栄養学の創始者 佐伯 矩(さいきただす)
一九三九年(昭和十四)五月七日、岡山医学会創立五十周年の記念講演会が開かれ、本学に関係のある荒木寅三郎、佐伯矩、藤浪剛一の三人が講師として招待された。
京都帝大総長や日本医学会会頭、学習院長などを歴任した枢密顧問官の荒木は、かつて岡山の生理学教授であった。藤浪(一九〇六年卒)は本会報七十六号で紹介したように、慶応大学理学診療科の初代教授であり、佐伯は国立栄養研究所長を勤めていた名高い栄養学者である。『岡山医学会五十年史』によると、佐伯は「毎回食完全説」と題して栄養学における多年の研究について講演している。
「私が荒木先生のところで勉強を始めましたのは、先生が第三高等学校医学部教授として岡山へおいでになりました時、すなわち私の学生時代からであります。毎日放課後、同級生の徳永(升太)、斎籐(精一郎)両君とともに、とくに生理化学の実習を授けられ、先生のご指導のもとに学校を卒業する前すでに一つの業績を発表させていただきました。
先生のご指導のもとに岡山生理学教室に入門いたしましてから、今日ここに足掛け四十五年になります。その間、岡山生理学教室の精神をもちまして、終始一貫研究に従事いたしておる次第であるにも拘わりませず、生来魯鈍不才その業未だ成るに至りません。今回岡山医学会五十周年記念講演のご依頼を受けました時、私はその任にあらざるの故をもってお受けすることを躊躇したのであります。
しかしながら顧みますに、私が一生をかけて懸命に努力しております栄養学は、いかなる場合におきましても、これをでき得る限り広く伝えご協力を願うということが、道のために最も忠実なる方法であると考えましたので、自分の未熟をも顧みず本日この講演の席を汚した次第であります。
次には演題を選びますに当たりまして、いかなる演題を選ぶべきかについて非常に苦心いたしました。結局私が関東大震災当時からすでに世の中の実行に移し、そのことを栄養学会において十数回にわたって発表して参りました「毎回食完全説」、外国へ発表いたしました時はこれを訳して「Eath Meal Perfect Theory」と申しておるものに定めたのであります。説と申しましても、これは一々科学的に実験的に立証せられたものでありまして、原薯であり同時に実際的生活上にも他方面において試験済みであり、またちょうど時局がら国策にも副うものであると考えたのであります」
以上のように前置きをして平素の研究課題であった栄養効率、毎会食完全と回復体重、天然食品と加工食品による飼育試験などを論じた。講演会につづいて開かれた懇親会の席でも指名を受けて挨拶している。
「今回ご命令により参りましたについては実に人一倍の嬉しさがあったのであります。五十周年の記念講演を申上げるにつき、先般同窓の方々にお会いし荒木先生のお供をするということになり、東京で荒木先生にお会いしまた岡山駅では先生をお迎えいたしましたのであります。そうして先生とご一緒に、幸いにも母校をたって数十年の後、再び先生にお目にかかることができ、しかも今日は先生とご同席できたということは誠に幸福なことで、誰人よりも勝った幸福と考えておるのであります。私は今日荒木先生のお手許で勉強しておったことを憶出しまして非常になつかしく感じたのであります。
当時私は朝五時頃に下宿を出まして、そうして夜は十時よりは早く下宿に帰らないのであります。それは先生が日曜だけは早くお終いにするということもありましたが、十時の鐘が鳴るまで先生は研究室にござる。十時の鐘が鳴ってから、ガスはありませんでしたので七輪を使用して仕事をしておったのでありますが、その沢山な七輪の火の用心を悪くしないようにしなければならないと思いまして、それを始末しておりますと、どうしても十一時になるのであります。
お風呂へ行くにも、何時も先生が作業をなさっておられたので、学校の裏に風呂屋がありましたが、そこへ作業服のままで参ったのであります。昼飯も晩飯も弁当屋からとって食べていたのですが、一日でも新しいご飯を食べるということはありませんので、いつも前の日のご飯を食べるということになり冷たいご飯を食べていました。同じ弁当屋から同じ弁当料を出して、そうして冷たいご飯を食べておったのでありますから、毎回食不完全ということことになっておったのであります」
このように母校の記念講演会に講師として招待され、講演の機会を与えられた栄誉を感謝し、恩師に会えたことを喜んで研究室時代を回顧するスピーチをしている。佐伯は環境に恵まれた岡山で学んだことを終生の誇りにしていたという。
日本の自然科学はすべて明治の初めに欧米先進国から輸入された。しかし栄養学は日本で誕生したのである。日露戦争のあと国民病といわれた結核、脚気などが猛威をふるっていた。これらの疾患は栄養学の研究によって少しでも改善されるのではないか、佐伯がこうした考えから研究を始めたのは一九一四年(大正三)のことである。国立栄養研究所の開設を推進し、最初の栄養学校を開校し、食品の成分分析を行い、今日の栄養学の基礎となっている一日二四〇〇カロリー、蛋白質八十グラムという栄養基準作りなど、栄養に関する広範な実験的研究と実践に没頭した。
栄養学の創始者となった佐伯について『栄養学者佐伯矩伝』(玄同社、一九八六)が発刊されている。著者の佐伯芳子さんは佐伯の長女であり、最晩年の門下生でもあり、佐伯栄養学校の校長である。国立栄養研究所の初代所長であった佐伯矩の足跡と業績を回想してみたい。
佐伯は一八七六年(明治九)に愛媛県周桑郡小松町に生まれた。県立松山中学を経て本学の前身である第三高等学校医学部に学び、九十八年(明治三十一)に卒業した。学生時代から生化学に興味を持って荒木寅三郎教授について指導を受け、在学中すでに研究成果を発表している。九十九年に荒木が新設の京大生科学の初代教授に抜擢されたため、級友の斎藤精一郎とともに京都に移って指導を受けた。斎藤はのちに岡山の内科教授になり、主として消化器を担当し最初に胃鏡(胃内視鏡)を導入した。
次いで荒木の紹介により、上京して伝染病研究所に入り、荒木と親しかった所長の北里柴三郎の指導を受けて細菌学や毒物学を学んだ。〇二年(明治三十五)にラファヌス・ディアスターゼを発見し、さらに牡蠣(かき)のグリコーゲンや脚気患者の代謝に関する研究などを行った。
〇五年に、北里柴三郎と荒木寅三郎の推薦によってエール大学のフェローとしてアメリカに留学した。アメリカ医化学会の創始者である学長のチッテンデン教授に入門し、医化学や生理学などの研究に従事していた。門下には後にアメリカの学会を担うようになる多くの優秀な研究者が集まっており、充実した研究生活を過ごすことができた。その間に、ドクトル・オブ・フィロゾフィーの学位を受け、アメリカ農商務省の技師やアルバニー医科大学の講師として勤務している。六年後の十一年(明治四十四)にアメリカを去り、イギリス、ベルギー、フランス、ドイツなどヨーロッパの各地を歴訪して帰国した。
翌十二年に佐伯は日本の学位を受け、大根ディアスターゼの論文は夏目漱石の『吾輩は猫である』に引用され、『家庭医学双書』にも記載され大根の食品としての評価が高まった。帰国した当時の日本は、結核や脚気などで大勢の若者が亡くなっていた時代であり、これら青年の死亡は貧しさと低栄養が無関係ではなかった。佐伯は栄養学の重要性を強く認識し、そのため栄養の総合的な研究と、栄養学の独立を目指して努力することを決意した。
十四年(大正三)に、東京芝白金に念願していた私立栄養研究所を創設したが、これは世界で最初の栄養研究所であった。二年後の十六年に研究所を芝金杉に移して、生理、病理、細菌、科学、新陳代謝の研究室や動物実験室などを設置した。そこで栄養食の設定、動物性蛋白、偏食に関する研究、米や雑穀の精米度と消化吸収、ならびに生化学的研究などを行った。所内に診療所も併設し、臨床栄養の調査研究とともに新しい栄養療法を実施していた。また我が国で初めての栄養講習会を開催し、終了式には内務大臣などの多くの来賓を招待している。
佐伯は教科書などに使われていた「営養」という言葉を「栄養」に改訂するように提言し、「偏食」「栄養食」「栄養効率」「栄養指導」などの用語を作った。その後にこれらの用語は一般に用いられるようになった。さらに「学校給食」を発育期にある学童の栄養と、社会の食生活改善を目的として確立しなければならないと提唱した。これにより学校給食が単なる救済や慈善事業ではなく、保健向上の目的で実施されるようになった。十七年(大正六)に東京銀座の小学校で、翌年には都下の十数校で学童への給食が実施されるようになり、また炊事場や適当な設備のない学校ではパンによる給食を奨励した。
佐伯は国立栄養研究所の必要性を強調し、設立議案を上程するための参考資料を衆議院に提出した。内務省は栄養研究が国の急務であることを認め、多くの関係者の支援もあって、二十年(大正九)にようやく執念が実って建議案が国会を通過し、国立栄養研究所が開設されて佐伯が初代の所長に任命された。また佐伯は、専門職である栄養士の必要性を痛感し、養成について再三にわたって国に要望したが、予算の関係もあって実現に至らなかった。そのため二十四年(大正十三)に、以前の私立栄養研究所の跡地に栄養学校を開校し、栄養指導の専門家を育成するための教育を始めた。これは世界で最初の栄養学校で、卒業生を栄養士と称した。戦後になって栄養士の学校が増加したため、栄養学校から佐伯栄養学校と校名を変更している。
二十二年(大正十一)に、国際連盟衛生委員が来日して研究所を見学し、ロックフェラー財団の派遣員によって業績が称賛され、東京で開かれた国際学会で栄養学に関して講演を依頼された。このようなことから国連保健部は栄養問題の重要性を認識するようになり、佐伯を国連主催のパリ大学における講習会の講師として招待した。国連から交換教授としてヨーロッパへ招かれたのは日本人では佐伯が最初である。二十六年(昭和一)の末に日本を出発し、パリの外にもヨーロッパ、アメリカ、南アメリカ各地で栄養について講演を行い翌年の九月に帰国した。招待が決まって大急ぎで執筆した『栄養』の序文で次のように述べている。
「真に研鑽と工夫を積みつつある間は本は書けぬものであると私は思う。何となれば、本を書くことは斯道の学識経験についての当座の決算をせねばならぬからである。故に私は自分に今日なお本を書く気分の萌さないということが、否々、本を書くことに甚だしく臆病であるということが、私には私の学問開拓上の欲望の、まだまだ枯渇するに至っていないという証左であるとして心に之を喜ぶ。
従ってここに刊行する一冊は私は之をあえて本とは呼ぶまい。ただ今度私が急に外遊の途に上ることになったので、私の留守中の栄養学校の生徒のために平素講述するところを最簡約に記述し、諸生をして其の拠るところを知らしめんとするに止まる。栄養学校は最も進歩したる栄養学上の知識を、日常生活の実際問題に結び付けて明確に之を学習せしむところである。
それにしても何というあわただしさであろう。寝食の時をも奪われ、例えようなく繁忙なるが中にひたすら印刷の工程を急ぎ、読み返しも校正も元より意に任せず、文章の「である」とあったり「なり」とあったりするのをすら訂す暇のない位である。
読者よ、同好の士よ、栄養に覚醒せる先達者たる愛する我が校の生徒よ。私はさらに今ひとつ、それは他日此の一冊を私が一片の影をだも止めず地中に焼き捨てて仕舞いたい、と痛感する時のあるかも知れぬということを諒としておかれたいと附け加える。それほど此の記述の中には私の「我観」が入っており、それに対して重い責任を感ずるとともに此の「我観」の間断なき成長を私は信ずるのである。
大正十五年十月国際連盟交換教授として欧州出張決定したるの日
佐伯 矩識
国連保健部は日本における栄養学の進歩に注目し、その依頼によって佐伯は『Progress of science of nutrition in Japan』を執筆している。さらに三十一年(昭和六)『日本食品成分総覧』を、三十四年に『新選日本食品成分総覧』、三十六年(昭和十一)には『調理食品成分照鑑』などを発表している。これらの著書は食品の消費と生産、栄養上の根拠となり、また外国で行われた食品分析の模範となっていた。佐伯がもう一つ国連に提案したのは、ビタミンの標準の統一と国際単位を決定することであり、今日のビタミン国際単位制は佐伯の主張が通ったものである。
三十四年(昭和九)に念願であった栄養学の独立が達成された。それは日本医学界の第十三分科会となった日本栄養学会であり、第九回医学会総会において初めて独立し、佐伯の主催した栄養学会がその中心となった。さらに三十七年に開かれたWHO主催の会議において、日本代表の佐伯が提唱した世界各国の国立栄養研究所の創設や、栄養士の養成が会議の決議事項になっている。
佐伯は退官したのちも研究を断念することなく、大森に移っていた栄養学校の研究室で研究を続けていた。敗戦によってアメリカ式の栄養学が主流となってきたが、栄養学は日本で生まれて世界に広がったという自負を持っていた。五十九年(昭和三十四)十一月二十九日に八十三歳で亡くなり、栄養学一筋の生涯を終えた。長男のひさしは、慈恵医大の宇宙医学研究室を主催し、三男の篤は佐伯研究室の中心となり、佐伯栄養学校は長女に引き継がれている。
戦時中に栄養研究所は廃止され、国民栄養部として厚生科学研究所の一部となったが、戦後の四十九年(昭和二十四)に厚生省付属の国立栄養研究所として再出発した、八十九年に国民の健康の保持増進に関する調査研究が追加され、国立健康保健栄養研究所と名称が変わっている。健康増進部、臨床栄養部などの七部門に十八の研究室があり、九十二年に厚生省戸山研究庁舎へ移転した。
栄養学という言葉は今では誰でも知っているが、八十年前に日本で生まれた学問で、世界各国はこれに倣って今日の栄養学の隆盛をもたらしている。かつての栄養は生理学や病理学、衛生学などの片隅で個々に論じられていたに過ぎなかった。それを栄養学として確立し、日本はもとより世界中を啓蒙したのが佐伯であり、栄養士第一号は佐伯栄養学校から生まれている。ユニークな輝かしい業績を残し、栄養学の創始者として貢献した銘記すべき先人佐伯矩先生を紹介した。
(佐伯芳子さん、第二解剖村上宅郎教授、清心女子大学食品栄養学科高橋正侑教授、国立健康栄養研究所のご協力をいただいた。)
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