一〇〇年前の留学通信
坂田快太郎の留学
本同窓会報には留学生の「海外だより」が毎号掲載されている。今年二〇〇〇年はミレニアム(千年期)の年であり、一〇〇年前の留学通信について回顧してみたい。
一九〇〇年(明治三三)、第三高等学校医学部外科教授の坂田快太郎は、付属病院であった岡山県病院の外科医長を兼任していたため、岡山県から初の県費留学生としてドイツへ派遣された。坂田について本会報七三号(一九九二)で紹介したことがある。一八六五年(慶応一)蘭医坂田待園の長男として小田郡美星町に生まれ、上京して東大に学び一八八七年(明治二〇)に卒業した。その翌年に岡山県医学校から昇格した第三高等中学校医学部へ赴任、ひきつづいて第三高等学校医学部、岡山医学専門学校に二二年間にわたって勤め、辞任後に開業して初代の岡山県医師会長に推されていた。
一世を風靡した外科医で、九峰と号して漢詩、短歌にすぐれ、能書家としても名高く岡山最高の文化人であったという。ひとり息子の一男は抽象画の先駆者として評価が高く、今では快太郎の名は忘れられて坂田一男の方が有名になっている。
一八九九年(明治三二)に京都大学医学部が開校し、一九〇一年には全国五つの高等学校医学部が医学専門学校として独立することになり、一九〇〇年前後は例年より多くの留学生が派遣された。文部省留学生が三九人で最も多く、そのうち医学が八人、文部省以外の公費による医学留学生は坂田を含めて三人で、留学先はドイツが一番多かった。本学の一一人の教授中、足立文太郎と桂田富士郎の二人は一年前から留学しており、留学中の卒業生は五人で坂田と同じ船で西山壮三が留学した。
坂田は八月一日に神戸港を出帆、一ヵ月半後の九月一七日南フランスのマルセーユ港に上陸し、一九日にスイスのベルンに着いた。手術鉗子で名高いコッヘル教授の外科へ留学を希望していたが、都合が悪く三〇日にベルンからベルリンに移った。しばらくベルリンに滞在し、ベルリン大学でベルグマン教授の外科講義とポスネル教授の泌尿器科講義を受け、一一月一八日にベルリンより東のブレスラウに移った。第二次大戦と戦後の東西分断によってドイツは大きく変貌し、ベルリン大学はベルリン・フンボルト大学に、シレジア地方の中心であったブレスラウは、今はポーランド領となりブロツワフと変わっている。
ブレスラウ大学には世界的に有名であった外科教授のミクリッツがおり、その他にも淋菌の発見者ナイセルや、痴呆症の病名として今では誰でも知っているアルツハイマーなどもいた。とくにミクリッツは日本人を熱心に指導したことから、ブレスラウに留学した日本人が多かった。坂田は別に講習を受けるため、ブレスラウから汽車で五時間かかるベルリンへ再三出張していた。
またドイツでは、日本語の講師としてベルリンへ派遣されていた巖谷小波を中心とする「白人会」という句会に投句していた。(白人はしろうと、伯林の伯を分解した会名)
思郷病
美星町の生家に、筆まめな坂田が留学中に家族に出した三七通の手紙が残っており、候文の長い読みやすい便りである。留学した二年二ヵ月のうち、一九〇〇年一四通、〇一年一九通、帰国した〇二年は四通しか残っていない。遠く万里を隔てた留学生活を事こまかく報告しており、強烈な思郷病(ホームシック)に悩まされ、望郷の想いとともに家族への深い愛情がこもった、胸を打たれるような哀歓に満ちた便りが多い。
渡欧直後にベルンから「いかな事にも当地の独逸語はわかり不申、全く他国の感あり。万事不便極まりホオホト取りつく島なき程困り居候。島村君が男らしくもなく、いやに心細がると思い居候処、来て見れば同感、同感。心細い事言語に尽くし難し」(九月二〇日)と淋しい不安な心境を訴えている。ベルツやスクリバなど、ドイツ人教師によるドイツ語の講義を受けた世代でも、言葉の壁は予想以上であった。
また「悲しい哉、知るべき一人もなき異境の佳山水は、却って物思いの種となり、ツクヅク浮世がいやになり、いっそアール川へ身でも投げようかとも思いつまる程なりし。漸く宿に帰り椅子に倚りて、またもや物思い。窓の外には夕陽つきて落葉粛々たり。夜に入りては雨さえ降り来りて物悲しき事、男なきに泣くばかり。ようやく寝に就きてしばしば夢に驚かされなぞ」(九月二三日)と、環境の激変とカルチャーショックから思郷病を発病し、強度のうつ状態になっていたことがわかる。
次いで「引き続き思郷病に苦しめられ食事が進まず困り居候。誰しも独逸へ来た当分は、多少思郷病を起し長きは半ヵ年近くも続くとか云う事なれども、拙者の思郷病はそれにしても随分激しき方にて到底帰国するまでは続くならん。兎に角、帰り度くて帰り度くて耐えられる心地致候。生活の不愉快に反映して女房の事ばかり思われ候。殊に西洋人の夫婦の間柄の親密なる状態を見るに付け一層の感を引き起こし候」(一〇月一三日)と望郷の思いを書き送っている。三五歳の単身留学生にとって、人目をはばかることのない西洋人の濃厚なラブシーンは、耐えがたい強烈な刺激になっていた。
また「ブレスラウ大学に筒井八百珠(千葉医学部)と云う人あり、思郷病に一年余りも罹り、今に至る迄女房の事ばかり云い暮らして居る人なり。同感者沢山ありて<かかあ大切会>と云う会が成立し、筒井が会長たりしに拙者の思郷病が甚しき事が筒井に知れ、態々郵便にて本会の名誉幹事に推薦すると云うて来た。さても様々な会があるものなり」と同病者のことを書いており、坂田がブレスラウに移って特に親しくしていた筒井は、一〇数年後に千葉から岡山医専の校長に就任した。
ブレスラウに転学後も「洋行々々と夢の間にも羨みし洋行も、今では故郷の空のみ打ち眺むる次第となり実に思案の外に御座候。大概の悲しむべき事は一層悲しみになる次第にて、快の字も何処へやら飛んで逃げ候。嗚呼、嗚呼」(一一月二三日)と悲痛な信条を伝えている。これでは日本の家族もまた心配で耐えられなかったであろうし、坂田の思郷病が重症であること留学生仲間では周知の事実となっていた。
しかし年が変わると「思郷病も殆ど根治と申そうか、下手がたまりに固まったのか、あきらめが付いたのか、今日では自分の事ばかり考え、折角皆様の御ひーきを蒙り、双肩に大責任を担いながら思う侭に仕事も出来ず、自分で自分を叱るのみ致居候」(一月二三日)と思郷病がやっと軽快していると知らせている。
これらの手紙の中から、坂田より数日前にドイツへ着いて一週間後に肺炎で急逝した木原岩太郎(京大耳鼻科教授予定者)の悲劇、留学のストレスと父の死によって突然、錯乱状態となって精神病院に収容され、留学生を振る上がらせた白井光太郎(のち植物病理学の開祖)の事件、帰朝荷物が港の倉庫で丸焼けになったアントワープの災難、ミュンヘン大学に留学中の本学出身者の死亡などを『日本医事新報』に紹介したことがある。
絵葉書
今年二〇〇〇年五月一〇日、留学を前にして坂田が揮毫した本学部校庭にある『東宮殿下御婚儀記念碑』の、建立一〇〇年の記念銘板が除幕された。これが機縁となって、手紙とは別に坂田が持ち帰った留学中の多数の絵葉書が、娘さんの遺品の中に保存されていることがわかった。その他にも明治の岡山医学専門学校の卒業アルバムなどもあり、本学部資料室へ寄付していただいた。ふるい分厚い絵葉書帖は、長い年月を経て変色して紙がもろくなっており、ほこり臭くて保存状態は良いとはいえない。絵葉書は約四〇〇枚も残っているが、文面がくっついて全く読めないもの、消印、差出人、差出地が不明の葉書もある。
遠山嘉雄氏の「ドイツ留学生の絵葉書」によると、坂田と同じ時期に臨床細菌学を研究のためにベルリンに留学していた、岳父宮本叔(東大教授)の集めた絵葉書約六〇〇枚を整理している。当時のドイツの絵葉書は、印刷技術、色彩、デザイン、芸術性、奇抜さ等、いずれの面でも日本よりはるかに優れていた。日常の通信によく利用されており、料金は五ペーニッヒで、しかも市内はわずか二ペーニッヒで即日配達されていた。
絵葉書の一面は宛て名専用で、候文が多く、かな文をよりもカナ文の方が多い。文面は絵の余白にしか書けなかったため簡潔にならざるを得なかった。数行の短いものから、少ない余白にできるだけ多くの情報を伝えようと、拡大鏡がいるほど小さな字でビッシリ書かれたものもある。
内容は多種多様で、まずは安否伺いから、到着、入学、転学、転居、旅行、帰朝(帰国という言葉は国内の帰郷らしい)の挨拶や、集まって飲んだときの寄せ書き、折りに触れて交換した俳句や短歌、川柳、狂歌などである。誰でも容易に読めるものから、読みにくい達筆、悪筆、変体がな、くせ字、仲間だけに通じる略語やあだ名、隠語、酒の勢いで書いたものなど、判読が困難なものがある。さらにドイツ語が交じり、全文ドイツ語、しかも見なれないドイツ文字のはがきもある。
絵葉書の差出人は九〇人に達し、氏名が正しく記載されていないものもある。ブレスラウ市内とベルリンからが多く、次いでフライブルグやミュンヘンなど、岡山からの留学生や東大同窓生のいた都市からのものが多い。その他ヨーロッパ各地に及んでおり、数は少ないが日本からの絵葉書もある。
岡山の留学生
坂田はベルリンから家族に「ドイツ及び墺国(オーストリア)に在る日本人中、岡山出身の人を挙げれば、フライブルグに島村、桂田、ミュンヘンに西山、藤沢、シュトラスブルグに足立、ヴュルツブルグに三宅、松本、ハルルに岸、ベルリンには拙者と都合九人なり。岡山万歳なり。同級生には、ベルリンに大西克孝、ブレスラウに千葉稔次郎、ウインナに能勢靜太の三氏あり、同県人には以上の内、島村、藤沢(笠岡在)、能勢と同宿の山上氏位なり」(一〇月二四日)と知らせている。
当時は東大以外では岡山卒の留学生が一番多かったという。四〇〇枚に達する絵葉書のうち、これら関係者のものが多く、その中でも多いのは島村の三〇枚と、西山の二二枚である。
坂田は絵葉書について「当地でも拙者の手元に一冊はがきさしこみ帳を買い置き、在留日本人の絵はがきさしこみ居候。もはや二百枚近くたまり候。ながく独逸は絵はがきの流行する処にて、なかなかこった品も多数あり拙者も大分目がきき出し、これは面白き絵葉書これはつまらぬ絵はがきと云う事がわかり出し候。今の模様にてためたならば二年間に二三千枚たまるべし。葉書の数の多きため、とかく同じ絵のものは来らぬものに御座候」(一二月一九日)と書いている。
島村鉄太郎(一八八九年・明治二二卒)は、初めは南のフライブルグ大学眼科に留学し、次いで北のロストック大学に転学した。桂田富士郎(八七年石川県医学校卒)は病理学教授で、同じくフライブルグ大学に留学した。
西山壮三(九九年卒)は卒業した翌年に坂田とともに渡欧ミュンヘン大学に留学した婦人科医で、いつも便りに坂田恩師と書いて敬意を表していた。帰朝後は大阪で開業。笠岡出身の藤沢克孝(九一年卒)も同大小児科に留学していたが、不幸にして客死し、同市の墓地でささやかな葬儀が行われ異国の土となった。
足立文太郎(九三年東大卒)は、解剖学教授でシュトラスブルグ大学(現在フランス領ストラスブール)に留学した。
三宅良一(九五年卒)はヴュルツブルグ大学に留学、仙台医専(東北大学)の眼科教授を経て広島で開業し、のちに広島県の医師会長として活躍した。松本百之助(九七年卒)も同じくヴュルツブルグ大学内科に留学し、帰朝後は大阪で開業した。岸一太(九七年卒)は台湾総督府からハレ大学耳鼻科に留学し台北医専の教授を勤めた。
東大同級生の大西克孝は、岡山の眼科教授であった大西克知の兄で、エルランゲンやベルリンに留学して千葉の教授を勤めた。千葉稔次郎はブレスラウに留学し、のち東大婦人科教授に就任した。能勢靜太は笠岡市大島の出身で、陸軍医学校を経て陸軍省からドイツ、オーストリアに派遣され、内科を学んで退役後に開業した。山上兼輔は岡山県鏡野に生まれて津山出身の医師山上兼善の養子となり、87年に東大別科を出て留学した耳鼻科の草分けのひとりである。
これら留学生の中から本学の教授になった島村、教授であった足立、桂田、校長になった筒井等からの便りを紹介する。
島村鉄太郎
島村について本会報八〇号(一九九六)に「岡山県医師会名誉会長・藤原鉄太郎」と題して紹介したことがある。岡山藩医学校の教師を勤めた津下精斎、西洋医学所教授であった島村貞甫の甥で、第三高等中学校医学部の第一期生である。坂田が岡山へ赴任した翌年の卒業であるが、留学は一年先輩であった。生涯にわたって親しかった眼科医で留学中に姓が藤原に変わっている。開業中の一八九九年から三年間、私費留学し帰朝後に再び開業した。
留学中はお互に頻繁に連絡し合っており、重症の思郷病に罹患していた坂田が最も便りにしていた相談相手であった。一九〇四年から二年間母校の教授に就任し、のちに坂田の後任として九期一七年間にわたって岡山県医師会長を勤め、辞任後は名誉会長に推されていた。
歌人として令名高かった眼科教授の井上通泰に入門し、「鉄彦」と号して『鉄彦集』や『続鉄彦集』などの歌集が残っている。留学中は好んで「死魔生」のサインで交信しており、坂田のベルン安着の報に接し、早速フライブルグから「無事御来着心持致候」と返信している。坂田もフライブルグを訪れて島村と桂田に会っており、島村は「久振にて御面会、大に日頃の鬱を散じ申候。余りのうれしさにとり乱し定めし失礼も有之候」と大歓迎であった。
多くの便りの中には「拝妻」を論じた長文もあり、百人一首の替え歌や歌だけの便りもあり、坂田と同じように若い頃から詩情ゆたかな人であった。島村も白人会に投句していたが、留学中に詠んだ句や歌は歌集に残っていない。思郷病に悩んでいた坂田を慰めながら、自分も嚊恋し嚊恋しの思いを抑えることができなくなっていた。
「抑も其昔、男女二柱の神の天下りましまして張り出したる処を引き込みたる処と平均せられて善哉、善哉。…凡そ此の突凹両極は磁石の南北、伝記の積消両極に於けるが如く常に相引く仲となれり。故に此道を称して亦<相引き>とも云うなり。然り而してはれて嬉敷相引きの平均を得るの境遇を結婚と云い、結婚によりて突極を夫と云い、妻とは引く者にして夫とは引き込まるる者也。此処に拝妻宗なる有難き宗旨ブレスラウに現れし由。
<拝>とは抑も何の意味なるか。康煕辞典(中国清朝の康煕帝の命によってできた四二巻、四万字の膨大な辞書)を閲するに、凡そ飢えたる時は食に、飲み度き時は酒に、閉尿には放尿、閉糞には脱糞に限る。へりたる時に取り込み、塞がりたる時に漏らす。此位有難き事はなし。此飢時謝食、塞時謝脱、飢時欲食、塞時欲脱の意味より<拝>字生ずと。按ずるに突極愈々突にして不平なるに当たり、均を凹極求むるも容易に得べからず。妻哉、妻哉と、往持を追想して此処に拝妻、換言すれば拝凹の宗旨生まれたるや。…」(一二月二一日)
独乙国嚊がないから淋しい国よ一人しょんぼり部屋の中
嚊なくて何が己の独乙国
国に居る嚊の心は知らねどもキヤツも淋しき文の書きぶり
一物を押さえて嚊に嘆息し
思えどもフラレブルグとあきらめて
互いに嚊とたえ行方も知らぬ我伜かな
町中に立てて見れば赤髭の毛唐人は嚊をつれて行きつつ
嚊のなき男の〇〇の夜にたち昼はちじみて物をこそおもへ
嚊ならて人にも云えず寝屋の中さしも盛にみちるおもひを
我が嚊は日本の田舎一人待ち早く帰れと云ふてくるなり
地獄買ほんのかりねの一夜ゆへ早く嚊にあはんとぞおもふ
嚊は眼病娘は耳病亭主は独乙で受験ウェー(病)
はるばると独乙三界迷ひきてつめたき床に一人ねんとは
いそがしき中にあれねども我のみは伜の保養忘れざりけり
愚弟めがうんとしたので賢兄の伜も謀反起こしたと見ゆ
一物を立てて男は奮発し
足立文太郎
「貴下の御越し披成事、申しては失礼なれども小生が考えていたよりも二三ヶ月早かった。小生不思議に思ったが菅様辞表を出したと云うので初めて分かった。菅様も中々男だよ。岡山の事何か面白き事なきか。誠に暫く会わぬから君が細き目をして飲む処を見たいよ。又小生も鼈甲型にひしゃげて、酔ってブーブー言う処をもお目に掛けたし。何は兎もあれ、かかあの居らぬには不自由だよ。此のおたふくめ杯といじめちらした罰が当たったのか知らん。帰国の後はかかあ大明神とあがめ奉る積りなり。
ビールも飲めるワインもいける。併しシナップスは遠慮して飲まぬ処がしゅしょうだろー。上書を書こうと思って東亜を見たらベルリンにない。不思議に思ったら、いつかブレスラウに転学しているではないか。天下の大勢をベルリンにて知る積もりなり、と云って居ったが中々早く知る訳だな。」(一二月一五日)
「…思郷居士の御称号、今以て御改め披成ず候や。もはや大抵にして御止め披成度候。岡山にても菅様の辞職、文部省にて許可せざりしため一先ず落着とかの事。不敬事件一先ず、辞職事件二先ず、三先ず目には何が沸くやら。兎に角、文部省にて許可せぬは医学部にとりて幸福な事なり。主事としては実にト一〇〇の人なり。休みになったらちとは御出掛け披成ては如何。岡山出の人大分あり(銭があったら)独乙にて岡山会も又妙なり。桂田大人には更に勉強なるべし。」(一二月一七日)
「今日、図らず三宅良一君が来て非常に愉快だ。どーだ、休みになったから緩々と部屋に落着いて思郷学の研究も出来るであろう。どーだ此の子供は君の子供衆に少し似て居るよーだが、可憐の顔をして居るではないか。君の御留守宅でも今頃は定めし<御とうさまは今頃何をなさって居るでしょうねー。母様、御とうさまに早く御帰りになる様に御手紙をおやりなさいよ><もはや御正月は近いけれども来年の御正月は旦那様が御留守淋しいねー><おやおやもー夜更けだよ。じきに一二時になるけれども目がさえてねむられぬ。旦那様は今頃何を披成って居るやら…><あーあんなうれしい事もあったっけ。あー、あんなたのしい事もあったけ。早く御帰りになればよい。御帰りになったら、よろこばしい事もあるだろう>などと奥様も御考え披遊ならん。
君はどー思う。奥様も実に御淋しいかろうと思う。いろいろ丁寧に国に居る時の事を考えて見たまえ。考えるには夜ベットの中がよい。緩々考えたたまえ。」(一二月二五日)
「恭賀新年 三四年正月二日
去年の末から少し下仕事に掛って目下目も当てられぬ忙しさ。去年十月頃より此月中の垢は今日尚むずむずとして痒し。二週間前に夕飯の時胸に落したるビフテキのポッチリは今日尚依然として胸鈕と列坐す。之が正月とは何たる事ぞ。御宝船もなければ、どーせ今夜も初夢も録な事でなかるべし。君、思郷病は疲掃の時に西の海へさらりと掃き落せしや否や。…」(〇一年一月三日)
「どーです、年は改っても不相変例の一件を御研究中ですか。御互いにつまらないと云う体裁。併し松浦君が来て大に話相手が出来た。だがねー松浦君は酒をたんとやらんから少し張合いがぬけたよ。僕は不相変飲みはするがねー。目下必死の勉強だよ。併しはがきを書くにも少し目から遠く離して書かねばならぬと云う具合だから、もー進歩はせぬよ。
君は又ぞろベルリンへ行くと云ったが天下形勢の見なおしか。もーよい加減にして根をはってやったがよいではないか。己は外科医者でないから(如何にも足立は医者に非ず)知らぬが、どーも余り水草を逐って動き回る事は利益でないよ。どーせ何処へ行っても細君と子供衆は居らんよ。尤もベルリンをやめにしてストラスブルグへ転学すると云うなら大賛成だ。何か岡山から面白き通信があるかい、知らせてくれ。」(〇一年一月二一日)
「毎日独りおきて、独り医校にゆき、独りおまんまをたべて独りで帰りてねる。妨害者もなければ扇動者もなく、虚心、平気、正直、正味の恋妻痛ジンプトーメを研究中なり。かそばかり恋しさまさる君ぞとは分かれぬ昔思わざりけり」(〇一年一月二二日)
足立は坂田と同年の生まれであるが東大は六年後輩で、お互いに酒好きで留学前より家族ぐるみの親しい間柄であったことがわかる。岡山へ赴任するとき、石器時代の人骨を採取するため東京から東海道を歩いて来たという。岡山在任は四年に過ぎなかったが、生涯のテーマとなった軟部人類学の研究は岡山から始まっていた。帰朝後は京大教授、医学部長を経て、一九二七年(昭和二)、大阪高等学校医学専門学校(現大阪医科大学)の創設に当たり初代校長に就任した。のち「日本人の動脈系統」により学士院恩賜賞を受賞し、さらに学士院会員に推挙された。
足立の絵葉書は小さな字で、限られた紙面に七〇〇字以上も書いているのもあり、どの便りも長文で読みやすい。坂田は「足立文太郎君、時々腹を抱える様な手紙を越され候」と書いている。坂田には思郷病に悩むのもいい加減にしなさいと、自分は思郷病とは無縁のように忠告しているが、坂田の便りを読むたびに足立もまた日本に残した妻を思い出していた。
『東亜』Ost=Asienは極寒のシベリアを単独横断した玉井喜作が、ベルリンで発行したアジア紹介誌で玉井は私設大使として留学生の世話役であった。松浦有志太郎は帰朝後に京大皮膚科の初代教授。
その他の教授連
「…昨日日本よりの通信中、菅氏は文部大臣の説諭を聞き留任せらるる事と相成候宇とは、菅夫人より莉妻に申送られたる確報。又、井通より小生へ直接宛たる通信とは菅氏重症の糖尿病の為、辞表を呈出せられたるに付き、一時主事心得を務めたれども文部大臣の説諭により、明春医学部独立の実行期まで静養しつつ留任の事と相成たり云々。即ち前者は期限を云わず、後者来春までと申し送れり。兎に角留任の事と相成候文は確実に御座候。何れ貴兄へも面白き風説等申送らるらん。…桂田拝」(一一月五日)
桂田は多くの優れた業績を発表した病理学者で、のちに日本住血吸虫の発見によって学士院賞を受賞し、後世にSchistosoma Japonicum katuradaの名が残っている。教育熱心で学生には人気があったが、菅之芳校長と意見が対立して文部省から罷免され、学生は復職を要求してストライキに突入した。一九一二年(大正一)の学園紛争である。
桂田は学究肌のかなり個性の強い人であったらしく、留学生仲間との交流は少なかったという。達筆であるが詠みにくい。桂田の便りも学級騒動が話題になっており、岡山からの留学生はみんな騒動がどのようになるか心配していた。天長節における校長の態度が不敬であると学生が講義し、ストライキを行って校長の進退問題に発展した事件である。菅は一旦は辞表を出したが、文部省に慰留されて留任となった。
坂田はドイツで新年を二回迎えており、最初の〇一年は多くの年賀状が残っている。校長の賀状は丁寧な筆跡で、万国郵便連合端書と印刷された白黒の芸者さんの海外用絵葉書である。不敬問題はまだ解決していなかったが余裕に満ちており、別の寄せ書きの賀状とともに二月九日にブレスラウに着いている。
「謹賀新年 明治三四年一月一日
日本岡山 菅之芳
我輩は左図の如き楽み致居候、君羨ましからん。平素は誠に御無音御免披為候、当地御留守宅一同様、何れも御健康に披為候間、御安心披遊度候。早々敬白 坂田様」
「貴様相変らず目玉を円くして居るか、目色の異った女が美く見ゆる様になったか。兎に角、新年御目出度。岡山客舎にて 荒木寅三郎
現況如何、伯林ブレスラウ城頭新春之状を思ふのみ、幸に健在せよ、再会の期を竣つ。 船岡英之助
副細君不相変御壮健、頗る肥満、荒木其他と壷坂の一段謹聴す、感服に不耐候。 菅之芳」
寄せ書きには「旧作一首を録して九峰詞兄に代わり絃妓愛助に贈る>と題した漢詩が添えられている。
荒木は岡山の生理学教授から京大生化学の初代教授に栄転し、のちに京大総長、学習院長、枢密顧問官などの顕職を歴任した。漢詩は鳳岡と号して名高い漢詩人であった荒木の作で、その日は岡山の宿で菅や船岡に会っている。「壷坂」は明治時代に流行した浄瑠璃義太夫で、坂田には愛助と称した芸者さんの副細君、二号さんがいたらしい。船岡は荒木の後任となった生理学教授でこの年にドイツに留学した。
のちに菅の後任として岡山の校長になった筒井八百珠の便りもある。筒井は東大の二年後輩で筒井も坂田も酒が大好きで、ブレスラウでは良き飲み友達であった。
「いつ来ても伯林はにぎやかで愉快じゃ。君の下宿の方々に宜しく。又二階の即ち君の上の方々にも同様に宜しく御伝声され度候。明日から「クルズース」愈々開始、僕も二科目とることにしました。勉強でしょう。ベルグマン及びレッセル両先生に面謁万事好都合なり。外科の諸君に宜しく御伝声を乞う。四月の外科学会の演題を見て一日も其の日の早からん事を待ち居り候。皆な面白くものじゃないか。もーたいていリテラツールを取り調べに来てよい時分じゃないか。中々珍語があるよ。」(〇一年三月四日)
「拝啓先夜は御高配に与り奉万謝候。無事田代兄と帰武、御休心下され度候。馬杉兄優等大学卒業、御同慶に御座候。就ては卒業学位を受けられたるを祝す為、多数者在武中に右宴会相開き考に御座候。此際実に残りおしき事とは御察し申上候えども伯林を思い切り至急御帰武相願上候。学会も中々盛大なる予想、膀胱鏡等斬新器械も有之候由。旁々以て万障一排、大至急御帰武の程、懇望の至りに御座候。
ケーニヒスベルヒのはがきを武城より出すも妙ならん。此頃、武城さみしかり由ならしも、ケーニスヒスベルヒ路より田代、筒井先ず着し、ストラスブルヒより松浦来る筈。長谷川、阿久津は伯林より直に着との由。是非共君の来るを望む。」(〇一年五月二八日)
武はブレスラウ、田代義徳はのち東大整形外科の創設者、阿久津三郎は順天堂からの留学生、軍医の馬杉篤彦眼科医が、ドクトルメヂチーニの学位を受けた祝宴の案内である。帰朝の途中に「明朝出帆二泊にて神戸、大に愉快極まる次第と存じ候。シンガポールの景色実に明媚、見ても見てもなほ飽きたらぬ心地致候。ただし伯林出発以来美人を見る事なきには閉口致候。外科の諸君に宣敷御伝声…」(〇一年一〇月二四日日記)と最後の便りを出している。
前世紀の留学通信
以上は一〇〇年前の留学生が交換した絵葉書である。現在は国際化の時代で、一年間の海外渡航者が一千万人をはるかに超えている。留学といっても珍しいことではなく、頭脳に関係なく誰でも行けるし、情報化が進んで世界中と自由に通信できるようになっている。
しかし一〇〇年前の日本はアジアの小さな後進国でヨーロッパもアメリカもはるかな憧れ国であった。富国強兵を目指すとともに、先進国の進んだ文化を導入することは国の最重要課題で、多くの留学生が海外へ派遣された。公費留学は選ばれた人たちだけで、その他にもドクトルの学位を目的とした私費留学生もあり、当時は医学の主たる留学先はアメリカでなくドイツであった。
飛行機はなく、日本からヨーロッパまで回路一ヶ月半を要し、電報はあったが郵便もアメリカ経由で同じように日数がかかっていた。絵葉書を見ると、都市の交通手段は蒸気の路面電車と乗合鉄道馬車、辻馬車が主で、まだ自動車もオートバイも街を走っておらす、自転車も少なく、教習所に通って自転車の練習をしていた留学生もあった。
しかも情報の乏しい時代で、テレビも国際放送も、携帯という便利なものもなく、ファックスもテープレコーダーも、インターネットもEメイルもなかった。電話すら普及していなかったため、絵葉書が日常生活に欠かすことのできない便利な通信手段であった。そのため今の電話代わりに盛んに利用され、留学生同士がお互いに絶えず情報を交換し合っていた。
坂田の残した絵葉書などにより、一〇〇年前のドイツ留学生の生活の一端を伺い知ることができる。大学の講義や研究の他に買い物、酒場、カフェ、玉突き、女郎買い、散歩、遠足、旅行などの様ざまな便りが見られる。俳句、短歌、川柳、狂歌、漢詩、漢文あり、ドイツ語もある。言葉、食事、資金、研究などの悩みや苦労とともに、性欲処理の赤裸々な情報も見られる。なれぬ異国で不自由とホームシックに耐えながら、限られた財布から、やがて各自が適当にストレスの発散法を見いだしていた。
絵葉書には留学生活だけではなく家族の安否や岡山の情報なども記されている。すでに述べたように校長の不敬問題と、解剖学助教授の京大転任がからんだ学校騒動は岡山の留学生にとって一大関心事であった。その他一九〇〇年には、留学中に京大へ転任となった足立の後任として着任し、のちに学士院恩賜賞を受賞した解剖学の上坂熊勝教授に対しても排斥運動が起こり、新聞に報道されたことも判明する。
ほとんどの留学生が妻帯者でしかも全員が単身留学であった。思郷病に罹患していたのは坂田だけではなかった。程度の差こそあれ留学生のすべてに共通した問題であり、病状はむしろ妻帯者の方が強かったのであろう。
「大分日本、いや岡山でやっている事とはちがうと見てくれ。やっぱり学問は西洋へ来ねばだめだ。坂田先生も、今更日本で教授席を汚して居った事を恥じ入る」と坂田は畏敬の眼でドイツ医学を観察し吸収に努めていた。大多数の留学生は使命感に燃えて懸命に勉強に励んでいたこともよくわかる。
一〇〇年後の現在は情報があふれているが、電話やファックスなどの容易な手段による情報は後世に残ることはないであろう。そうするとIT技術の発達した現在は、以外にも個人が交わした情報は逆に残りにくい時代といえるのではなかろうか。ミレニアムの年に当たって、一〇〇年前の本学教授のドイツ留学中の情報交換を紹介した。
資料を提供された坂田雄次郎氏、ご協力をいただいた落合保之氏に謝意を表す。
(1)小田皓二「明治の留学秘話−坂田快太郎の記録より」『日本医学新報』三五八七〜八九号、一九九三
(2)遠山嘉雄「ドイツ留学生の絵葉書」一高同窓会誌『向陵』、一九八六
(3)小田皓二「藤原鉄太郎−その生涯と功業」岡大眼科同門会誌『瞳青』一九九五
(4)小田皓二「筒井八百珠と臨床医典」『日本医事新報』三六七二〜七九号、一九九四
補遺 上坂教授排斥運動
「扠本日岡山中国民報送り申候。別におもしろき事もなし。上坂教授排斥とかいう表題あり…。」(一九〇〇年一一月二日)と、島村は坂田への絵はがきに書いている。ドイツ留学中に島村と坂田は互いに『中国民報』と『山陽新報』を交換し合っていた。
解剖学の上坂教授については本会報八八号で紹介しており、医学部門で初めて学士院恩賜賞に輝いた碩学である。一九〇〇年三月府立大阪医学校(現阪大医学部)から転任して講師嘱託、翌年五月に医学専門学校として分離独立した時に教授に就任しているが、排斥運動があったという記録は他に見られない。
岡山のニュースがドイツに届くのは電報以外は一ヵ月以上もかかっていた時代で、九月中旬の新聞に掲載されたものと推測できる。参考までに山陽新聞社社会部記者の井谷進氏に調査をお願いした。『山陽新聞』は中国民報と山陽新報が合同した新聞社で九月一八日の山陽新報に報道されたのは次の記事である。
「◎上坂講師排斥運動
第三高等学校医学部講師上坂熊勝氏は、曩に赤座教授の後任として来り、組織、解剖の二科目を担任し居たるが、学説頗る新しく良講師の名あり。一般学生の気受け宜しきに関せず、頃日(このごろ)氏に対する排斥運動を試みつつある一派の生徒ある由。而して其の生徒は主として本学年の落第生に多しとの沙汰あり。以て概ね其原因する所を知るに足らん。」
この日の新聞には「去る一三日より執行中なりし延期試験は昨日を以て終了した。其人員は三名にして孰れも二年級生徒なりし」との記事もある。また「第三高等学校医学部にては既報の如く、来る二十四日より卒業試験を執行する筈なるが其日割は左の如し」と、解剖学、組織学、眼科学、内科学、外科学、薬物学、病理学、生理学、婦人科学、小児科学、衛生学、法医学の日程を発表している。当時の卒業試験は基礎七、臨床五、計一二科目で、基礎の方が多かったことはわかるが落第についての記載は見られない。
記事によると上坂の講義は新鮮で学生に好評で、及落に関しては安易に妥協しなかったらしい。そのため一部の学生から排斥の声が上がったのではなかろうか。しかし一連の学校騒動の背景として、当時の教育制度の時代的な変革を考慮しなければならないのであろう。
一九〇〇年(明治三三)は、岡山に第六高等学校(六高)が開校した年である。それまで第三高等学校医学部は、近畿、中国、四国で唯一の国立の医学部であり、西日本における医育の中心と自負していた。岡山は医学専門学校として独立するが、京都には関西で初の帝国大学医学部が新設された。そのため岡山の優位性が失われ、将来への不安もあり、さらに新設大学へ優秀な教授が引き抜かれるなど、学内に不満が鬱積していたものと思われる。『岡山医学会五十年史』(一九三九)も指摘していることで、本学にとって苦難の時代であった。
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