第三高等中学校医学部の講義録を巡って
第三高等中学校医学部
明治維新に引きつづき1871年(明治4)に廃藩置県が実施され、新しい時代を迎えて医師不足を補うために、新政府の奨励もあって各府県は競って医学校を開設した。72年に学制、74年医制が公布され、衛生行政、医育、医療などに関する基本制度が確立された。全国で公私の医学校は79年(明治12)には48校に達していたが、医学校の経営は当時でも多額の経費を要したことから、経営不振になったものも多かった。
87年(明治20)に、政府は勅令第48号(府県立医学校の費用は明治21年度以降、地方税を以て之を支弁することを得ず)によって、愛知、京都、大阪以外の府県は医学校の経営ができなくなり、これら3校を除くすべての公私医学校が廃止された。
それに代わって全国を5つの学区に分け、第一千葉、第二仙台、第三岡山、第四金沢。第五長崎と、各学区に1つの高等中学校医学部が設置された。第三学区は京都や大阪など近畿・中国・四国の14県がその区域で、高等中学校の本部は京都にありながら医学部は岡山に置かれた。このとき京都と大阪の間にははげしい誘致合戦があり、さらに岡山県医学校の学生たちも母校の存続をかけて誘致運動に加わった。岡山に設置が決まったのは、当時は唯一つの大学であった東大医学部を除いて、岡山が西日本で最も充実した医学校であると評価されていたことによる。
ときの文部大臣であった森有礼は「高等中学校は上流の人にして、官吏なれば高等官、商業者なれば理事者、学者なれば学術専攻者の如き、社会多数の思想を左右するに足るべきものを養成する所なり」と訓示しており、名前は中学校でも、当時はきわめて高級な全国でも数少ない専門教育機関であったことがわかる。
1870年(明治3)に開設された岡山藩医学館が本学の始まりであるが、近代化を目指して国の教育制度の変遷によって、名称が目まぐるしく変わっている。医学館から医学所、医学教場を経て、次いで10年後の80年に岡山県医学校となり、前述のように88年(明治21)に国立学校として第三高等中学校医学部(三中医)が発足した。
三中医が存在したのはあ、88年から94年(明治27)までの6年間で、その後は高等学校医学部、医学専門学校、医科大学、大学医学部と改称された。名称だけでなく学校と病院の場所も東山から弓之町などを経て、90年(明治23)に内山下に新しい三中医の校舎が、つづいて翌91年に新岡山県病院が完成した。現在の鹿田へ移ったのは1921年(大正10)である。
90年から92年にかけて医学校の数は最低となり、東大医学部と国立5、公立3の高等中学校医学部のほか私立は3校のみで、全国の医学校はわずか12校に過ぎなかった。そのうち中四国における医育機関は本学だけの時代が終戦前までつづいていた。昨年11月に、創立130周年の記念式典が挙行され、すでに開講100年を超えた教室も多い。
田宮ノート
三中医で行われた講義が日本医史学会において横浜の内科医・大滝紀雄氏により発表されている。当時の講義ノートが現存しており、所有している大滝氏は開業医ながら日本医史学会の会長を勤めた学究である。新潟医大や横浜市立大学内科教授、小田原医市立病院の初代院長を勤め、放射線診断学の権威者であった恩師田宮知耻夫(1896〜1966)の遺族から譲られたものである。
田宮の『内科レントゲン診断学』は最もよく利用された名薯で、我が国におけるレントゲン診断の進歩に大きく貢献した。没後に、関係者により追悼集『珊瑚珠』(1971)が発行されている。
ノートを筆記したのは知耻夫の父田宮霊一郎で、生口島の東南にある愛媛県弓削島の医家であった田頭家から、<しまなみ海道>が開通して陸つづきになった広島県生口島の名荷村、いまの豊田郡瀬戸田町名荷の代々の医家であった田宮家に入った人である。田宮家は、弓削島の田頭と名荷の宮本から一字をとって創設されたという。
江川義雄先輩(1945卒)によると、1890年(明治23)10月に発行された『第三高等中学校医学部教官職員学生・付岡山県病院・姓名簿』には、在学中の4学年225人と卒業生の部がいろは順に掲載されている。
広島県安芸国豊田郡名荷村
第3年生 田宮霊一
とあり、92年に第4期生として三中医を卒業し、廃止された神戸医学校の付属病院であった県立神戸病院に勤めた。同院は兵庫県一を誇った病院で知耻夫は神戸で生まれている。その後は郷里の名荷に帰り、のちに尾道に移って開業し1924年(大正13)に53歳の生涯を終えた。
熱心な医師で尾道で開かれた芸備医学会で肺損傷の報告を行った記録がある。霊一郎が亡くなった翌年、知耻夫はレントゲン医学研究のためドイツに留学しており、夫人の実家が資産家で当時としては珍しい夫婦一緒の留学であった。現在、田宮家は逗子市で医療法人則天会・逗子病院を経営している。
田宮家があった三原沖の生口島には、西日光と称され観光寺院として有名な耕三寺がある。さらに同地で生まれた高名な平山郁夫画伯の美術館が開館し、しまなみ海道の新しい観光地になっている。
大滝氏はこれまで3回にわたって「田宮ノート」について発表している。最初の発表は1971年(昭和46)の第72回日本医史学会で、第2報は90年(平成2)の同学会である。ノートは田宮氏蔵書と印刷された和紙を用いた墨と朱の毛筆書きで、1冊の平均は約200頁、19B×13Bの和綴じである。譲られたのは37冊で、各科別に分冊として必要な枚数だけまとめて製本してあり、欠号もあるので全体では45冊以上あったものと推測されていた。ノートによる教科と教師は次の通りである。
物理、三角術 1冊 神戸要二郎
分析化学 1冊 佐藤 直
有機及無機化学 1冊 佐藤 直
松尾 周蔵
片平周三郎
組織学 2冊 柘植 宗一
解剖学 3冊 吉村 祥二
生理学 4冊 富永伴五郎
薬物学 4冊 更井 久庸
診断学 1冊 神吉翁二郎
内科病理学 3冊 坂田快太郎
井上勇之蒸
内科各論 2冊 井上善次郎
小児病論 1冊 更井 久庸
外科病理学 4冊 瀬尾 原始
外科各論 5冊 坂田快太郎
花柳病学 1冊 坂田快太郎
眼科 2冊 大西 克知
原田 元貞
『岡山大学医学部百年史』(1972)の記載から、その当時の教師と担任学科について、田宮ノートと比較してみると大体において一致している。ノートはカタカナの文語体で書かれ、横文字は一部のラテン語を除いてすべてドイツ語で、英語は見られない。大滝氏より謹呈された『医学之歴史散歩』(1986)には「明治中期の医学生ノート」と題して田宮ノートとのめぐりあいや、高等中学校医学部の創設とその存在期間、明治の医学教育、岡大医学部の歴史についても言及している。
外科講義
10年前の91年(平成3)に、第一外科の開講60周年を記念して第56回『岡大第一外科開講記念会会誌』に「明治の岡大外科ー坂田快太郎を中心に」を寄稿し、明治期における本学外科を回顧した。その際に大滝氏のご好意によって、坂田が講義した田宮ノートの内科病理学1冊、外科各論5冊、花柳病学1冊、計7冊をお借りしたことがある。
坂田が講義した内科病理学第1巻は123頁のノートで、大滝氏によると、病理学は健康体を研究する生理学に対応する学科で、病的機能を研究する学問と定義している。この巻はいわば内科学総論のようなものであり、疾患の原因、分類、症候、診断、予後、病気の持続、および経過、転帰、体質、外因、寄生虫、伝染病などがその内容である。
転帰には、全治と死のあいだに聞きなれない<半治>という用語が使われている。これは脳卒中の片麻痺のような、現在でいう後遺症である。さらに死には脳卒中などの<卒死>、コレラなどの<急死>の他に<徐死>があり、これは慢性に徐々に衰える死のことである。
花柳病学1巻は230頁のほとんど全てを梅毒の講義が占めている。当時は副作用の多い水銀軟膏塗布より外には治療法はなかったが、梅毒の重要性は今では考えられないほど大きかったものと思われる。
外科各論 第1巻(178頁)
泌尿器系、陰茎、尿道、膀胱疾患
カテーテル法、膀胱鏡検査
外科各論 第2巻(230頁)
攝護(前立)腺、隠嚢、睾丸疾患
外科各論 第3巻(236頁)
膝関節、下肢および足の疾患
外科各論 第4巻(200頁)
頭部、鼻、顔面、顎骨疾患
外科各論 第6巻(137頁)
唾液腺、喉頭、気管、甲状腺、食道疾患
外科各論の1巻と2巻の大部分は泌尿器の疾患からなり、3巻は膝関節、下肢、足など整形外科、4巻は頭部、顔面、鼻、口腔、歯の疾患である。5巻はなく6巻の内容は頸部疾患である。坂田の講義には胸部と腹部が含まれておらず、それ以外にも整形外科の領域では脊椎や上肢、耳鼻咽喉科の中で耳の疾患も見られない。欠落している部分は坂田以外の教授が講義したと考えられ、坂田以外の外科教授といえば東大同期の瀬尾原始である。
明治の医学、とくに法医学史に詳しい新潟大学法医学教室の小関恒雄氏も、三医中のノートを収蔵している。依頼に応じて小関氏からも外科病理学3冊、外科各論4冊、計7冊のノートが送られてきた。横浜や新潟の医学史研究者によって、三中医のノートが今も大切に保存されていることがわかる。筆記したのは田宮より一年先輩の村上六也で、坂田と瀬尾だけでなく、予想していなかった沢辺保雄教授のノートも含まれていた。
外科病理学 第1巻 坂田快太郎
炎症編
外科病理学 第2巻 講師名なし
外傷論、包帯編
外科病理学 第3巻 沢辺 保雄
腫瘍論、手術編
外科各論 第1巻 坂田快太郎
生殖器、泌尿器
外科各論 第2巻 瀬尾 原始
下肢疾病
外科各論 第3巻 坂田快太郎
頭部病論
外科各論 第5巻 瀬尾 原始
上肢病論
沢辺は瀬尾の前任者で、1888年(明治21)2月に、廃止された鹿児島医学校から新たに発足した三中医に赴任した。しかし翌年10月にはドイツ留学のとめ早くも辞任しており岡山から初の医学留学生である。後任の瀬尾もまた、2年後には養父が創設した知命堂病院長として郷里の新潟県高田に帰った。2人の在任期間はどちらも短かったが、美星町生まれの坂田は三中医の開学以来、22年間にわたって教授を勤めた。岡山医界をリードした外科医で初代の岡山県医師会長に推されていた。
村上ノート
10年後のこのたび、小関氏から外科病理学4冊、外科各論3冊より外にも、村上六也の筆記した16冊の三中医ノートがあることを教えられた。
胎生学 柘植 宗一
胎生学模写(アトラス模写)
病理学総論 桂田富士郎
内科各論 第2巻 神吉翁二郎
肝臓及腹膜
内科各論 第3巻 神吉翁二郎
呼吸器諸病
内科各論 第4巻 神吉翁二郎
血行器、泌尿器、全身病
内科各論 第5巻 菅 之芳
神経系
内科各論 第7巻 井上善次郎
伝染病
産科学 第2巻 熊谷 省三
生殖器、泌尿器
婦人病論 第2巻 各論 熊谷 省三
眼科病理学 第1巻 原田 元貞
眼科(病理学)第2巻 原田 元貞
眼科学 第3巻 原田 元貞
微毒病論 更井 久庸
精神病論 更井 久庸
裁判医学 更井 久庸
村上六也による「村上ノート」は田宮ノートとサイズ、紙質、様式などがほぼ同じ和綴じで、坂田の講義を見ると田宮ノートとよく一致していた。
京都府丹後国加佐郡岡田下村大字久田
第4年生 村上六也
と『姓名簿』にあり、京都府の出身で1891年(明治24)の卒業である。当時の学生の出身地は地元の岡山に次いで京都が多く、山口、島根、兵庫、香川、広島、徳島、愛媛の順であった。
村上ノートには巻頭によく整理された内容目次が記されている。講義の開始と終了の時期を明記しているノートもあり、外科病理学は3年、外科各論は4年の1学期で終わっている。
大滝氏の第3回発表は1993年(平成5)で、前回発表した後に田宮家から開示された新たなノートの報告であった。同氏は田宮ノートは全部で40数冊と推測していたが、重複するものはなく総計60冊になり、三中医の講義内容をほぼ全面的に解明することができる。
化学 1冊 佐藤 直
生理学 2冊 富永伴五郎
衛生学 1冊 梶田忠一郎
病理学総論 2冊 桂田富士郎
内科各論 2冊 富永伴五郎
小児科 1冊 更井 久庸
外科各論 2冊 更井 久庸
眼科学 1冊 大西 克知
精神病学 1冊 更井 久庸
皮膚病学 2冊 坂田快太郎
産科学 2冊 熊谷 省三
婦人化学 1冊 熊谷 省三
その他にも胎生学2冊、法医学、電気療法などの各1冊が含まれ、追加ノートは23冊である。これらのノートを見ると、のちに小児科専門になった更井が小児科はもちろん、薬物学、精神病学、胸部や腹部などの外科各論まで講義していたとは驚きである。
三中医の付属病院であった岡山県病院の診療科目は、内科、外科、産婦人科、眼科の4科のみで、少しおくれて小児科の診療が始まった。外科の範囲は今よりはるかに広く、整形外科、脳外科、口腔外科はもちろん皮膚科も泌尿器科も、耳鼻科も外科に含まれていた。
精神科講義
田宮ノートに関して、日本医史学会関西支部春季大会(1993)で「第三高等中学校医学部における精神病学講義の筆記録『田宮ノート』について」が発表され、『北陸精神医学雑誌』(第7巻1〜2号、1993)に内容が記録されている。発表したのは幕末・明治期の医学史に造詣のふかい精神科医である富山の正橋剛二氏である。
三中医では精神病学は専任でなく、小児病論などを担当した更井久庸、のちの伊達が講義を行っていた。伊達は1886年(明治19)に東大を卒業し、のちに廃止された広島県医学校、福山病院長を経て88年に三中医に赴任、91年(明治24)に開設された小児科の主任に就任した。岡山における最初の精神科の専任教授は、東大の初代教授であった榊 俶に師事した荒木蒼太郎である。真備町生まれの荒木は三中医出身の初の教授で、息子の直躬も精神科医となって千葉大学の学長を勤めた。
田宮は本学の『会員名簿』では霊一郎であるが、在学中の『姓名簿』が霊一、ノートもすべて霊一と記載されている。正橋氏によると『第三高等中学校一覧』(1892)にも霊一とあり、医科4年級48人の5番目である。3年後の『第三高等学校一覧』(1895)には、同年11月の卒業生として54人中の7番目に霊一郎と出ている。その答辞の高等学校では成績順に並べることが多く、一覧は、いろは順でも50音順でもなく、順位は微妙に入れ代わっている。掲載順位からみて田宮の成績は上位であったと推定している。正橋氏は<郎>はミスプリントではないかと指摘しているが、曾孫の秀次郎氏によれば戸籍の記載も霊一郎である。
ノートには講義の始まりと終わりの日付はないが、伊達の略年表から90年(明治23)10月以降に始まり、改姓した92年より前の終了とみられる。一覧のカリキュラムでは精神科や小児科は内科に含まれ、91、92年ともに4年の1学期に毎週3時間として編成されている。当時は欧米式で新学期は9月に始まり、6月に終わって夏休みになり、田宮の場合は91年の9月から12月までが4年生の1学期に当たり、この講義は91年の秋から年末にかけて行われたと推定している。さらに記録としては遺漏がなく、完結したものとみてよいという。
伊達は東大でドイツ人教師のベルツから精神病学の講義を受けたと思われ、精神医学史に詳しい岡田靖雄氏は、ベルツは主としてドイツ語圏の代表的教科書であったグリージンゲルの著書によって精神病学の講義を行ったと推論している。
同氏はグリージンゲル『精神疾患の病理学と治療』(1845)の目次を紹介し、正橋氏が田宮ノートの見出しから独自に作成した目次と比べて、かさなる部分が著しく多く見られることから、正橋、岡田両氏ともに伊達が講義した底本は、グリージンゲルの著書とみて違いなかろうと述べている。また岡田氏は伊達の精神科講義について、91年6月19日に終わった「村上ノート」と田宮ノートの見出しから両者はほとんど一致しているという。
眼科学講義録の復刻
岡山藩医学館の時代には、外国人の教師も講義を行っていた。日本人による眼科講義は1879年(明治12)10月で、岡山県病院長兼医学教場教頭であった清野勇教授が行っている。しかし清野は眼科だけでなく、内科や花柳病も講義しており眼科学が専門であったのではない。その後も、産婦人科の教師が眼科学の講義を兼任していたこともあった。1890年(明治23)12月に、眼科が専門の大西克知教授が着任し、現在の眼科学教室の原型ができあがったといえる。そのため1990年(平成2)12月16日に眼科学教室開講百周年記念会が開かれ、同窓会報70号(1993)に松尾信彦教授により記念会の記事が掲載された。
畏敬する級友である松尾教授の寄稿を見て、三中医の眼科の講義ノートが現存することを知らせ、所有者の大滝氏を紹介した。同教授の記載によると91年(平成3)8月4日にノートの借用を依頼し、5日後の9日に大滝氏から田宮ノートの眼科学2冊が送られてきた。1冊は原田医学士、大西ドクトル供述の眼科学1で、もう1冊はドクトル大西教授の眼科学2で、どちらも筆記者は医学部3年生の田宮霊一と記載されている。
原田医学士とは、岡大産婦人科の初代専任教授とされている原田元貞であり、1888年(明治21)4月に三中医へ赴任して90年7月には辞任し、眼科学も兼担していた。ドクトル大西はドイツ・チュービンゲン大学の出身で、90年12月に赴任し5年後の95年6月に岡山を去って、東京で開業したのち九大の初代教授に就任している。三中医は4年生で田宮は88年の入学と思われ、田宮ノートの眼科学は、90年から91年にかけての大西の岡山における最初の講義録である。
このノートを検討した眼科学会の佐藤邇氏は「外眼検査は現在よりも詳しい。眼底検査と屈折の記載がない。おそらく観察法が発達していなかったためであろう。手術法は現在と同じものも多くかなり難しいものを行っていた。斜照法の光源はろうそくを用いている。全体にわたっての感想としては長時間に詳しく講義し、かつまじめに筆記し勉強したらしい。現在のわれわれの数倍の努力が払われ、ことに肉眼的な観察は驚くほど詳しい。ところどころ、おかしいところもあるが、当時の医学レベルとしては当然のことで、むしろ勉強の努力に敬服する」と評価している。眼底検査や屈折、白内障などは、のちに開示されたノートに記載されていた。田宮ノートは眼科学教室にとって貴重な資料であるとされ、大滝氏の協力を得て、開講百周年の記念誌の一部として田宮ノートの完全復刻が企画されていることであるが、ノートには速記の必要から略字が好んで使われている。例えば結膜は吉莫、脂肪は旨方、妊娠は壬辰とあり、すでに中国の簡体字と同じ略字も見られるのは興味深いことである。
復刻には予想以上に長い歳月を要し、ノートが届いてから5年5ヵ月後の1997年1月にようやく完成した。原文と解読文を各頁ごとに対比する形式による、B5版1013頁の100周年の記念にふさわしい見事な大冊である。記念誌の第1巻は、記念式典と名簿、第2巻は研究目録で『開講百周年記念誌第三巻・初代大西克知教授講義録・田宮霊一先生筆記録復刻版』が記念事業である。同門のほか全国の医学部眼科学教室に贈呈されたと聞いている。正確な解読に努力した出版社の社員、編集を担当した松尾俊彦講師、校正を引き受けられた奥田観士名誉教授のご苦労がしのばれる。
しまなみの先人
68年(昭和43)6月1日発行の『同窓会報』第11号に、創立100周年を迎える準備の記事が掲載されている。翌69年10月19日に開かれた記念式典に、同窓の最長老を招待する話が持ち上がった。生存者の調査をしたところ、東京にお住まいで百歳に達する高須直一という大変な大先輩が健在であることが判明した。出張を兼ねて事務局長が上京し、東京世田谷区赤堤町の寄寓先である長女のお宅を訪問した。
健康に恵まれた悠々自適の生活であり、毎朝ラジオ体操を欠かさず、テレビや新聞はもちろん、好んで宗教や歴史書を読み徳川家康が愛読書であった。新入生のころの、3中医の誘致をめぐる京都や大阪とのはげしい争奪戦や、文部大臣が岡山県医学校を視察して関西一と激賞したこと、新しい校舎ができるまでは県医学校の校舎を借りていたこと、解剖実習の話や、試験がきびしく卒業がおくれた者がかなりいたことなど、学生時代についての記憶も驚くほど正確であった。当時は医書も少なく講義をしべて矢立て(筆の入った懐中用の墨壷)で速記、製本して保存しているという。
愛媛県伊予国越智郡大新田村
第3学年 高須直一
と『姓名簿』にあり、当時の学生総数は225人、4年生49、3年生51、2年生37、1年生88人であった。奇しくも田宮とは、ともに瀬戸内の愛媛で生まれ育った同級生であり、50音順の『会員名簿』でも高須、田宮と並んでいる。入学した年が同じならば、同じ教師から同時に全く同じ講義を受けたことになる。2人は親しい交流があったのではなかろうか。
履歴書によると1869年(明治2)に現在の今治市波止浜町に生まれた。松山第一中学に2年間学んだのち、87年(明治20)に岡山県医学校の予備科教場に入り、92年(明治25)に三中医を卒業した。上京して明々堂医院で眼科を学んで姫路で開業したが、明々堂の須田哲造は広島医学校の校長などを勤め、明治の初めから中期にかけて日本で最も名高い眼科医であった。多数の患者が押しかけ、研修を希望する医師が全国から集まっていた。
ついで94年より2年間松山病院の外科と内科に勤務したのち今治で開業、戦後1948年(昭和23)に80歳に達するまで、54年の長きにわたって医業に専念した。学生時代からの敬虔なクリスチャンで、4男7女に恵まれ、今治の開業は後継者によって引き継がれ、曾孫夫婦が本学眼科教室に在籍している。
訪問を期に「高須ノート」が母校へ寄贈されることになった。卒業して76年ぶりの68年(昭和43)4月1日、今治の留守宅かた往診用の薬籠とともに三中医の貴重な講義録として資料室に収められた。それから7ヵ月後の11月12日に99歳4ヵ月の天寿を全うされた。
いまでは時代が大きく変わった。今治は級友田宮の住んだ尾道や生口島と9つの橋で結ばれており、しまなみの四国の玄関として交通の要地になっている。
高須ノート
高須ノートについては、30年以上も前の古い同窓会報でその存在を知って愕然としたことである。遠くからノートをお借りするまでもなく<灯台もと暗し>とはこのことであろうか。今まで何回も資料室を利用させていただいたが、高須ノートが目に入らなかったのは、まことに迂闊なことであった。
あらためて資料室を見ると、陳列ケースに同窓会報の寄贈記事コピーとともに、高須ノートが5冊展示されており、残りは別室のロッカーに収蔵されていた。高須ノートだけでなく、別に1896年(明治29)卒の白築栄三郎先生が筆記したノートが20数冊も寄贈されていることがわかった。田宮ノートが復刻された後に、教室員(高須逸平、貴美、1990卒)から曾祖父が筆記したノートを寄付している、との申し出を受けて松尾教授は急いで資料室を探索したという。
田宮ノート 高須ノート
組織学 2冊 〃 1冊
解剖学 3冊 〃 3冊
胎生学 2冊
生理学 6冊 〃 2冊
薬物学 4冊 〃 2冊
診断学 1冊
衛生学 1冊 〃 1冊
病理学総論 2冊 〃
内科病理学 3冊 〃
内科各論 4冊 内科学 3冊
小児病論 2冊 小児化学 1冊
外科病理学 4冊 外科学総論 3冊
外科各論 7冊 〃 4冊
花柳病学 1冊 〃 1冊
眼科学 3冊 〃 3冊
精神病学 1冊 〃 1冊
皮膚病学 2冊 〃 1冊
産科学 2冊 〃 2冊
婦人科学 1冊
法医学 1冊 〃 1冊
看護法 1冊
電気療法 1冊
本同窓会報大11号には、寄贈された高須ノートは63冊とあるが、このたびの調査により『解剖覧要』『華氏病理摘要』など、ノート以外の刊本も含まれていることがわかった。ノートは63冊ではなく教養・専門を合わせて44冊である。田宮と高須のノートは、同じ講義を受けた同級生でもノートの題名も編集も全く同じではない。
専門課程のノートを比較すると、高須ノートには胎生学や、診断学、内科病学、婦人化学がなく高須にある看護法は田宮には見られない。外科病理学と外科学総論などは、同じ講義でもノートの題名が異なっており、また村上ノートの裁判医学、微毒病論は1年後には法医学、花柳病学に変わっている。
のちに日本住血吸虫を発見し学士院賞を授与された有名な病理学者の桂田富士郎が、病理学総論とともに法医学も兼担していた。内科病理学は坂田快太郎と井上勇之蒸。外科病理学は瀬尾原始が講義をしていたことがわかる。
冊数は田宮ノートが多いが、どちらも欠冊があり、田宮と高須の両方を照合すると、三中医の完全な講義録が再現できると思われる。眼科学講義の比較では、高須ノートの正確さは田宮ノートに劣るものでないという。
田宮、村上、高須のノートを見ると、授業中に速記しそのまま綴じで製本したのではなく、家に帰ってから整理し改めて清書し直したのであろう。当時はまだ電灯がなく、うす暗いランプのもとで真摯な勉強ぶりを想像することができる。
資料室
医学資料室は研究施設として使われている旧生化学棟の3階を占め、つねに施錠されて利用のために出入りする人はほとんどいない。医学史の権威である中山沃名誉教授の肝入りで開設されたものであるが、現在を物語る貴重な資料などが保存されているが、保存というより、むしろ放置されている状態に近いといえる。中山教授を会長として、1990年(平成2)4月に第91回日本医史学会総会が本学で開かれたときに参会者へ公開されたが、その後は学内でも公開されていない。
横浜や新潟から三中医ノートをお借りしたとき、高須ノートが資料室にあることは全く気づかなかった。田宮ノートを復刻した松尾、復刻の手助けをされた奥田の両名誉教授もご存じなかったことである。本学に数十年も在籍しておられた人でさえもである。それだけ、資料室は学内でも存在を知られない私設であるといえる。
中身がカラになっている陳列ケースもあって、最近寄贈された八木前学長の旧蔵書もパッキングケースのままである。よく整理されておらず収蔵目録もないので、展示されている資料以外は何がどこにあるのか全くわからない。お隣の広島大学医学部では新病棟建設のために古い医学資料館が撤去され、正門近くに工事中の新しい資料館が完成した。内容も一層の充実が図られているのと比べて、本学の資料室はまことに遺憾な現状である。
資料室の運営委員長である村上宅郎教授によると、この資料室は内部施設のために運営に国費を使うことができず、そのために資金も人もないという。そういった事情もあろうが、本学部の医学史料に対する理解と評価と価値観の問題であり、全国でも屈指の歴史と伝統を有する医育機関としての姿勢が問われているように思われる。
本学の『自己点検評価報告書・1993〜1997』によると、資料室は積善会60周年(1983)の記念事業として、医学部へ寄付された500万円によって設立された。100周年に当たって中山教授が集めていた本学関係資料と、資料室開設を機に新たに集められた種痘に関するものなどが収蔵されている。教授会から選出の委員によって運営されているが、運営のための経費は全くない。91年(平成3)に62年(昭和37)卒クラスから50万円の寄付を受けている。長く運営委員長を勤めていた中山教授が定年退職され、現在は村上教授に代わって細ぼそと運営されているという。
97年(平成9)に原沃撫松、満谷国四郎ら有名画家による退職教授の古い肖像画は、保存が危ぶまれることから県立美術館に寄託した。明治の有名な肖像画家であった原の代表作といわれていた坂田快太郎肖像画(本学蔵)は、依然として行方不明になったままである。資料室には胸像4、肖像画3、額1、写真43、アルバム24、図書257が保存されているが目録はない。生田家や、岸資料などは家族の希望によって返還され、生田家のものは県の郷土文化財団に移されている。
本学部には新しい構想による総合研究博物館設立の構想があると聞いている。それも結構であるが、まず現在の資料室を整備する方が先決であろう。運営困難の原因が資金や人の不足のためなら、同窓会などからの積極的な支援も必要ではなかろうか。今からでも遅くはない。ぜひ校内外に公開できる資料室として整備し、できれば将来のためにも一層の充実を図っていただきたい。せめて収蔵目録だけでも早急に作られることを、関心をもつ同窓生として医学部長さんをはじめ関係者に強く要望するものである。
ご教示、ご協力をいただいた大滝紀雄(横浜)、高須輝也(今治)、田宮秀次郎(逗子)、和気成祥(瀬戸田)、正橋剛二(富山)、岡田靖雄(東京)、小関恒雄(新潟)、江川義雄(広島)、中山沃(西宮)、松尾信彦(香川)、村上宅郎(第2解剖)、溝口久夫(同)の各位に深謝する。
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