本の統計思想の普及に寄与した『国民数表』や『金利精覧』の他に、『ポケット論語』『一言集』『芸者論』などの、保険、経済、統計、数理、儒教に関する五十を超える多くの著書を執筆した。それ以外にも、新聞や雑誌に掲載された論文や講演の記録、さらに第一生命の事業用の文書など多数の資料が残されている。また講演が得意で、何事についても独自の見解を持っていたことから「一言居士」と称されていた。「蒼梧」(相互)と号して書がうまく、生活は合理主義で、若い時から旅行を愛し建築が趣味で、創意工夫の天才であった。将棋、謡曲、義太夫、撞球などが好きで何でも新しいものに関心があった。
 矢野は生まれ育った岡山を忘れなかった。数年にわたって岡山県青年会会長を引き受けており、私財を投じて郷里に農民道場「三徳塾」を創設し、農村青年の育成と農村文化の保存に貢献した。三九年(昭和十四)にこの三徳塾は岡山県に寄付され、六四年(昭和三十九)に県立三徳農業研修所となり、さらに岡山県立青少年農林文化センター三徳園と改称されて現在に至っている。
 五一年(昭和二十六)九月二十三日、矢野は八十七歳の生涯を終えた。二年後に財団法人矢野恒太記念会が設立され、五四年に三徳園において矢野恒太翁顕彰碑が除幕され、「矢野賞」が制定され岡山県下の優秀な農業青年に贈られている。没後十年の六一年(昭和三十六)に、三徳園の植月分校であった岡山県林業試験場にも顕彰碑と記念展望台が建設された。また記念会から『矢野恒太伝』が出版され、現在でもなお同会編集の統計書『日本国勢図会』『世界国勢図会』『日本のすがた』『NIPPON』などが、グループの国勢社から発行されている。とくに青少年の社会的意識の向上のために、矢野が自ら筆をとった『日本国勢図会』は初刊以来六十八年におよぶ超ロングセラーとなっている。
 矢野は代々医家に生まれ、医師となったが医学の道を歩まなかった。恩師にすすめられて当時は珍しかった保険医となり、持ち前の才覚と努力により保険医から出発して自分の理想とする相互保険会社を創立した。医学の道は歩まなかったが、保険理論の研究に際して医学の知識が大きな武器になったことは間違いないであろう。明治という近代国家の揺籃期に、生命保険業界に飛び込んで理想をかかげて実現に邁進し、日本屈指の大手生保会社を造り上げた。現在では第一生命の契約者数は一千万人を超え、九三年度末の保有契約高は、個人保険と団体年金保険が七十七兆円、総資産額は二十四兆五千億円に達している。
 矢野は日本の保険王と称された生命保険の先覚者であり、創業者であり、傑出した経営者であり、保険学者であり、統計学者であり、没後に我が国で初の国際保険殿堂入りの栄誉に輝いた。矢野は岡山医学会の会員第一号であり、最もユニークな令名高かった先人である。(執筆にあたり財団法人矢野恒太記念会のご協力をいただいた。)