一覧
『岡山大学医学部医学科便覧』は、新入生などに本学科の、沿革、学則、規定、施設、教職員などに関する情報を提供するガイドブックである。学校や学科の公式な基本資料である便覧、または要覧は、おそらく全ての大学、学部、学科より発行されているものと思われる。1888年(明治21)に、本学科が第三高等中学校(三高中)の医学部(三中医)として発足した当時は、便覧でなく「一覧」と称し、独立校でなかったために『第三高等中学校一覧』に含まれていた。
この一覧は最初は学校が開かれた1886年に、その後は毎年発行され、88年から医学部が含まれた。A5版 111頁の小冊子で、本学部にはないが国立国会図書館に収蔵されている。このような古い貴重本は直接手にとって見ることはできず、マイクロヒッシュによってのみ閲覧が可能であり、コピーの依頼もできる。1891年(明治24)、93年の一覧は金沢大学にもある。一覧という名称は長く使われ、1964年(昭和39)の『岡山大学医学部一覧』は、66年は同『便覧』となっており、65年か66年に一覧から便覧へ名称が変更されている。ちなみに岡山大学には、医学部便覧の他にも『岡山大学要覧』がある。本学部には三高中につづく『第三高等学校一覧』もなく、戦前の一覧は『岡山医学専門学校一覧』1903年(明治36)、10年(明治43)と17年(大正6)の3冊、『岡山医科大学一覧』は、24年(大正13)、25年、26年(昭和1)、28年、40年(昭和15)の5冊、計8冊である。
ところが東北大学資料館には、本学部の1911年(明治44)から43年(昭和18)までの一覧29冊(20、23、24、41欠)が収蔵されている。
1888年(明治21)の最初の一覧で注目されるのは、その中の生徒名簿が<アイウエオ順>や<いろは順>ではなく、<席次順>で掲載されていることである。後で述べる規則によると「総科目学期評点平均数は、之を以て次学年中の生徒の席次を定めるものとす」とあり、この規則からも名簿は、席次順、すなわち<成績順>であったと考えられる。かつての旧制高等学校は成績を重視し、例えば岡山の第六高等学校(六高)においても席次順であった。
一方、1890年(明治23)に発行された『第三高等中学校医学部(付岡山県病院)教官職員学生・姓名簿』(江川義雄、本会報85号)では、1年88、2年37、3年51、4年49、計225人の在学生は一括して、いろは順で掲載されており、卒業受験者(明治23年9月15日より試験実施)103人と第1回卒業生58人は、席次順になっている。姓名簿は本学部の最初の『会員名簿』ではないかと思われる。
1903年岡山医専一覧の、三中医が創設されて以来の卒業生と在学生の名簿を見ると、在学生の筆頭は各学年とも○印で<特待生>と記されており、一覧の名簿は明らかに席次順であることが分かる。17年の一覧には出身中学校まで記載されている。医専一覧では、最後の1921年までいろは順ではなく、席次順であり、医大一覧では最初の22年(大正10)から、在学生はいろは順、卒業生は席次順であった。
28年(昭和3)一覧は、学生はいろは順、20より以前の卒業生は席次順、21年以後の卒業生はいろは順になっている。36年(昭和11)は1年と2年はアイウエオ順、3、4年はいろは順、37年は、1、2、3年アイウエオ順、4年はいろは順で、38年から完全にアイウエオ順に変わったものと思われる。40年(昭和16)一覧には学位が記され、学生も卒業生もすべてアイウエオ順になっている。
第三高等中学校医学部
三高中と三中医の沿革について一覧に詳しく掲載されている。明治始めに関西における政府直轄の学校として、大阪に理化学校の舎密局と、普通教育機関の洋学校という2つの系譜があった。舎密とは、オランダ語の化学Chemieの音訳である。舎密局と洋学校は当時の学校制度の変遷によって、大阪開成所、第四大学区第一番中学、第三大学区第一番中学、開明学校、大阪外国語学校、大阪専門学校、大阪中学校、さらに大阪分校とめまぐるしく改称されている。
最終的に1886年(明治19)4月の中学校令によって三高中となり、11月に設置区域を定めて第三学区は、近畿、中国四国の2府14県とし、同11月に三高中は京都へ移転することになった。大学分校時代に、東の東京帝国大学が創設されたのは1897年(明治30)で、医学部が開設されたのは1899年である。
このように第三高等学校の前身である三高中は、初めから京都ではなく大阪城西門の近くにあり、校地の拡張が困難のため広い土地を求めて移転の問題が起きていた。大阪は学校の残留にあまり関心を示さなかったが、京都は熱心に誘致運動を行い、移転経費16万円の60%に当たる10万円を寄付している。
大学分校長であった中島永元が三高中の初代校長となり、翌年に折田彦市が校長に就任した。折田はプリンストン大学を卒業してアジア人として最初に学位を得て文部省に入った。1880年(明治13)に文部省体操伝習所主幹から大阪専門学校長、大学ェ校長、文部省を経て、87年(明治20)に再び校長となった。1910年(明治43)に退職するまで23年間、大阪専門学校を含めると校長在任は29年に達していた。
幕末から明治初年にかけて各府県が競って医学校を設立したが、経営困難のために政府は、大阪、京都、愛知以外は、地方税による医学校の経営を禁止した。全国の5学区に高等中学校を設け、87年(明治20)8月の告示によって各高等中学校に医学部が設置されることになった。そのため医学部の誘致をめぐって、京都、大阪、岡山などが激しい誘致合戦を行った。三高中の医学部が岡山へ決まったのは、岡山藩医学館に始まる県医学校が、修業年限4年、定員 400人の西日本における最大の医学校で、新医学部の母体にふさわしい規模と内容が備わっていたことによる。
高等中学校の定員を本科と予科1,150人、医科400人と定め、88年(明治21)2月に岡山県医学校長の菅之芳を三中医の部長に任命した。4月に医学部を開設して陸軍省の所轄であった校舎や、設備、教師の一切を岡山県医学校から引き継いだ。当初の在校生317人はすべて旧医学校生で、甲種医学校に限って他校の生徒も無試験で入学を認め、別に生徒を募集して9月の新学期には391人に達していた。臨床講義と実地演習はすべて岡山県病院で行い、生徒の便宜を図って開校後しばらくはドイツ語を教えていたが、9月の新学期から1年級に対し英語の授業を始めた。
大阪の本校では定員を満たさなかったが、三中医は区域内の公立10数校を一本化したため、ほぼ定員に達していた。開校に際して岡山県は校舎と病院の建設費として国に5万円を寄付し、1890年(明治23)7月に校舎が、翌年7月に病院が完成した。新病院は既存の県病院を拡張したもので、5病棟に130人の入院が可能であった。1894年(明治27)に三中医は第三高等学校医学部となり、1901年(明治34)に岡山医学専門学校として独立し、この年から本学部独自の一覧が発行された。
医学部長になった菅之芳は1880年(明治13)に東大を卒業し、直ちに岡山県医学校長となり、三中医の最初の医学部長に就任した。学園紛争のために、1913年(大正2)に岡山医学専門学校長を退任するまで、33年という驚くほど長期にわたって校長を勤めた。
なお一覧はすべて<カタカナ縦書>であるが、本誌の書式にしたがって<ひらがな横書>とした。句読点がないので適宜追加し、”スヘシ”は”すべし”に、”左の如し”は”下の如し”に、英数字は洋数字に、坪、合、勺など面積はFとした。医学部に関係のない項目はすべて省略した。
規則
第1章 総則
第1条 当校は文部省の直轄にして、勅令第15条中学校令第1条に基づき、実業に就かんと欲し、または高等の学校に入らんと欲する者に須用なる教育をなす所とし、その医学部は同令第3条に基づき医学を教授する所とす。
第2条 教科は本科、医科おとびその予科とす。また当分の内、予科補充を置く。修業期限は本科は2箇年、医科は3箇年、予科補充は1箇年とす。
第3条 本校の生徒たることを得べき者は身体健康、品行端正の男子にして、その年齢予科補充に入る者は満14歳以上たるべく、本科第1年級もしくは医科第1年級に入る者は満17歳以上たるべし。其他之に準ず。
第2章 学科 課程
第2条 医科の学科目は,英語、動物学、植物学、物理学、化学、解剖学、組織楽、生理学、薬物学、病理学、外科病理学、内科学、外科学、眼科学、産科および婦人科学、裁判医学、衛生学、体操とす。
第5条 医学部学科課程
(学科内容の次の数字は1週間の授業時間)
第3章 学年 学期 授業時間 休業日
第1条 学年は9月11日に始まり、翌年9月10日に終わる。之を分かちて左の3学期とす
第1学期 9月11日に始まり翌年1月7日に終わる。
第2学期 1月8日に始まり4月7日に終わる。
第3学期 4月8日に始まり9月10日に終わる。
第2条 毎週授業時間は各科大凡30時間とす。
第3条 休業日は下の如し。
日曜日、秋期皇霊祭(秋分日)、神嘗祭、天長節、新嘗祭、孝明天皇祭、紀元節、春期皇霊祭(春分日)
冬季休業 12月25日に始まり翌年1月7日に終わる。
春季休業 4月1日に始まり4月7日に終わる。
夏季休業 7月11日に始まり9月10日に終わる。
第4章 入学 入学試験 退学
第1条 生徒募集は毎年1回9月に於いてす。但し時宜により臨時に入学を許すことあるべし。
第2条 医科第1年級に入るべき者は、高等中学校予科、又は尋常中学校卒業の者、若しくは試験の上、之に等しき学力ありと認むる者とし、其の第2年級以上は之に準じ試業を行い、其の級の課程を修め得べき学力ありと認むる者とす。
第3条 入学試業各科目の評点は100を以て定点とし各科60点以上を得たる者を及第とす。
第4条 凡て入学せんと欲する者は、入学願書に履歴書、及び受験料金50銭を添え差出すべし。其の願書(甲号)及び履歴書(乙号)書式下の如し。(略)医科は医学部(在岡山県岡山市)へ差出すべし。
他の高等中学校予科、又は尋常中学校卒業の者にして医科第1年級に入学願書の者は其の願書を(丙号)の如く認め差出すべし。(略)
第5条 入学允許を得たる者は2名の保証人と連署し在学証明書を差出べし。其の様式下の如し。
第6条 保証人の資格は丁年(20歳)以上の男子にして能く保証の人に堪うべき者とし、勝つ2人の中人は各必ず学校所在地、本校は大阪、医学部は岡山居住の者たるべし。
試業 卒業
第5章 試業 卒業証書
第1条 試業を分かちて左の4種とす。
臨時試業 学期試業 学年試業 卒業試問
但し卒業試問は医科に限るものとす。
第2条 凡そ試業の成績は点数を以て優劣を評決す。其の評点は毎科目100を定点とし、60以上を合格点とす。
第3条 臨時試業 其の成績と日課の優劣、勤惰等を参酌して毎科各其の評点を定む。
第4条 学期試業 各科目学期評点は、学期試業得点と臨時試業平均点数を合算したるものとす。
総科目学期評点平均数は、之を以て次学年中の生徒の席次を定むるものとす。
第5条 学年試業 各科目学年評点は学年試業得点と第1第2両学期の各評点、及び第3学期の臨時試業得点平均数を加除したる、3学期通算点とを合算したるものとす。総科目学年評点平均数は、之を以て生徒の及第、落第を決するものとす。
第6条 学年試業に於いて及第、落第を決するは左の定規による。但し2回引続き落第せる者、又は1回たりとも進歩の見込みなき者は除名するものとす。
第7条 学年試業に欠課せし者は更に其の試業を受くることを得ず。但し其の生徒の平素、品性方正、学力優等にして、病気等已むを得ざる事故ありたるに由るの実証著名なるときは、次学年の始めに於いて特に試業を行うことあるべし。
第8条 本科卒業の時は両学年の各評点を合算し、学年の数を以て之を除し以て卒業評点となす。
第9条 卒業試問は医科第4年級の学年試業を終えたる後更に之を行い、その時日は毎年9月20日より始むるものとす。
第10条 卒業試問を分かちて理論、及び実地の2となし、学科を分かちて左の3大科目となし、更に之を小科目に分かつ。
第1 解剖学 組織学 生理学 病理学
第2 外科学 外科病理学 眼科学 裁判医学 衛生学
第3 内科学 薬物学 婦人科学 産科学
第11条 理論試問に於いては、2個乃至5個の問題を筆頭せしめ、且つ予め選定したる問題中より抽選に依りて得たる2個、乃至5個の問題を口答せしむるものとす。
実地試験は標本屍体、及び患者に就きて施行するものとす。但し生理学、裁判医学、衛生学、産科学、婦人科学には当分実地試問を施行せず。
第12条 各大科目の試問時間を大約1週間と定め、1大科目の試問を完了したる後1週間を経て、次の大科目の試問を施行するものとす。但し1大科目の試問に及第したる者に非ざれば、次の大科目の試問を受くることを得ず。
第13、14条(略)
第15条 1大科目中の1小科目に落第したる者は、1週間以内に於いて該科の再試問を受けしめ、2回落第したる者、若しくは2小科目落第したる者は、次学年の卒業試問期に非ざれば、更に試問を受くることを得せしめざるものとす。但し卒業試問に3回落第したる者は、また試問を受くることを得ず。
第16条 卒業試問定日に欠席する者は、其の理由を詳記し、保証人捺印して其の旨を届出ずべし。又疾病の為出席すること能わざる者は、岡山県病院医員の診断書を添え届出ずべし。
第17条 学期及び学年試業、本科卒業、卒業試問の各成績は総て之を提示し、且つ学期試業を除くの外は保証人に報告するものとす。
第18条 予科、本科(略)、医科卒業の者には第3号書式の証書を授与す。
第6章 授業料
第1条 授業料は本科及び医科は毎人1学年金20円、予科及び予科補充は金15円とす。
第2、3条(略)
罰則 心得
第7章 罰則
第1条 凡そ生徒規則に違背するときは、之を罰すべし。但し罰を科するは専ら改過遷善を旨とす。故に主として徳義に基ずき、徒に形式のみに拘わらざるべし。
第2条 罰科は拘止、禁出、放校の3とす。
第3条 拘止は放課後学校に留むうものとし、禁出は学校門外に出ずることを禁ずるものとし、放校は学校より放逐するものとす。但し拘止は通学生徒に限り之を科し、禁出は寄宿生徒に限り之を科し、放校は一般に之を科す。
第4条 過誤失錯に出ずる背則にして、其の情状原諒すべき者は誡論に止むと雖も、其の事に害ありと認むる者は、1日以上3日以下の拘止、又は禁出に処す。怠慢、粗暴、放肆(きまま)に出ずる背則は、軽きは4日以上10日以下の拘止、又は禁出に処し、重きは11日以上30日以下の拘止、又は禁出に処す。
第5条 数回罰せられて尚悔悟の徴なき者、或いは他人を教竣する(そそのかす)者、或いは風儀を紊乱すること甚だしき者は放校に処し、その情状に因りては、官立公立私立の学校に入学を禁止せらるることあるべし。但し一旦本文の処分を受けたる者を雖も、謹慎悔悟の実績あるときは、特に入学を許可せらるべし。
第6条 学校の器物を亡失毀するか、若しくは汚染することあるときは、或いはその現品を償還せしめて且つ之を罰し、或いは現品を償還に止め、或いは罰を科すに止む。
第8章 生徒心得
生徒たる者は謹慎戒懼、心を修身に一にして刻苦淬礪(懸命に努力する)、志を学業に専らにし道芸兼ね研き徳才共に備え、且つ身体の健康を保ちて、以て完全の人たらんことを要すべきものたり。居常宜しく下の件々を服膺恪守(慎み守る)すべし。
第1条 忠孝の心を存し、尊王愛国の志気を持すべきこと。
第2条 長を敬し幼を慈し正直真義を守り、親切寛恕を旨とすべき事。
第3条 廉恥を励み節操を磨き、苟も軽躁浮薄の風あるべからざる事。
第4条 礼譲を重んじ威儀を正しくし、苟も粗暴傲慢の挙動あるべからざる事。
第5条 言語を慎み行事に敏くし、心志を定め繰存を固くし、苟も失徳てん行(誤った行い)あるべからざる事。
第6条 総て師長の訓誨に恭順し、許可規則の旨趣を謹守すべき事。
第7条 事を成すは勉強と忍耐とに在り、宜しく常住不断、勤学修行の思念遣るべからざる事。
第8条 身体健康ならざれば精神活発ならず。安ぞ能く勤苦の事に任えん。宜しくは常に意を摂生に注ぎ、起臥を時にし飲食を節にし、運動を適度にして身体衣服を清潔にして、以て体躯の康強気象の快活を求むべき事。
第9条 登校の際は制服を着用すべき事。
第10条 猥らに教条に出入りし、或いは擅に教場装置の図書器械を使用すべからざる事。
第11条 生徒若し疾病其の他、已むを得ざる事故に因り課業を欠くときは、通学せる者は其の事由、及び日数時間等を詳記し、且つ捺印したる保証人の届書を、欠課の初日教場掛へ差出すべし。
寄宿せる者は別に寄宿舎規則に拠るべき事。但し本文届書、遅くも翌日正午迄に教場掛へ到着せざるときは、無断欠席と見做そ処分すべし。
第12条 無届けにて久しく欠課する者、及び其の他生徒たるの本文を遣るる者等は除名すべき事。
寄宿舎
第8章 寄宿舎規則
第1条 寄宿舎へ入らんと欲する者は保証人2名と連署とし其の願書を差出すべし。
第2章 舎中に在りては居常下の件々を守るべし。
第1款 言行を正しく摂生に注意し、何事に由らず総て舎監の指示に従うべき事。
第2款 晨起(朝の起床)、就褥、喫飯、浴湯、外出、及び帰舎等、時々掲示する所の時限を堅く守るべき事。
第3款 放歌、吟詩、奔走及び高声の音読等、総て他人の勧学に妨害あることを為すべからず事。
第4款 身体の沐浴、衣服の洗浄、及び室内の掃除を怠ることなく、専ら清潔に注意すべき事。
第5款 小説、裨史(小説的な歴史)を閲覧し、又は囲碁、骨牌等の遊戯を為すべからざる事。
第6款 異室の者、互いに相往来すべからざる事。
第7款 就褥時限後は灯火を滅ぼすべし。若し己を得ざる事情あるときは舎監の指揮を受くべき事。
第8款 石炭油は火止の外使用すべからざる事。
第9款 金銭、衣服等を貸借すべからざる事。
第10款 居室に於いては湯水、茶菓の外、喫飲すべからざる事。
第11款 猥に小使詰所、並びに賄所に立入り、又は私に小使を使用すべからざる事。
第12款 学校の器物を毀損し、又は忘失することあるときは速やかに舎監に申出ずべき事。
第13款 各自の所有物には姓名を記し置くべき事。
第14款 来訪者の面会は応接所に於いてすべき事。
第15款 各自携帯、或いは他人に托し荷物、小包等を門外に送出するときは出門届けを作り、舎監の検印を受け、之を門衛に渡すべき事。
第3条 外出下宿等に関しては下の件々を守るべし。
第1款 外出の際は制定の衣服を着け、威儀を正しくすべき事。
第2款 1課たりとも病気にて欠課したる者は、当日外出すべからざる事。但し病状に由り医員の差図ある者は此の限りに非ず。
第3款 外出する者は自ら舎監詰所に至り、鑑札を受取りて之を門衛に渡し、帰舎の節又之を同所に返納すべき事。
第4款 臨時に外出せざるを得ざるときは、保証人より其の事由を詳記したる願書を差出し、舎監の指揮を受くべき事。但し自宅近傍の失火、父母の篤疾等の事変に際し、本款の手続を経ること能わざる場合に於いては、直ちに舎監の許可を受けて外出し、保証人、若しくは父兄等より其の事実を証明したる書面を得て帰舎すべし。
第5款 外出中急病に罹るか、又は已む得ざる事故に依り帰舎時限に後るることあるときは、保証人より其の事由、日限、及び所在を詳記して申出ずべき事。
第6款 前両款の場合に於いて、当日帰舎すること能わざるときは、即夜第9時までに保証人より其の事由、及び帰舎すべき日時を詳記して届出ずべし。万一其の時限までに届出ずること能わざるときは、遅くとも翌日正午まで届出ずべき事。
第7款 病気又は已むを得ざる事故に依り、帰郷、又は下宿せんと欲するときは、保証人より其の事由、日限、及び所在を詳記して申出ずべき事。
第8款 下宿、帰郷、臨時外出、又は外泊等を為しし者帰舎の節は、総て発途時間を記入したる保証人の証明書を得て、之を差出すべき事。
第3条 疾病に罹る者は下の件々を守るべし。
第1款 病気にて欠課する者は、医員の診断を請い舎監へ届出ずべし。
第2款 疾病の者は医員の診断、舎監の指揮に依りて病室に入るべき事。但し病症に由り下宿を令せらるることあるべし。
第3款 病軽くして病室に入るに至らざるも、飲食起臥等の定規を履むこと能わざるときは、舎監の指揮を受くべき事。
第4款、第5款、第6款(略)
第7款 疾病事故にて帰郷、又は下宿する等、続きて60日以上に及ぶ者は、寄宿舎の名簿を除くことあるべし。
第10章 図書及び器械規則(略)
第11章 教科用図書器械貸付規則(略)
職員 生徒 敷地建物
○職員
学校長 文部省参事官 奏任官2等正6位
マストル・オフ・アルツ 折田 彦市 鹿児島士族
医学部 部長
教諭 秦任官3等 医学士 菅 之芳 東京府士族
教諭(眼科学)
秦任官3等 医学士 清野 勇 静岡県平民
(内科学)部長
同 同 菅 之芳
(病理学、内科学)
秦任官4等 同 緒方 太郎 大阪府士族
(外科学)
秦任官4等 同 沢辺 保雄 京都府士族
(産科学、婦人科学、裁判医学)
秦任官4等 同 原田 元貞 佐賀県士族
(生理学、衛生学)
秦任官4等 同 富永伴五郎 千葉県士族
(化学、薬物学)
秦任官5等 製薬士 松尾 周蔵 兵庫県平民
(組織学)
同 柘植 宗一 三重県士族
(薬物学、外科学)
同 医学士 更井 久庸 岡山県士族
(病理学、外科病理学、外科学、内科学)
同 医学士 阪田快太郎 岡山県平民
(解剖学)
秦任官6等 吉田 祥二 福井県士族
助教諭
(動物学、植物学、文庫掛兼勤)片平周三郎
(物理学、教場掛兼勤) 神戸要治郎
(体操、舎監心得兼勤) 花岡朋太郎
○生徒 当校現在生徒総数825人なり。其の階級(学年)人員下の如し。(医科391人全員の氏名が席次順に掲載されている)
医科第4年甲組 富村金次郎 他21人
〃 乙組 松原 朋三 他70人
〃第3年級 福本金太郎 他91人
〃第2年級 門司見之助 他89人
〃第1年級 黒岩 亀寿 他120人
第三高等中学校生徒階級一覧表
区域内 345人、区域外 46人
区域内 士族 平民 士族 平民
岡山 89 25 64 島根 50 11 39
兵庫 41 12 29 山口 26 10 16
愛媛 23 5 18 和歌山 21 1 20
広島 19 1 18 京都 17 3 14
徳島 17 6 11 三重 14 1 13
大阪 6 1 5 岐阜 6 6
高知 5 3 2 鳥取 4 2 2
奈良 4 2 2 滋賀 3 1 2
区域外 大分10、福岡8、愛知4、嵯峨、宮崎3、長崎、長野、山形、栃木2、千葉、東京、鹿児島、福井、福島、岩手、熊本、茨城、青森1
○卒業生 当校第三高等中学校の改称、及び医学部開設以来、本科及び医科卒業の者未だこれあらず。
○敷地建物 医学部の部
第三高等中学校医学部は旧岡山城西丸、即ち岡山県岡山区内山下に在り、地形殆ど三角形をなし、西南北の3面は城濠に臨み、東方道を隔てて岡山県仮公園と相対す。此地面積10.449F(3.166坪2合7勺)。之に建設せる屋舎総面積3.034Fなり。
此地所建物は陸軍省の所轄にして、もと岡山県医学校の借れる所を引継ぎ用ふるものにして、当時仮校舎たり。
教場 教場は学科の専用に供するもの10個、化学実験室(但し2階建)、製薬場、調剤実験室、解U実験室及び付属土蔵、組織学実験室、病理解剖実験室、動植物標本製造所(但し2階建)と普通の教場7個と総計17個にて、其の屋舎総面積782F、平均46Fとす。此外付属廊下等合計95Fあり。
事務所、教員控所、生徒控所及び食堂、寄宿舎、文庫及び武庫など。(略)
岡山県医学校規則
『岡山大学医学部百年史』(1972)によると、県医学校の時代には、1883年(明治16)11月20日の岡山県布達甲第98号によって<岡山県医学校規則>が定められていた。第1章の通則から、入学規則、生徒規則、修学年期・学期・課程・休日。試験規則、生徒心得、舎則、生徒罰則などからなる8章、108条であった。図書および機械室規則、図書・機械貸付規則などはなかった。
入学規則
現在は本学部でも女子学生の入学が30%に近づいているが、戦後の学制改革までは、幼稚園と小学校の他には男女共学は存在しなかったといってよい。国立の高等教育機関では、数少ない女子だけの学校や東北大学以外は、ほとんどの学校で男子に限られ女子の入学は許されなかった。
県医学校では付属予備科教場の卒業者と、初等中学校以上の学校を卒業した者は無試験で入学が許されていた。ただし、入学できても卒業することは非常に難しかった。入学試験の科目は、日本外史、文章規範、史記(中国の歴史書)の読書と講義、作文(漢文)、算術、代数、幾何、物理、無機化学、動物、植物などであった。志願者は願書に受験料、履歴書とともに、出身地の戸長と学務委員の証明書を添えて提出しなければならなかった。
生徒規則
授業料は県内年6円、県外12円で、三中医では年20円と高くなった。医学が至大至難の道であり、家事やその他の雑事などに関与してはならないこと、教場へは課業の5分前に着席し、落書きや貼り紙をしないように、掲示文を消してはならないとされ、1週間以上の無届け欠席は除名と決まっていた。
修学年期・学期・課程・休日
1年を前後の2半期に分け、1月9日より5月10日までを前半期、6月1日より12月3日までを後半期とする。授業は6月1日より9月3日までは午前7時、その後は8時に始まった。三中医になって新学期は9月から、1年は3学期になった。
県医学校から三中医の初期には、小児科、精神科は内科に含まれ、耳鼻咽喉科、皮膚科、泌尿器科は外科に含まれていた。
試験規則
成績は掲示板に公表され、勤惰の上京記録とともに父兄に送られ、名簿はすでに述べたように席次順に掲載されていた。後期試験が満点、または9点以上には賞状と褒賞が与えられていた。卒業試験規則に「此の試験に於いては、掛官吏、校長、教員及び病院長の立会を要す」と定められており、東大以外では卒業すれば直ちに医師免許が与えられた最初の医学校として、卒業試験は非常に重視されていたことがわかる。
県医学校 全生徒数 卒業生数 百年史 名簿
1880年(明治13) 71
1881年(〃14) 130
1882年(〃15) 171
1883年(〃16) 226
1884年(〃17) 311 16 11
1885年(〃18) 286 22 15
1886年(〃19) 309 12 9
1887年(〃20) 349 8 10
1888年(〃21) 4
三中医
1889年(〃22)4年生 91 59
1890年(〃23) 46
1891年(〃24) 43
1892年(〃25) 54
1893年(〃26) 32
1894年(〃27) 39
三中医の1学年定員は県医学校と同じ100人であったが、一覧によると4年級は甲乙計91人で、この学年は1889年(明治22)に卒業しており、同窓会会員名簿によると卒業者は59人である。さらに第3年級91人で90年卒は46人、第2年級89人で91年卒43人、第1年級120人で92年卒は54人であった。
百年史と会員名簿による卒業生数は上記の通りで、百年史と名簿の数は一致していない。県医学校の1884年〜88年の卒業正数は、百年史58人、名簿の会員現況欄は90、氏名記載は49と大きな違いがあり、三中医の1889年〜94年の卒業生数も、現況欄は273、氏名記載は282人で一致していない。
生徒心得
教室では講義の初めと終わりに教官に敬礼し、雑談は禁じられ、教官が退席する前に自分の席を離れてはいけなかった。授業中は疑問があっても質問はできず、質問は講義の終了後に許された。他教室には入れず、授業時間以外に教室に入るのも禁じられていた。教室や教官詰所、事務所に入るときは和服のものは必ず袴をつけねばならなかった。火鉢やたばこ盆のない所で喫煙は禁止され、草木を折ったり石を投げたり、他の学問を研究することも禁じられていた。しかし放課時間に運動は奨励されていた。
舎則
季節によって変更はあったが、電気がなくランプの時代であったため朝は6時に起床し、午後10時に消灯して寝ること、毎週土曜日は午後4時までに舎室の大掃除をすること、舎室を清潔にして毎朝ふとんを収めて掃除をし、衣服をちらかさないように、他の部屋に泊まらないように決められていた。夏休み中は寄宿舎が利用できなかった。
罰則
教官や職員に無礼を加えたもの、門や垣を越えて外出するもの、講習を集めて演説するもの、雑誌や新聞を編集したり、あるいはその社員になるもの、建物や備品へ落書きや貼り紙をすると罰せられた。
おわりに
1888年(明治21)に、本学部が岡山県医学校から第三高等中学校医学部として発足した最初の一覧を紹介し、その後の遍遷について回顧した。一覧に掲載された名簿は、席次順から、いろは順、アイウエオ順と、時代とともに複雑に変わっている。戦前の一覧によるとサルバルサン606号の秦佐八郎、横川吸虫を発見した横川定、生理学の林香苗教授などは1番であったことが判明する。さらに一覧に関連して参考までに岡山県医学校規則についても論及した。
当時は現在と大きく時代が異なっており、大学といえば東京大学ただ1校で、中学校、さらに高等中学校に進学できるものは非常に少なかった。学生は選ばれたエリートであり、周囲からの期待も大きく、国民の手本として社会のルールを厳守するように強く要望されていた。当然のことながら、今より学校規則がはるかに厳しく、現代の社会通念になじまない規則も見られる。しかしこれらの講義、寄宿舎、日常生活のすべてにわたる規則、罰則、心得などが、特別に厳しかったのではなく、その時代を反映したものであったといえる。
経済的事情や健康上の理由などによる中退も多かったであろうが、県医学校、三中医ともに試験が厳しく落伍するものも多かったと思われる。県医学校では、試験、とくに卒業試験は苛酷なまでに厳しく、在学生と卒業生の数からみて、卒業は容易でなかったことがわかる。卒業できなかったものは、医術開業試験という国家試験を受けねばならず、この試験もまた難関であった。当時の学校当局が、卒業すれば無試験特典が与えられた最初の医学部の名誉にかけても、優れた医師を社会に送り出したいという強い意気込みが感じられる。
学生の出身地は地元岡山県に次いで、島根、兵庫、山口が多く、交通不便な当時にあって東は青森、西は鹿児島まで、北海道を除いてほぼ全国に及んでいた。広い地域から優秀な学生が集まったためか、あるいは国家的要請もあってか、県医学校と定員は同じでも三中医になって卒業生がはるかに増加している。これらの先人たには、新しい医学教育を受けた数少ない医師としての自覚と誇りを持って、各地において地域医療の中核となって大きく貢献した。
本稿の執筆に当たって、正橋剛二氏(日本医史学会員、富山)、永田英明氏(東北大学史料館)のご協力をいただいた。
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