神経解剖学者 上坂熊勝

 上坂熊勝
 医学部の正門を入ると右手に分子細胞医学研究施設として使用されている旧生化学教室と基礎医学棟があり、その南に新しい基礎棟の建設が進んでいる。正門から基礎棟に向かう緑の中に二つのブロンズ像が立っている。初めの像が、解剖学教授で医学部門における最初の学士院恩賜賞の名誉に輝いた上坂熊勝先生で、基礎棟入口に近い像が岡山医科大学の学長であった田中文男像である。上坂像の背面には京大学長として、また日本医学会の会頭に推され令名の高かった平沢興による銘文が刻まれている。平沢も錐体外路系について優れた研究を行った神経解剖学者で、一九五六年に学士院賞を受賞している。
 先生は大正二年多年御研鑽の結晶
 たる脳神経起首の研究により帝国
 学士院恩賜賞を受けられた 先生
 は生涯を通じて倦むことのない典
 型的学者であり真に一世の師表で
 あられた
  上坂先生追慕の会之を建つ
  一九六四年     平沢 興
 一昨年の秋、新装なった大阪市立大学医学部で開かれた日本医史学会関西支部秋期大会において、金沢医大の寺畑喜朔名誉教授により「神経解剖学者上坂熊勝について」が発表された。ついで昨年の三月に発行された同学会の会誌『医譚』(復刊第七四号)に同氏の詳しい「神経解剖学者上坂熊勝に関する史料」が掲載されている。
 医史学会で発表され不朽の業績が再認識されたのを機に、胸像が学内に建てられていても誰もが無関心で通り過ぎ、今では忘れられたといってもよい上坂熊勝先生を紹介してみたい。寺畑氏の調査史料や、門下生として最も長く師事してその学問を継承した関正次教授の「碩学上坂熊勝先生」(広島医学、四巻、一九五一)を参照し、それに岡山の記録を追加した。
 上坂は明治維新直前の一八六七年(慶応三)に織田幸民の長男として金沢に生まれた。医術開業試験に合格したときは織田姓であるが、免状は上坂姓になっている。改姓については、長男ながら学者となって織田家を継がなかったためか、徴兵に関係があったためか明らかでない。
 一八八一年(明治一四)一二月石川県金沢医学校に入り八五年一二月に一九歳で卒業した。岡山県医学校は、一八八二年(明治一五)に東大以外では全国で最初に、卒業すれば無試験で医術開業免許(医師免許)を与えられるようになっていたが、金沢医学校はまだ無試験ではなく、医術開業試験という難関の国家試験を受けねばならなかった。
 上坂が四年在学中に甲種医学校に昇格し、一年待てば試験を受けなくても免許を得られるようになった。そのため四年生は安全の道を選んで一年おくれて卒業した。同級生のうちで上坂はひとりだけ、そんなことはしないと四年で前期試験(基礎医学)を受験し、卒業した翌年に後期試験(臨床医学)に合格し免許を受けている。医学校の教授になった人で開業試験に合格して医師になったのは異例の経歴である。
 神経解剖学者
 医師になってからもユニークな道を歩んでいる。上京して先ず英語とドイツ語を学んでおり、第二解剖にある履歴書によると英語は一八八八年(明治二一)三月より二年半にわたって国民英学会本科で勉強している。さらに同郷で東大の初代薬理学教授となった高橋順太郎の紹介で、東大解剖学教室に入って解剖の勉強を始めた。学資をかせぐために神田で開業していたこともあった。義侠心に富んで人助けもしたが、無頓着で風采があがらず、口数が少なく世渡りもへたで全くはやらなかったという。いつも外国語の医書を読み、人間の腕や足の骨をいじっており、勉強が過ぎて結核にかかり喀血したこともあった。生活が苦しいために慈恵の解剖の講師をしたり医学辞書などの翻訳もしていた。
 上坂が学士院恩賜賞を受けたとき金沢医学会『十全会雑誌』に高橋は「上坂君は頭脳明晰で、卒業して外科をやりたというので東大外科の佐藤三吉教授に紹介して傍聴させてほしいと頼んだことがあった。私も質問に応じて書物の説明をしたことがあり、解剖学の助手になったのは田口和美教授のときであった。正直一遍の人で金沢、大阪、岡山の教授になったが、りっぱな研究によって栄典を得られた」と述べている。
 大沢岳太郎教授(東大解剖学)は「上坂君は私の助手をしていたが、非凡な人物で日本の学者のなかでは専門家として第一級の学者である。専攻は解剖学の脳神経系統に属する部門で、研究の結果はドイツ語で発表し私に贈られたものだけでも一三ある。これは余程えらい人でないとできないことで、上坂君の名はしばしば外国の本に引用され、日本よりもドイツの学界に知られている」と称賛している。
一八九三年(明治二六)九月東京帝国大学医科大学助手
一八九五年(明治二八)一一月依願免官
一八九六年(明治二九)一月第四高等学校医学部(金沢)講師嘱託、八月解嘱、九月大阪医学校教諭任命
一九〇〇年(明治三三)三月依願免官、第三高等学校医学部講師嘱託
一九〇一年(明治三四)五月岡山医学専門学校教授、六月医学博士授与
一九一三年(大正二)七月学士院恩賜賞受賞
一九二一年(大正一〇)岡山医学会副会長
一九二二年(大正一一)四月岡山医科大学教授
一九二五年(大正一四)一月欧米各国へ出張を命じらる
一九三二年(昭和七)二月依願免官三月岡山医科大学名誉教授
 東大の助手になって二年あまりで母校の金沢医学校講師となり、半年後に府立大阪医学校に移っている。当時は日本における解剖学の夜明けの時代で、東大の解剖学教室で数年の経験を積めば地方の医学校で教えることができた。
 岡山へ
 一九〇〇年(明治三三)三月に大阪から第三高等学校医学部の講師として岡山に赴任し、翌年に医学専門学校に昇格して教授になっている。
○医学博士大沢岳太郎君は当地医学部の嘱託に応じて去月二九日来岡、解剖学及び組織学の教授に従事せらる。(岡山医学会雑誌一二一号)
○大阪医学校教諭上坂熊勝君は第三高等学校医学部の聘に応じ先月二二日来岡、解剖及び組織学教授を担当せられたり。(岡山医会誌一二三号)
 岡山における解剖学の講義は、すでに岡山藩医学館の時代にオランダ人医師ロイトルによって始められている。県医学校になってから小川知彰が解剖と生理を講義し、一八八五年(明治一八)から初めて柘植宗一、つづいて吉村祥二が専任となった。
○本年度内における人事としてここに紹介すべきものは、先ず上坂熊勝君の大阪府医学校教諭をやめて第三高等学校講師として医学部の解剖学及び組織学を担当すべく、三月二二日に着任せられたること之なり。また大沢岳太郎君は解剖学及び組織学教授欠員中、医学部の教授を嘱託せられたりしが、上坂君の来任と引き換えに帰東せられたり。(『岡山医学会五〇年史』一九三九)
 一八九五年(明治二八)、のちに「日本人の動脈系統」の研究によって学士院恩賜賞を受賞した足立文太郎が、東大から講師として岡山に赴任し解剖学を担当した。足立が教授に昇任してドイツに留学したため、しばらくは東大から当時は助教授であった大沢が来て出張講義を行っていた。これは足立につづいて、人望のあった赤座寿恵吉助教授まで新設の京都大学に移ることになり、学生が留任運動を起こし学園騒動に発展した。留学から帰朝したばかりの大沢に出張講義を依頼したのは学生をなだめる手段でもあった。
 岡山の解剖学教授は一人だけだったが、大阪で上坂に学び引き続いて指導を受けていた八木田九一郎が教授に就任してから二人になり、その後に三教授制になっている。
○上坂熊勝君は先般岡山医学専門学校教授に任ぜられたり。(岡山医会誌一三六号)
○上坂熊勝君学位授与(岡山医会誌一三八号)
 一九〇一年(明治三四)、上坂は昇格した岡山医専教授に就任し同年六月に医学博士を授与された。学位を受けたのは菅之芳教授よりも早く当時は岡山でただ一人の医学博士であった。また金沢の卒業者でも上坂が初めてで、東大の卒業者以外はきわめて珍しいことであった。
 三年半の大阪での勤務の間に中枢神経の研究を始めており、発想はすでに東京にいた頃から抱いていたと思われる。岡山に来るまでは研究発表は全くなかったが、最初の論文は『東京医学会雑誌』(一八九九)に発表した「動眼核に就て」である。次に『医科大学紀要』(一九〇一)に「大脳特に運動皮質中枢破壊後の中脳、橋、延髄の二次変性に就て」を発表し、同名の論文が着任した年の岡山医会誌(一二五、一二六号)にも掲載され、珍しくカラーの図譜が付いている。
 恩賜賞
○上坂熊勝君の名誉
 去月一二日帝国学士院総会に於て帝国学士院規則により医学博士上坂熊勝君に恩賜賞(賞記、賞碑ならびに金一千円)を授与することに議決せり。(岡山医会誌二八一号)
 一九一三年(大正二)七月五日、帝国学士院において学士院賞授賞式が挙行され上坂に恩賜賞が授与された。その式場で東大解剖学の小金井良精教授が、他人の指導を受けることなく独自に脳神経起首部の研究を行い、卓越した業績を挙げたことを紹介した。
 「医学博士上坂熊勝君の脳神経起首研究に対す受賞審査要旨
 上坂は明治三一年、大阪医学校在職中に中枢神経系の研究を企画し、その最初の成績は「大脳、殊に運動性皮質中枢の破壊後中枢、橋及延髄に於ける続発変性に就て」と題して医科大学紀要第五冊に掲載された。これによって医学博士の学位を授けられたものである。爾来十有余年、その研究を脳神経起首の方面に集注し、孜々として事業を続けて成績を発表したものが多く、主要な論文はみなドイツ語で内外の雑誌に掲載された。
  (甲)舌下神経に関する業績二
  (乙)画面神経に関する業績一
  (丙)迷走神経に関する業績三
  (丁)三叉神経に関する業績一
 上坂の論文の多くは共著として発表されている。およそこの種の研究は実際には単独では成しとげがたい事情がある。すなわち手術、数千枚の顕微鏡標本製造、また数万の神経細胞計算に際しては助手を研究に関与させることが少なくない。しかし立論、鑑識、結論は上坂に帰することは勿論であり、助手の名をともに掲げているのは君の寛大さを表している。
 また研究の指導に当たってすこぶる懇切で門下生の名で発表した論文も多い。未だかつて他の指導を受けたことなく、全く独修的にこの錯綜した脳神経起首の問題について研究し、卓越せる成績を挙げたのは大いに尊重すべきことである。」
 これが受賞の要旨であり、脳神経起首の研究は、独力で開発した方法で変性実験を行って脳神経の核と経路を追求したもので、我が国における実験神経学のさきがけとなっただけではなく、ドイツ語で発表されて広く世界の学者の注目を集めることになった。
 授賞式が終わって東京で東大医学部関係者、金沢の同窓会、石川県人会の共催によって盛大な祝賀会が開かれ、前述の大沢教授はノーベル賞も期待できるほど優れた業績であると絶賛している。郷里へ墓参に帰省したとき、金沢の出身者として初の受賞を祝う会に招かれ、さらに岡山でも偕行社で祝賀会が開かれお祝いとして望遠鏡が贈られた。
 ≪恩賜賞 帝国学士院≫と刻まれた直径五cmの銅メダルは、太田原俊輔名誉教授のお世話により本学部に寄贈され資料室に収蔵されている。ちなみに本学の関係者で、上坂以外に学士院賞に輝いたのは中山沃名誉教授によると
○一九一八年(大正七)「日本住血吸虫に関する研究」病理学・桂田富士郎
○一九三八年(昭和一三)「胆汁酸の化学と生理」生化学・清水多栄
○一九六一年(昭和三六)「無カタラーゼ血液症の研究」耳鼻咽喉化学・高原滋夫
○一九六五年(昭和四〇)「胆汁色素に関する研究」内科学・山岡憲二
○一九八四年(昭和五九)「視床に関する研究」解剖学・新見嘉兵衛
の五教授であり、高原は学士院会員や文化功労者にも推挙された。筆者のクラスなどは、清水、高原、山岡と三先生の講義を受けている。また梅毒治療剤サルバルサン六〇六号の実験を担当し、恩師エールリッヒのノーベル賞受賞に貢献した秦佐八郎は一九三三年に学士院会員に勅選されていた。
 滄海一栗
 上坂が日本解剖学会へ入会したのは第二回学会が開かれた一八九四年(明治二七)で、一九一一年(明治四二)第二〇回、一九二〇年(大正九)の第二八回の学会を岡山で開いている。脳神経起首についての研究が精力的につづけられ、解剖学会で積極的に発表し受賞の後は後継者に発表をゆだねていた。
 岡山医学会での発表は得意とした「神経細胞」「三叉神経根」などであり、業績は初めは自著、共著が主であったが昭和になって指導論文が多い。関によると上坂の論文は共著を含めて三四編で、とくに神経起首に関しては他に研究者がなく独壇場であった。学会では「日本での専売特許の中枢神経」と称され『日本解剖学会百年のあゆみ』(一九九五)の「神経解剖学の一〇〇年」の部にもその功業が特記されている。
 一九一五年(大正四)頃からは光学と生物電気学の方向に転じ、つづいて細胞の物化学、組織染色、糸粒体、ゴルジ氏装置などに発展した。光学は顕微鏡の理論を知るために、また神経生理を理解するため電気を独修していた。さらに数学と物理学の必要性を痛感して六高教授の個人指導を受け、熱心に勉強し入学試験の物理学を担当したこともあった。受賞後も門下生に中枢神経の研究を指導しており、錐体外路という言葉は使われていないがその解明に貢献したということができる。
 一九二五年(大正一四)一月、文部省から欧米出張を命じられ、初めての海外旅行であったが十月に無事帰朝した。
 翌一九二六年、在職二五年を記念して祝賀会が開かれ肖像画と記念品が贈られた。肖像画の作者は鳥取県の出身で、黒田清輝の指導を受けて東京美術学校に学んだ肖像画を得意とした盛岡柳蔵であった。祝賀会で田中学長は、オランダの神経学の世界的権威者であるカッペルス教授が来日したとき、はるばる岡山に来て「神経学において上坂先生は世界で最も優れた人物であると称賛した」と祝辞を述べている。
 さらに同年五月二三日、皇太子であった昭和天皇の本学行啓に当たって「電流の生物に及ぼす影響について」と題して進講する栄誉に浴している。
 上坂はかねてから糖尿病の持病があり、一九三一年に講義中に脳卒中の発作を来して翌年に職を退いた。一九二一年(大正一〇)から退官までの長年にわたって岡山医学会の副会長(会長は学長)に推されていたのは人徳であろう。退官後も大学に来て後進の研究を指導していたが、一九三四年(昭和九)七月二六日に六七歳の生涯を終えた。
 碁とアユ取りと山登りを好んだが何よりも勉強と研究が趣味で、いささか世事に頓着することなく、無類の集中力をもって研究に没頭し、早くから欧文で業績を発表し国際的にも高く評価された稀に見る学者であったといえる。
 後世にのこる業績を顕彰するために門下生の有志によって「上坂先生追慕の会」が結成され、一九六五年(昭和四〇)の命日に、基礎棟の北に彫刻家の宮本隆によるブロンズ像が完成した。いまは酸性雨のためか汚染変色した胸像を仰ぎながら、この医学部キャンパスから優れた医師と、上坂先生のように世界に誇り得る研究が育つことを期待したことである。
 作春、桜の花びらが風に舞っていた日曜日に、第二解剖学の村上宅郎教授とともに市内一番町の旧居を訪れた。姫路で小児科を開業しているお孫さんの佐藤彰男氏と、建て替えられた家にお住まいの弟の佐藤達男氏ご兄弟のご厚意によって、医術開業前期・後期試験合格証、医術開業免許証、恩賜賞賞記、勲章、肖像画や、For the Memory of Dr.K.kosaka July 1965と刻まれたブロンズ像建立の記念メダルなど、貴重な史料が本学に寄贈されることになった。関西医史学会と同学会誌に上坂の遺業を発表され多くのご教示をいただいた寺畑喜朔先生、ご遺族をご紹介下さった太田原俊輔先生に深謝す。「滄海一栗」とは、人の一生を世界の永遠に比したたとえで、上坂の卒業生へのはなむけの言葉。(資料室の卒業アルバムより)  今年は岡大創立五〇周年に当たっており、第一期生の私にとり初めての記念すべき講義であった。前教務委員長の菅教授のご指示によって筆を加えてその内容を記し、写真などの資料を引用させていただいた中山沃名誉教授や、貴重なスライドをお借りしご協力いただいた各位に感謝する。