我が医学部の歴史と伝統

 教務委員長であった第二生理学の菅弘之教授より、六月八日に、標記のテーマで医学部の新入生を対象にした講義をするように要請された。医学部は時代に即応した新しい教育を目指しており、救急蘇生法の実際や接遇の講義、学会聴講の試みなどとともに、早期体験学習(必修)という岡大で初めてのカリキュラムの一環であるという。多士済済の同窓から私が指名されたのは『岡山医学同窓会報』の「歴史の広場」に最も多く寄稿しているためであろう。
 医学の歴史を知ることは先人のご苦労や失敗を学ぶことであり、先人の努力に敬意を払い、今日の医学や医療のひずみを明らかにし、過去から現在を見据えて未来への展望にも通じることである。医学を学ぶ一番の糸口になり、その意味からも自分が学ぶ学校の歴史を知ることは決して無駄ではない。本学を育てた人、優れた業績で後世に名を残した人、本学で育った誇るべき先輩やユニークな先人たちを織り込みながら、本学の歩みを駆け足で紹介した。
 岡大医学部は岡山藩医学館として一三〇年前の一八七〇年(明治三)に始まっている。全国に八〇校ある国・公・私立の医学部、医科大学の中で屈指に古い歴史を有しており、中四国では同窓生も多く関連病院も圧倒的に多い。
 しかし歴史が古いだけでは自慢にならない。医学部図書館の大便所は「古いだけがとりえの大学なんてつまらん」という落書があり、数年間もそのままで消されていない。私はこの落書を書いた学生に敬意を表したい気持である。歴史の古さや過去の栄光や蓄積よりも、現在はどのような教育が行われているのか、真に社会の求める良き医師を良き医療人を送り出しているのか、価値ある研究がなされているか、どのように評価されているか、さらに将来の展望はどうか、ということの方がより大切なように思う。
 日本は先進国の中では医学史教育が軽視されているが、医学史の専門の教授、非常勤の教授のいる大学もあり、医学史または医学概論という名称で、何らかのカリキュラムがあるのは全国医学部のほぼ半数に達している。『医学部医学科便覧』によると、一年に医学概論、五年に医事法制、医療管理、医学史、医の論理の講義が予定されており、保健学科『学生便覧』では放射線学科に放射線学史のカリキュラムがあり、看護学科には看護学史は見られない。
 医学科の便覧には詳しい沿革があるが時代錯誤の記述もあり、内容は無味乾燥で読んだだけではわからない。いつ制度が変わり、いつ施設ができ、だれが学部長や病院長になったかは記載されているが、本学部がどのように生まれ育ち、どのような人材を送り出し社会に貢献して来たかは何もわからない。カラー写真があったり、見ただけで理解できるような工夫が欲しいものである。
 明治以前の日本の医学は伝統的な漢方医学が主流であった。漢方は中国人の長年にわたる経験から生まれた漢方薬や針灸などによる医療であるが、陰陽五行説などの空虚な理論に振り回され必ずしも科学的とはいえない面があった。最近は漢方医学が本家の中国だけでなく、日本でも見直され再認識され、漢方薬が医師により広く利用されている。
 漢方の次に長崎出島を通じて西欧の新しい医学が入ってきた。西洋医学のとびらを開いたのは二二五年前の一七七四年に杉田玄白、前野良沢がターヘル・アナトミアという解剖書を翻訳した『解体新書』の出版である。解体新書はその後も医学の発展だけではなく、日本の文化に大きな影響を与えた画期的ともいえる翻訳書であった。それから五〇年後にシーボルトが長崎に来て西洋医学を指導し、さらに解剖図の正確さと、種痘という新しい予防医学の伝来によって、しだいに西洋医学が認められるようになった。
 江戸末期には各地に徒弟制度の医学塾が開かれ、蘭学では岡山の足守で生まれた緒方洪庵の大阪の適塾などがある。ここには福沢諭吉をはじめ、明治の日本をリードした多くの人材が全国から集まった。
 漢方では世界ではじめて全身麻酔を行った有名な和歌山県の華岡青州の春林軒塾があり、ここにも全国から熟生が集まっていた。今年の四月に塾が復元され「奥伝誓約文之事」という、秘法を他人に公開しないという誓約書が展示されている。このように折角の新しい情報が公開されなかったために、その後の発展が見られなかった。
 江戸から明治の初期には、日本には学制や医制などの近代的な制度は存在しなかった。維新の後に国は幕府の医学所をひき継いで医師の教育をはじめ、ただ一つの大学であった東大をつくり全国的に医学校の設立を奨励した。
 岡山藩ではオランダ医学を学んだ藩医が中心となって、今の東山公園にあった利光院と台宗寺というお寺に医学館と病院を開設して医学教育を始めた。東山公園には玉井宮というお宮があり、二つの寺はその近くにあったというが、現在ではその正確な場所はわからなくなっている。医学館が創立された当初から教育に当たり、廃藩後の困難な時代をしっかりと支えたのが初代県病院長を務めた生田安宅である。
 中央では日本の医学教育がドイツ医学を採用するか、米英医学にするか論議され、当時は世界で最も進んでいたドイツ医学を採用することが決まった。ドイツ人教師の招聘はドイツがフランスと戦争中のためにおくれ、岡山でも直ちにドイツ医学を採用できず、オランダ医学から米英医学へ、ついでにドイツ医学に移っていく。
 初の外国人お雇い教師として岡山に来たのは、大阪にいたオランダ二等軍医のロイトルである。ロイトルの人物については不明であったが、新見公立短大の石田純郎教授がオランダに行って調査している。彼は幕末に長崎、大阪、東京で医学教師をしていたオランダ人医師ボードウィンの甥で、ウトレヒト軍医学校で学んだ軍医であった。通訳つきで講義を行い『解剖記聞』という翻訳書を残している。
 医学館が開講した翌年に廃藩置県により岡山藩が消滅して岡山県となり、医学館は医学所にかわり、経済的な基盤がなくなり規模も予算も縮小された。生田が中心になって経営に当たり、一時は私立の病院になったが、間もなく県から経費が出るようになり一八七三年(明治六)に県病院になった。県病院に医学所、ついで医学教場が開かれ、県病院は医学教場の付属ではなく、医学教場が病院に付属していたことになる。
 一八七五年に生田が院長となり、教育の充実を図るためにアメリカの宣教医師ワーレス・テーラーを迎えたが、夫人が反対して長つづきしなかった。一八七六年(明治九)に、県病院は一時的に公立病院と名称が変わり、外国人教師を呼ぶことが難しいために海軍軍医であった若栗章を院長に迎えた。若栗は治療のかたわら英国のキース外科書を翻訳した『救急必携外科小技』を刊行している。若栗が来てから生田は副院長に退き、二〇年間も県の駆黴院の院長を勤めて、医学館の創設から県病院にかけての功労者であった。
 一八七九年(明治一二)にアメリカ人宣教医師ジョン・ベリーを顧問として迎えた。ベリーは学校・病院を改革すべく意欲的に努力し、患者の診療とキリスト教の伝導に当たった。岡山から京都に移って西日本における看護婦養成に大きく貢献したことで知られている。
 この年、卒業したばかりの東大第一期生の清野勇が赴任し、県病院院長と医学教頭を兼任した。東大にはドイツ人医師によってドイツ語で講義が行われていた本科と、日本語による教育をしていた別科があって、清野は別科の教則に準じた教育を始めた。このとき以来、戦後にアメリカ医学に移行するまで長年にわたって全国的にもドイツ医学による教育が行われることになった。またこの年には弓之町に県病院と医学教場が移っている。石田教授によると、備前岡山総合病院の名称で、日本にないこの病院の見取り図がオランダのアムステルダム中央図書館に保存されているという。
 翌一八八〇年に医学教場は岡山県医学校と改称され、清野と同じく東大を卒業したばかりの菅之芳が校長兼副院長として着任した。一九一三年(大正二)に学生ストライキのために辞任するまで菅は三三年間もの長年にわたって校長の職にあった。清野と菅の二人は本学部を育て基礎を固めた最大の功労者であり、菅が辞任後、混乱した学校を立て直して大学への昇格を果たした医専校長・筒井八百珠の功績も大きい。
 一八八二年(明治一五)に東大出の医学士が四人になって内容がより充実し、岡山の卒業生は無試験で医師免許が与えられることになった。東大以外では、数ある医学校のなかでも卒業後に無試験で免許が与えられるようになったのは本学が最初であった。
 医制が公布されるまで医師の資格について何の規則もなく、少しでも医療の心得があれば誰でも自由に医療を行うことができた。医制が公布され、国が実施する西洋医学の前期(基礎)と後期(臨床)の医術開業試験に合格しなければ医師になれなくなった。医師免許でなく医術開業免許といい、この試験に合格するのは容易なことではなかった。ただし初めは日本と外国の大学を卒業した者、それまで開業していた従来開業医、医師として勤めていた奉職履歴医、離島や僻地だけの限地開業医は無試験で、また短期間であったが、開業医の子弟であって助手となり家業を相続する者も試験を免除されていた。
 一八八四年(明治一七)医学校は弓之町から内山下の岡山城西の丸、現在の内山下小学校に移転した。その翌年に本学を視察した森有礼文部大臣は、岡山は教育レベルが高く、関西第一の医学校と激賞している。また岡山巡幸中の明治天皇が医学校に行幸され、行程に五〇周年に当たる一九三九年(昭和一四)に巨大な≪明治天皇臨幸記念碑≫が建てられている。
 医学校の教育は非常に厳しかったために脱落する者が多く、基礎教育を充実する必要性から付属の予備科教場という予備校を併設していた。入学するのは困難ではなかったが、卒業するのは苛酷と思われるほど難しかった。卒業できない者は免許はもらえず、開業試験を受けて合格しなければならなかった。定員百人で卒業生はわずか数人に過ぎなかった年もあり(明治二一年は四人だけ)「東の東大、西の岡山」と評価されていた。
 明治の初めは新政府の方針によって全国のほとんどの府県に医学校が開かれていた。しかし医学教育に多額の費用がかかることは今も当時も変わらなかった。そのため一八八七年(明治二〇)に日本の医学教育にとって画期的な改革となった勅令が発令された。これによって大阪と、京都、愛知の三府県以外は医学校の経費を地方税で支出できなくなり、神戸や広島や高松などの多くの県医学校が廃止された。
 岡山は第一千葉、第二仙台、第四金沢、第五長崎とともに全国五校の一つに選ばれて生き残り、一八八八年に近畿と中四国でただ一つの国立の第三高等中学校医学部となった。清野、菅の大きな功績であるといってもよい。廃止された各地の医学校から多数の学生を受け入れており、一八九九年(明治三二)に京大ができるまで東大以外に大学がなく、多くの人材が岡山に集まってきた。
 以後、長年にわたり数少ない医育機関として医師養成の国家的使命を帯びることになり、次いで第三高等学校医学部から岡山医学専門学校、岡山医科大学を経て現在の岡山大学医学部に至っている。本学の沿革は日本における近代医学教育の歴史であるということができる。
 医学部が少なかった頃は、医師になるのは今と比較にならないほどせまき門であった。東京に開業試験のため済生学舎という医学塾ができ、全国から多くの医師希望者が殺到した。入学になにも制限がなく女性にも門戸を開いた。ここで学んで医師になった人は多く、正規の学校を出た医師よりも多かった時代があった。野口英世や女子医大を創設した吉岡弥生などの有名医師も学んでおり、日本の医療に大きく貢献した医学塾であった。
 一八九〇年(明治二三)に、学校は国立に移管された後に岡山城の西の丸から近くの中国銀行本店のある場所に、県病院は日銀岡山支店のところへ新築移転した。また薬学科が併設されたが四年後に廃止された。さきの予備科教場と廃止になった薬学科が合同し、長く本学部の予備校的な存在であったがその後に現在の関西高等学校に発展した。
 一九一六年(大正五)、県病院と医専が市の中心部から広びろとした鹿田の地へ移転することになった。大学へ昇格を目前にした一九二一年(大正一〇)に、現在地に新しい学校と付属病院が完成したが筒井校長はその直前に亡くなった。内山下から移転するとき、一九〇〇年(明治三三)に学生の手によって建てられた≪東宮殿下御婚儀記念碑≫(東宮は天皇の祖父、大正天皇)もグランド西に移されており、本学で最も古い記念碑であり歴史の証人であるといえる。
 研究の面では、誰からも指導を受けることなく精力的に脳神経起首の研究を行い、一九一三年(大正二)に医学研究で初の学士院恩賜賞の栄にかがやいた神経解剖学の上坂熊勝教授がいる。論文を早くからドイツ語で発表し、日本よりも外国で有名になった。没後に門下生が追慕の会を結成し、ブロンズ像が学部正門入った右手に建てられている。
 病理学の桂田富士郎教授は上坂と同じ金沢医学校の出身で、山梨県の多発地で猫の門脈から日本住血吸虫の雄虫を発見した。学士院賞となったこの業績はShistosomiasis Japoni-cum Katsuradaとして後世に残っている。
 明治の代表的な卒業生には、まず県医学校の第一期生で海軍医学校長を勤めた矢部辰三郎(岡山)がいる。海軍軍医となって卒後二年八ヵ月でいち早くアメリカの細菌学書を翻訳した『バクテリア病理新説』を刊行し、日本で最初に「免疫」という用語を使っている。この翻訳書を見ると県医学校の教育レベルがいかに高かったかがわかる。
 特異な先人として、医師になって医学の道を歩まず生命保険の診査医からスタートして第一生命という大企業を創業し、日本の保険王と称された矢野恒太(岡山)がいる。生地の岡山市竹原に寄贈された岡山県立青少年文化センター三徳園に顕彰碑があり、矢野恒太記念会から現在でも『日本国勢図会』などが発行されている。
 卒業試験に失敗して医師になるのを断念し、キリスト教の精神によって岡山孤児院を創立して社会事業・児童福祉の先覚者となった石井十次(宮崎)も本学で学んだ。矢野と同級であった石井は四年で退学しているが、のちに偉業をたたえ岡山医学同窓会『会員名簿』に卒業者として掲載されており、このような例は他になく石井ただ一人である。
 学生ながら岡山医学会を創設して『岡山医学会雑誌』発行の立役者となり、卒業後は多くの医書を翻訳した小児科医の高坂駒三郎(香川)もまた異色の存在であった。
 国際的に最も有名であったのは秦佐八郎(島根)である。ドイツに留学し梅毒治療薬の研究を行い、サルバルサン六〇六号を発見して師エールリッヒはノーベル賞を受賞した。秦も化学療法の先駆者として名声を博し、慶応医学部の初代細菌学教授を勤めた。毎年、日本化学療法学会は「志賀潔(赤痢菌の発見者)・秦佐八郎記念賞」を授賞している。
 早くから栄養に関心を持って研究に没頭し、世界をリードして国立栄養研究所の初代所長を勤め、最初の栄養学校を開いた佐伯矩(愛媛)は新しい学問である栄養学の創始者となった。
 昭和の卒業生には、厚生省に入って公衆保険局長、公衆衛生局長として戦後の日本の厚生行政の基礎をつくり、県知事に選ばれ福祉県岡山と水島工業地帯の発展に尽力した三木行治(岡山)はいる。また遺伝性血液疾患のアカタラセミアを発見して学士賞を受け、学士院会員・文化功労者に推され、難聴児の医療と教育を推進した高原滋男(岡山)の功績は大きい。
 高原と同級で、川崎病院を開設し障害児童の施設旭川荘や、川崎医科大学、医療福祉大学、医療短大、リハビリテーション学院、旭川荘厚生専門学院など、全国でもまれに見る医療・保健・福祉の一大総合学園を作り上げた川崎祐宣(鹿児島)のような傑出した人物もいる。
 戦前までは中国四国における医育機関は本学のみであり、現在までに一万人を超す卒業者を出し、多くの臨床医とともに優れた研究者や教育者、あるいは社会福祉の先覚者など多彩な人材を輩出している。その他にも看護婦、放射線技師、検査技師など数多くのコメディカルの人たちも学んでおり、卒業生の不断の努力によって本学部の存在価値が評価させてきたといえる。
 本学部の歴史で特筆すべきことは県医学校の教育がきわめて厳しかった事実である。数ある医学校のなかで卒業後に無試験で免許が与えられたのは本学が最初であったし、教育レベルが抜群であると高い評価を受けていた。教職員、卒業生、学生、開業医を会員とした岡山医学会もまた規則がきびしく、会費を払わない者は除名して会誌に公表することが実行されていた。
 本同窓会報によると、現在の同窓会の会費の納付率は五〇%に過ぎず、若い人ほど会費を払わない人が多く、払わなくても除名される心配はない。かつての岡山医学会は権威とプライドを持ち、会員は決められたルールを順守していたが、こうした厳しさは失われている。
 現在の大学は、学則によって教育研究活動の状況について自己評価をするように規定されており、さらに医学部は毎年、国によって国家試験で評価されている。それによると今年の医師国家試験の合格率は国公私立の中間、国公立ではレベル以下で安定しており、十数人が国から医師になるのを拒否されている。まことに残念な現状である。
 かつての厳しさに学べば国家試験の百%合格は不可能でもなければ困難でもないと思う。若い新入生諸君に対して教育の厳しさが最高の伝統であったことを強調し、国試の百%合格によって新たな評価を得るべく努力してほしいと要望した。
 九〇分という限られた時間で一三〇年の長い歴史と伝統を語るのは難しい。最も憂慮したのは、果たして学生が聞いてくれるかどうかであった。時間足らずであったが、講義直後のアンケート調査によって、多くの学生がこれから学ぶ本学部の歴史と伝統にかなりの関心を持ち、自覚と学習意欲の高まりを感じたことがわかった。講義が予期しなかった高い評価を受けたことに感激した。
 今年は岡大創立五〇周年に当たっており、第一期生の私にとり初めての記念すべき講義であった。前教務委員長の菅教授のご指示によって筆を加えてその内容を記し、写真などの資料を引用させていただいた中山沃名誉教授や、貴重なスライドをお借りしご協力いただいた各位に感謝する。