付属予備科教場
岡山県医学校付属予備科教場
一八七〇年(明治三)、岡山藩は医学館を設けて藩医の師弟たちに医学教育を始め、また病院を開院して患者の治療を行った。七二年に岡山藩医学館は岡山県医学所、次いで医学教場となり、七三年に県病院が開院、さらに八〇年に医学教場は医学校と改称された。
八二年(明治一五)、岡山県医学校は文部省から甲種医学校の認定を受けた。翌年一一月二〇日に、岡山県は布達甲第九八号として≪岡山県医学校規則≫と≪岡山県医学校付属予備科教場規則≫を公布し、医学校の内容をさらに充実するため、付属予備科教場という予備校を併設することになった。予備科規則が布達されて一二月に入試があり、八四年から正式に医学校付属の進学コースとして発足したものと思われる。当時は初等・中等教育の制度がまだ普及しておらず、医学教育のための教養課程として予備校を必要としたのであろう。
八八年(明治二一)に大阪、京都、名古屋以外の多くの府県立医学校が廃止され、新たに全国で五つの高等中学校医学部が新設された。岡山には第三高等中学校医学部(三中医)が設置され、県医学校は廃止となり、それにより付属予備科教場もまた設立後四年で廃止された。現存する卒業証書の日付によると八七年一二月二四日が予備科の最終卒業であったと考えられる。しかし予備かはなくなっても、その必要性がなくなったのではない。予備科はその後、私立の岡山薬学校、医学部薬学科、岡山医薬学予備校、次いで高等学校医科予備門、さらに関西中学校へと、学校制度の改革によって複雑に変遷し現在の関西高等学校に至っている。
医学校規則には、第一章の通則から第八章の生徒罰則まで一〇八条の細かい条例が定められ、通則には本校は日本語で医学を教授するところで、臨床講義や実施の演習は岡山県病院で行うことが明記されている。
予備科教場規則には、通則から生徒規則、生徒心得、舎則、罰則までの二六条が定められていた。予備科は医学校付属で医学校への入学希望者を養成することを目的とし、その全科を卒業したものは別に試験を受けずに本科へ入学できた。毎年十二月に十七歳以上の生徒一〇〇人を募集し、体格検査と国史略、日本外史、十八史略、作文、加減乗除、分数などの算術の試験があり、小学全科を卒業した者は無試験で入学が許された。
修業年限は最初は一年で、本科と同じく夏季は朝七時から授業が始まり、漢字、ドイツ語、数学、化学、物理学、動物学、植物学などの講義があり、試験は一〇点満点で六点以下は落第となり、二度落第したり試験を三回欠席すれば退学となった。
本科の入学資格は年齢一八歳以上で、初等中学校以上の学力を有するもの、または同等の学力を有するものと定められていた。修業年限四年で、年一回一〇〇人を募集し予備科を終えたものは無試験であった。
予備科に専任の教師はいなかった。医学校と県病院の職員であった松尾周蔵、片平周三郎、神戸要次郎、河崎柄徳ら四人が兼務し、他に尋常中学校に勤めていた芳本鉄三郎も授業を担当していた。四人については『岡山大学医学部百年史』(一九七二)の医学校と県病院の部に人事と給料の記録がある。
一八八二年八月
任医学助教兼病院副薬局長
片平周三郎
医学校教諭兼薬局長吉田学は病没
〃 九月
任病院薬局長兼医学校教諭
製薬士 松尾周蔵
一八八三年一月
任岡山県医学校教師 神戸要次郎
〃 五月
任岡山県医学校教師 河崎柄徳
二等教諭(月俸七〇円)
松尾周蔵
二等助教諭(月俸四五円)
片平周三郎
三等助教諭(月俸二五円)
神戸要次郎
三等助教諭(月俸二〇円)
河崎柄徳
私立岡山薬学校
予備科とは別に、岡山で薬剤師を養成する薬学校の設立が計画されていた。一八七五年(明治八)に医制が公布され、医師と同じように薬舗業者に開業の資格を与えるため、西洋薬学による薬舗開業試験を課すようになった。八一年(明治一四)に≪岡山県薬種取締規則≫が布達され、薬舗を相続したり新たに開業する場合は資格が必要となった。算術、物理学、化学、薬物学や処方学などの試験が課せられることになり、名古屋や大阪、熊本には私立の薬学校が開設された。これらの薬学校は、少なくとも一名の東大製薬学科卒業生、もしくは同等以上の学力を有する教員が必要とされ、修業年限は二年と規定されていた。
八七年(明治二〇)八月に薬種商有志の石井辰次郎、林源十郎、赤木源次郎、真殿理一郎、三宅力松、中村富三郎、村上音太郎等が発起人となり、岡山の有力者であった中川横太郎に協力を依頼して私立岡山薬学校を設立した。中川が校主となり、東大製薬学科出身の県医学校教諭、兼病院薬局長を勤めていた松尾周蔵が校長に就任し、片平周三郎、神戸要次郎、河崎柄徳などが講義を受け持った。校長はじめ主な教師はほとんど医学校や県病院との兼任で、当時は公務員の職務規程も今ほど厳しくなく、自由でおおらかな時代であった。のちに片平と神戸、河崎は医学校や県病院を辞任し、薬学校から引きつづいて中学校に勤務した。
新しい薬学校は、中川の弟で実業家として名高かった杉山岩三郎が所有していた東中山下の、今の深抵小学校がある所に開かれた。八月一九日の『山陽新報』に生徒募集の広告を出し、九月二三日に開校式を挙げ、修業年限一年半の速成の薬学校で三〇数名の志願者があった。
中川は岡山藩士の家に生まれ、漢学や馬術に秀でていたが「我は無学文盲の健志斎」と称し、型破りの行動力と奇行ぶりを発揮した岡山の有名な世話役であった。頼まれて争いや事件を解決し、街頭に立って学校教育、英語、衛生思想の重要性を説いていた。実業界においても指導者となって活躍し、明治の奇傑、先覚者として市民から敬慕されていた。没後の一九一一年(明治四四)に有志によって、岡山城の入口に近い堀端に個人の顕彰碑としては岡山で最大の「健志斎中川横太郎君之碑」が建てられている。
私立薬学校が開講して二年後の一八八九年(明治二二)に、文部省は各高等中学校医学部に薬学科を付設する方針を決定した。岡山にも翌九〇年に薬学科が設けられ、そのため開校して間もない岡山薬学校はわずか三年足らずで廃止となり、在校生は全員が新しい薬学科へ引き継がれた。私立薬学校は閉鎖に当たり次のような趣旨の挨拶状を出している。
「当校は明治二〇年八月に設立され、三中医の教官四名、尋常中学校の教官三名、他にも数名の教師を招き、器械の足らないものは医学部より借り、薬学科を主とし、かたわら医学予科を教授して来ました。校運はますます隆盛となり、当校の経営は無駄ではありませんでした。
来年二三年四月より医学部に薬学科が設置され、当校の在校生はもちろん今回募集の生徒はそのまま同部薬学科へ引継ぎ、より高尚な学課を受けられることになりました。そこで当校はその筋の許可を得て、同部予備校と改称することに内定しました。このたび生徒百名を募集し、医学科と薬学科への入学志望者に適切な学科を教授いたします。志願者は本月二四日までに申し込んで下さい」。
この挨拶状によると、私立岡山薬学校は今後は医学部の予備校として存続していく方針を発表し、私立であるが医学部予備校の名称を使用するとしている。
第三高等中学校医学部薬学科
八九年三月、高等中学校医学部に薬学科の付設が決まり、金沢第四(定員六〇)、次いで翌九〇年二月に岡山第三、長崎第五、千葉第一(同一〇〇)、仙台第二(六〇)が設立された。松尾が新しい薬学科の幹事となり、私立薬学校のときと変わらず教師の多くは兼任であった。教諭は松尾と佐藤直の二人で松尾は化学を、佐藤は化学・薬学を担当した。また助教授の片平は薬学・動植物学を、神戸は薬学・物理学を、同じく助教諭の稲岡登も薬学、河崎は数学を担当し、その他にも英語や漢文、体操などの教師がいた。
最初の受験生は主として岡山薬学校の在校生で、成績のよい二五人を第一年級第三学期に編入し、二四人を仮編入とし四九人を受け入れた。この中で試験により三一人が第二年級に進んだ。九一年の生徒数は定員の一〇〇人に対して三八人であったが、五校の薬学科の中では最も多く、最少は仙台で八人に過ぎなかった。
九二年(明治二五)の薬学科第一回卒業試問の受験者は一五人で、合格したのは九人であった。第二回は一七人の中で一五人が合格しており、これらの卒業生は無試験で薬剤師免許が与えられた。第一回の卒業式に当たって三中医主事の菅之芳は次のように祝辞を述べている。
「薬学科は今回の卒業試問においては受験者一五名にして、その試問を完くせしもの九名なり。しかして本学科は明治二二年三月、文部省令第二号をもって高等中学校医学部に付設するの場合を規定せられ、二三年二月、同省告示第一号をもって、当部に付設せらるる処にして、同年四月初めてこれを実施し生徒の入学を許す。ここに初めてその卒業生を出し、すなわち本日第一回の卒業証書授与式を挙行するに至る。この諸君は皆よく勤労に堪え、この光栄を得るに至れるものにして、自今ますます進んでこの学のために裨益する所あるは余の深く信ずる所なり」。
九四年(明治二七)に三中医は第三高等学校医学部(三高医)と名称が変わった。このとき薬学科は地域の意向とは無関係に、私立薬学校と同じ運命をたどって四年という短い期間で廃止されることになった。その間の卒業生は九二年九人、九三年一五、九四年九、計二三人であった。
医学部五校のうち、教師の質においても生徒数や卒業者数でも他校に劣らなかった岡山の薬学科だけ廃止された。教師でさえ官報で告示されるまで廃止を知らなかったという。仙台の薬学科は募集停止となったが、千葉、金沢、長崎の三校は存続と決まった。岡山をはじめ広く関西の各地から廃止反対の声があがったが、文部省の決定は変わらなかった。廃止されなかった薬学科はその後に薬学専門部になり、のちに薬学部に発展した。
なぜ岡山の薬学科だけ廃止となったのであろうか。京都の第三高等学校に工学部が新設されたことや、医学科のレベルアップのための予算が足らず、薬学科を廃止しその経費を医学科の充実に当てるためであったという。当時の貧しい国家財政のなかで、高等教育の予算の増額はまことに困難な状態であった。
岡山医薬学予備校
九〇年(明治二三)に医学部へ薬学科が付設されたとき、私立岡山薬学校と医薬学予備校は連名で四月一日の『山陽新報』に次のように新聞広告している。
「閉開校生徒募集広告
本校は三月限り閉じ、更に医薬学予備校を設け従来の薬学生徒は第三高等中学校医学部の編入せらる。
岡山県岡山市東中山下
私立岡山薬学校
医薬学予備校は四月四日開校し、第三高等中学校医学部へ入学志願者に必要なる学科を教授し、生徒二百名を限り募集す。学期は医学部の入学者の便利を謀り、同部入学試験期迄に終結せしむ。規則書入用の者は貳銭郵券を送るべし。
岡山市東中山下
私立岡山医薬学予備校」
この広告のように三月末で岡山薬学校は閉校となり、生徒は新設された医学部薬学科へ移ったことは前述の通りである。また四月からは、新たに修業年限二年の私立岡山医薬学予備校を開校し、三中医の進学コースとして生徒二〇〇人を募集した。翌年の広告によると、医学部の第一回入試で予備校から二八人合格し、第二回の及第見込みは数十人と予測している。九三年三月から修業年限を二年半として教科の内容を充実した。
予備校が開かれた九〇年の教師の数は一三人、生徒数一四三人で、九三年には一七人、二八七人となり年とともに増加した。九四年の三高医の学生総数二八三人、予備校生の数は三一六人で予備校の方が多かった。三高医へ入学するためには、予備校へ入ることが必然となって急激に希望者が増え、東中山下校舎に収容できなくなった。そのため野田屋町の池田家天城屋敷に移転し、さらに九四年七月には高等学校医科予備門と改称した。同年三月一〇日に行われた移転の式典に当たって教員総代の片平周三郎は
「我が私立岡山医学薬学予備校の如きは、明治二〇年三月をもって創立し、高等中学校医学部へ入るの階梯となし、もって志願者に便す。時に学徒すでに百人を超ゆ。爾後月に増し日に加わり遂に二百人を過ぎ、校舎容るるに能わず」。
このように盛況ぶりを伝えており、次いで三中医主事の菅之芳が祝辞を述べている。
「高等中学校医学部の医科、薬学科を修めんと欲する者のため岡山医薬学予備校の設あり。その創立以来職員の熱心奮励により、その効、灼熱火を見るが如し。ここにおいて生徒は日々ますます多きを加え、ついに校舎の狭隘を感ずるに至り、今回池田男爵の旧邸に移転す。本邸は構造堅固、各室広潤にして教場に適し…庭園は壮大にして大樹老松枝を交え、奇石珍岩各所に散在にまた大いに遊歩に適す。あえて前校舎の比にあらざるなり」。
移転した校舎は西川に沿い、岡山藩家老で天城三万石の池田伊勢氏の下屋敷で、庭内には遠州流の大庭園がある環境抜群の地であった。現在は野田屋町公園となっており、園内には一九六七年(昭和四二)に、関西学園の創立八〇周年を記念し「関西学園発祥之地」の記念碑が建てられている。
関西中学校
一八九四年(明治二七)、高等学校令の発令とともに岡山医薬学予備校は高等学校医科予備門と名称が変わり、校舎を拡張して九月から本科を三年とした。また外国語を英語からドイツ語に変更し、教科程度は尋常中学校と同程度となった。同年一二月に、さらに教育内容の充実を図って修業年限を五年に延長し、私立関西尋常中学校と改称した。岡山県における最初の私立中学校である。その後も生徒数は年とともに増加して四〇〇人以上になり、当時の卒業生は三高医や大阪、京都の医学校へも無試験で入学できたという。明治の本学卒業生の多くは予備科、予備校、予備門、関西中学校の出身と考えて間違いなく、同校は本学部と最も密接な関係を持った中学校であった。
八〇年(明治一三)から、二〇世紀初めの一九〇一年(明治三四)に至る二〇年間は、県医学校から三中医、三高医、次いで専門学校とめまぐるしく名称が変わっている。医学校の付属として始まった予備科教場も、岡山薬学校、医学部薬学科、医薬学予備校、高等学校医科予備門と名称や内容が変わり、現在の関西高等学校となっている。予備科から私立の薬学校へ、付設の薬学科から再び予備校へ、さらに中学校へと発展したのは、時代を反映したものであるとともに地域のニーズに応えたものであったといえる。
激動の時代にあって、薬学と予備校の指導者として活躍したのが松尾周蔵であり、一貫して中心的な役目を果たしたのが片平周三郎であった。ふたりの周である。
九二年(明治二五)五月、薬学科主任の周蔵は三六歳で結核により死亡した。公立大津病院の副教頭兼司薬長として赴任し、八二年に岡山県病院薬局長、兼医学校の二等教諭として岡山へ転任し、さらに岡山薬学校の創設に尽力して校長を兼務した。岡山における一〇年間の貢献に対して、没後に募金により集められた「松尾君奨学資金」二二五円が東大に寄付された。
周三郎は県病院の副薬局長、兼医学校助教諭として岡山に着任し、三中医や薬学科で薬学と動植物学を担当した。この間、薬学校や医薬学予備校の教諭を兼任し、松尾の死後は、校長代理となり、のちに関西尋常中学校の校長に就任し、さらに校主と校長を兼任した。福沢諭吉に私淑して教育に遠大な豊富を抱いており、学校が天城屋敷から現在地へ移ったときは、仙台にあった伝来の私財を投じ用地を買収して新校舎を建設した。片平は関西学園の基礎を築いた最大の功労者であり、一九三一年(昭和六)、一三回忌を記念して「片平周三郎先生碑」が校内に建てられている。
おわりに
岡山以外にも医学校付属の予備校が設置されていたのであろうか。明治になって学制と医制が発布され、政府は先進国を手本として教育や医療制度の充実を急いだ。医学教育においては東京大学医学部を創設し、地方では各府県が競うように医学校を開校した。これら医学校は廃止されたものも多いが、府県立医学校の時代から存続している千葉、仙台、金沢、長崎と、大阪府立、京都府立、愛知県立などの各校はどうであったか。
京都では、一八七九年(明治一二)に京都療病院が京都府医学校となり予科校が併設された。大阪は甲種認定にともない八二年に予科が設置され、一九三一年(昭和六)に大阪帝国大学が創立されて廃止となった。名古屋には一八八三年(明治一六)に愛衆学校という私立の医学予備校ができ、九三年に医学校に予科を新設し専門学校まで続いていた。国立の高等中学校医学部においては、仙台は志願者不足のために発足して二年目の九〇年に予科生を募集している。しかし宮城医学校の時代には予科はなく、岡山以外の四校にはどこも付属の予科は設けられていなかった。
医学の専門教育のために一般教養を教授する進学コースが、なぜ国立となった五校のなかで岡山だけ併設されていたのであろうか。八二年(明治一五)四月に、数ある医学校のなかで卒業後に無試験で医術開業免許が与えられるようになったのは岡山が最初である。当時の新聞によると、この特権が与えられた後に予備科の設置が計画されており、主なる理由は岡山県医学校の入学がむずかしかったためという。
八五年(明治一八)に岡山を視察した文部省御用掛(のちに大臣)森有礼は、岡山は関西随一の医学校であると激賞しており、予備科ができたために、岡山の教育レベルが他の医学校よりさらに高くなったものと思われる。予備校とその後の関西中学校は長年にわたって医学進学コースの役目を果たしており、広く各地から多くの志願者が岡山に集まった。
岡山には明治時代に医学部のための予備校があり、しかも最初は県医学校の付属という特異な公立の予備校であった。予備校とその後のあゆみは岡山における医学進学課程として重要な役割を果たしており、他に例を見ない岡山の医学教育史の特徴と考えられる。
また岡山には医学部以外に早くから私立の薬学校が設けられ、つづいて三中医に薬学科が付設された。しかし国の政策によって短期間で廃止されて根付かなかった。薬学教育については、その後一九〇六年(明治三九)に岡山私立衛生会によって岡山県女子薬学校が設立されたが、第一回卒業生を出しただけで閉鎖された。同じ年に関西中学校は私立岡山薬学校(第二次)を設立したが、この薬学校も≪薬剤師試験規則≫が改正されて存続が困難となり、一五年後の二一年(大正一〇)に閉校となった。
戦後の岡山大学が設立され、長い空白の時代を経て六九年(昭和四四)に医学部に薬学科が併設され、七六年(昭和五一)に独立した薬学部が誕生して今日に至っている。明治の岡山における医学予備校と、それに関連した薬学科の消長について回顧した。
執筆にあたり医学部百年史の他に『岡山医学会雑誌』『関西学園百年史』(関西学園、一九八七)、『岡山の薬学教育史』(小山鷹二、一九八九)などを参照し、関西高校校史資料室の難波俊成氏にご教示と資料の提供を受け、阪大医学部学友会の松田武氏、東北大図書館医学部分館よりご教示をいただいた。
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